人間は自己の人間的次元で生命を昇華する
 
                     人生夢芝居

 !!!生涯、誠実と努力の研鑽を通して本物の人間に出会いたい!!!
       家は漏らぬほど、食は飢えぬほどがいい・・茶道の精神
に共感する
             自分自身の修行と努力を通して人を、また社会が素晴らしくなることに尽くしたい
                                                                表紙に戻る

「森濤石」の自分史・・・思うこと・行った事、そのまんま・・とりとめなく・・

 
@第二次世界大戦終戦後、17歳頃から書画の道に志して命懸けの勉強をする。
 A 時の大家の先生方に認められて書画の道で大いに発憤する。
 B母や姉の願いで、半年に亘って苦慮した後、仕方なく一生の悲願・書画の道を断念し、写真の世界に身を投ず。
 C義兄の死後、姉を助けて名古屋に転居、店を新開店する。
 D姉と意見が合わず、袂を分かち自分の道を行くことにする。
 E職を求めて中京自動車学校に勤め三年目頃から校風刷新に努力し、詩吟と書道を通して多くの人材を育成する。
   在職中に当校から全国千余校の頂点「全国学校労協議長」を出す。私は労組委員長として、学校始まっての労働協約を締結す。
   この時期、名城病院で入院の母が既に医者から見放されたのを、東京の日本CI協会で1年間学んだ「正食医学」からの応用で当時、「ゲル    マニュームと私」を著されていた東京・小田急線成城学園駅近くのゲルマニューム・クリニックまで出掛け著者の浅井一彦先生に会い、薬を手   に入れて、母に与え、たちどころに母の病気を治し、40年以上、家を出ていた母を自宅に連れて帰り一生面倒を見ることに妻と二人で決めた
 F中京自動車学校ては20年務め定年退職してから、失った50年を取り戻すべく、青春時代の志しを再び遂げて死せん・・との強い決意から
   小牧で新築し子供達を結婚させたり、思い出深い20年余り住んだ屋敷を全て売却、妻と二人で八百津町の潮見へ転居。
 G本格的な書画の修行に入る。 


 古来より,世の中の人間模様を眺めてみると,誰しも思うことは一体、人間の偉さと云うのは何を指して言うのか!!
と、考えさせられる。地域や職域で地位が高いから偉いのか・・金や財産を沢山持っているから偉いのか・・
 私は昔からそんな風には考えていない・・
高い地位に居る人間なら、それぞれの地位の高さに似合うだけの立派な事をしてこそ偉いのであって、まして地方の状況等を垣間見ても年功序列的で下から上がってきて責任のある立場に立っても、殆ど能力の低い人達が多い、ましてその分野が「芸術文化の発展」ともなると、それなりの見識が問われる世界だけに、単なる事務畑からの起用では土台、無理な話なのである。結局は税金を食って、そんなのが新しい地域の発展を妨げている例が身近でもよく見られる。
 また、自分の私利私欲にばかり走って好き勝手なことばかりやっている人間達がマスコミの餌になって世間を賑やかにしている。金の力で地位を得ても人間的次元の低い輩は必ず地が出て来て、いつかは化けの皮が剥がれる。他にとって代わる人材が、その地位に居ればどんなにか世の中の為になることだろう・・

 財産を蓄えている、所謂、金持ちと云う人種も同じ事で、単に金を抱きかかえているだけなら、世の中の流通を妨げているだけの
存在でしかない。その財産を世の中のために、どのように立派に生かせることが出来るのか、それが金持ちの偉さではないか・・
金を儲けることも、その事だけを目的をおくのであれば、単なる金の亡者でしかない・・
 個々の人間が、それぞれ何に生き甲斐を感じるか、それがそもそも人間性の次元と云うか・・ それが置かれた位置、立場が変わ
ると、より素晴らしくなる人間と、地金が出てきて人間の弱さとでも云うのか、自分を見失って駄目になっていく人間とに別れる。

