みんなで考えよう子供の教育














































































































































 子供の教育と云うものは本来、家庭でやるものか・・学校でやるものか・・と云うのが随分以前から論じられてきた。人間社会にとって尤も基本的で単純なこうした問題が、いつの世になっても設問の対象になる・・というのは何と嘆かわしいことか。                  
家庭で・・親の責任において行うのが当然のことである。勿論、ここで云う教育とは人間的、情操教育のことである。人間的素地、精神の土台をつくるのが目的である。                        
家庭で、その土台の出来ていないのが、単なる学校の成績なんかで中途半端な人格で社会に出てくると、きまってろくなことはしない。社会に害を及ぼすくらいが関の山だ。                      
地位が高くなったり金ができたりすると、尚更始末が悪いのだ。何故なら、その地位や財産というものは、その人間の人間性的次元において発揮されるからである。                           

だから親は家庭での実生活において親の生き様などを通して肌で子供に教えなければならない。                        

私は10年程前に「中日ホームサービス」の紙面で論文を掲載していましたが、その中でも、こうした問題はしばしば取り上げて書き巷間の共感を得ましたが、その後も益々、政治の貧困から何ら進歩することも無く
置き去りにされている問題の一つである。                 
今日のように社会が進歩してくると、教育の過程で子供達が覚え込まなくてはならない知識と量は年を追うごとに負担を重ねてゆく事となり習う生徒も大変なら、教える教師のノルマと責任がずっしりと、肩に負ぶさってくる。                                 
その教師自身も家庭教育の何たるかも知らない両親に育てられて職のために先生になった・・と云うような人が多い学校の中で、どうして人間教育が出来ようか・・                           

 その点、一昔前の教師と云うのは余裕が有ったし、先生になるための抱負と云うものが豊かにあった。だから歴史に残るような先生と云う
ような人も多く現れ、親も学校で教育して貰えば・・と安心していた。  
そんな安心を今日に曳きずって・・いや、むしろ分かっていて責任を回避し、何かが有れば学校の責任だと嘯く親が多いのが現状である。    
私が現役の頃、感じたことは、仕事を教える上司はいるが、心を教えてくれる上司というものが皆無である・・と云うことだ。部下に精神的な指導をしようとすれば、当然、自分自身が、その教えの師たり得る生活信条と実践が伴わなくてはならないのだ。だから難しい。      

進学競争に巻き込まれている間に、子供の本来持っている個性的な能力、特徴と云ったものが失われ、人間的価値観から云っても、その一部にしか当たらない記憶や演算の競争の世界で、中にはずたずた
にされて、将来を見失ったり、横道に歩み入ったりで混乱を招き、社会問題を引き起こしている多くの子供達を産出し、これを法律で罰し、何ら政治の貧困、無策の無さに対する反省が少ない。           
日本の政治家と云うのは、どうしてこう視野が狭くて、自分の周りにしか神経が行き届かないのか・・と不思議、感心させられる。      
いろいろの分野で日常起こる事件などでも法の整備や対策が後手後手になっていて、国会では自分たちの選挙当選に関わる問題だけは目の色を変えて論議している。こんな事では益々、一般国民の政治離れを加速して行くことになる。                        

 とにかく、自分の子供は親が責任を持って自家教育する・・これが本道である。子供を正しく見つめ接し、その素晴らしいところを見抜いてその子供に合った成長の道を先導する必要がある。          
                

                            
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