 一般論・・繁栄とは・・都市でも商店でも、個人でも

 都市でも商店でも個人でも繁栄するためには、一把ひとからげ、で何処にても有るような存在であっては望むべくもない。

 
商店で云えば
色々と商品を並べてみても、何処にでもあるような物なら他店に比して格別安いか、特別にアフターサービスが行き届いているか、その
店まで出掛けて行くだけの魅力が必要だ。そうで無ければ少しは売れるだろうが繁盛とまではゆく訳がない。
端的に云うなら、その店に行かなかったら、他店では買えない・・また、食べられない特別の商品なり、食べ物を提供している・・、基本的
には、それが備わっていて、付帯的な人間的情緒サービスが加味され、その店の他に比べて秀でた特殊性、優位性が繁盛をもたらすのだ。
そうで無ければ「駄菓子屋」的、存在で魅力を売るのではなく、単に自己の労働を売っているに過ぎない。

 市町村で云うなら
 其処に住んでいる住民が町なり村なりを、心から愛していなければならない。これはどの地域でも同じことだと思う。しかし、これは地域によって永い歴史の中で培ってきたものが違うので、当然のことながら町民性とか村民性と云うものに違いが生じている。
商店や企業でも、協力して直接利益が自分に還元される性質のものでないと容易に負担の協力を惜しんでしまう。百年の先を見据えたような事業は、それが素晴らしい事で、努力している人を知っていても郷土愛に基づく精神が根底に無いと、利益を結構出している企業や商店でも無理である。他に比べて優れた立派な市町村にするためには、地域の為になるような発言なり行動なりを、心を込めて実行する人達が多くを占めていなければならない。なかなか、そうは行っていないのが発展しない地域の実情である。その地域がどんな処かを知ろうと思えば、どんな人達が大きな声でものを云うか・・発展する地域では建設的で常識のある人達の声が大きいし素晴らしい事は次々と実現されていく。 発展してゆかない地域の住民というのは、こうした良識の層の声が小さいか、陰で囁かれる程度にしか表現されない。温和しく弱々しいのだ。それに引き換え、大した能力も無い人間に限って程度の低い自己主張で我を通そうとする。自分が・・自分が・・との思いが良識を消し去ってしまう。 安定した発展地域では、過去の良識層が地域の発展に大きく声を出して貢献してきた結果だ。

 私は若い頃から一貫して自己の修行と芸術の完成に徹してきたので、人がよく観える。この人は人間として、どれくらいの次元的、考えで活動し生活しているのかが、良く分かる。何か素晴らしい事で、頭を少し出そうとすると、力の無い指導性の小さい長は一般に尻込みして、前例が無い・・とか、特別扱いは・・等と言い訳し、力を相殺し、平均化してしまう。自己保全の典型的な形だ。これでは発展の為の芽を摘んでしまう。
 それが事、芸術文化の発展と云うことになると、地域を引っ張ってゆく役所の上に立つ人達に、芸術文化に対してそれなりの見識や高い指導性が必要になってくる。そうでないと自信を持って事に当たれないし発言も弱いものになる。一般的な生活上の問題と違うところが其処に有る。
 
    第一章  書画の道
 私の信念と情熱(今日の森濤石に至る軌跡の詳細)
 私は20歳代の始め頃より書画の道を志して京都東山の清水寺近くの一角で只一人画業の研鑽に励んだ。終戦前からこの家で母と住んでいたが私の4歳上の姉が京都で屈指のカメラ屋に嫁いで子供が生まれたことで、母は我が家を出てカメラ屋のほうへ行ってしまったのである。
私は一人になって京人形や扇子の絵付けなどを収入にしながら、朝は5時くらいに起きて夜遅くまで毎日、画業に励んだ。絵の方は大阪の有秋会
・久保田耕民先生から通信の教育を受けた。通信なのでお手本は送って貰えるが、描くところまでは見ることが出来ないもどかしさは有ったが、それでも仕事の絵付けと両立させながら必死の修行を続けた。
 その内、絵が少しは描けるようになった頃、完成時に落款する毛筆書の拙さに、書も絵と並行して勉強することの必要を感じて日展の谷辺橘南先生の門を叩いた。谷辺先生は仮名書の専門家で当時、近くの大谷女子大学で書道の先生をしておられた。三年くらいを経て谷辺先生主宰の書道展で何度か賞を戴くようになってきた。先生は私の努力と漢字書の力量を認めて下さって、ご自分の師匠である辻本史邑先生を紹介して下さった
 辻本史邑先生は当時、奈良のご実家から京都の二条木屋町の善導寺と云う寺に出張指導に毎月1回来ておられた。辻本先生は日本書道美術院会長で、日展に初めて第4科の書道が設けられたときの初代審査員である。先生は昭和32年に他界されたが、今日の日展で最高位で文化勲章受賞の村上三島や今井凌雪など漢字の書家の多くが先生の弟子である。話を戻して・・それからと云うものは日に千文字を書くという悲願を立てて頑張った。為にろくろく収入も無いときが多くなり、食うや食わずの日も結構有ったが頑張り通した。

 一人住まい修行の家・20歳頃


   濤石の26歳頃    々32歳頃              々21歳頃        々 20歳頃
   辻本史邑・手本  岡本白濤・手本     谷辺橘南・手本    内藤基土・南画・京都ご自宅

                                                                                        
久保田耕民・日本画・大阪(有秋会)

 上に掲げた諸先生は私の青春時代の恩師である。
 ここに掲げてないが河野秋邨先生には烏丸通りの御霊前町のお宅にお伺いして
 ご指導を戴いた(当時・日本南画院会長)

 当時の南宋画壇長老 
若王寺の画神堂・会場前にて小生20歳頃撮影・当時前列中央の
 内藤基土先生に師事していた。内藤先生から河野秋邨先生を紹介していただい
た。
                                                                           内藤基土先生の色紙絵
耕民先生通信手本
     この当時、京都東山に因んで東嶺と号した










 「個展歴」参照




 人間万事塞翁馬

 設題の通りで、苦しい厳しい毎日の連続であったが、自分の選んだ修行の明け暮れは生きることの喜びに溢れていた。
そうした、一人暮らしの修行の明け暮れが思わぬ事態を招いてしまった。

 
書画の修行を断念して写真の世界に身を投ず
 私の姉が後妻として嫁いでいたのは、当時の京都では3本の指に数えられるカメラ店で、中でも義兄は全国写真材料商組合の顧問であり、京都府警の写真・撮影関係の講師を務めていた。歳も姉よりはかなり離れていたようだ。その道で確かに他を寄せ付けない実力があった事は事実だが、横暴な面も多かった。
 当時の私は一人住まいの、長屋の一軒家で一生の夢を書画の道に求めて当に命を掛けた研鑽に没頭していた。そのお陰で書の方でも絵の方でも、時代を代表する大家の諸先生に認められて一本調子に進歩の階段を登って行くかに見えた。ところが、 そんな私の住んでいる住居の近所から姉のカメラ屋に通い女中として務めている人達が居た。そんな人達が修行中の私の評判を店にきて「奥さんの弟さんは・・・」と話すものだから、それを何度も聞かされた義兄が「武男を店で働くように云いなさい・・・」と、とんでもない事に波及してしまい、姉の生んだ子の面倒をみる為に、店に同居していた母と姉が、私を説得すると云う苦しい立場に追い込まれてしまった。 私は頑固として自分の決めた初志を曲げるわけにはいかないと固辞し続けたが、ついには涙ながらに頼む母の願いを断り切れず、写真の世界への方向転換を余儀なくされたのである。
  当時、京都の三大カメラ商は「カメラのさくら屋・三條つばめ屋・ムツミ堂」であった。これら大家の旦那衆は、時期は忘れたが、その時期が来る
と、お化けと称して四条河原町の大店の旦那衆が祇園の先斗町界隈に繰り出して、それぞれ仮装を競い合い遊ぶ風習があった。


                        ↑ これは、京都府警で撮影や
                           16oの現像技術を指導する        
      義兄のある日                左の二人がサクラヤの
                               矩弘君と弘江さんの
                               仲人をした服部雅堂
                               氏ご夫妻と私の母で
                               馬上は姉の長男雅巳
                               祇園祭の関連行事で・・
                           →
左の2枚の写真は何れも姉と義兄(山本雅久氏)で
右はそんな、月形半平太と芸者、幾松の仮装である。

 
 そんな事情で私は姉夫婦の経営するカメラ屋の四条河原町の本店の方で働くことになった。通いは自宅の東山渋谷から原動機付き自転車を購入して使った。店に勤めてみて、義兄の余りにも横暴な日常生活を見て、姉が可哀想でならなかった。本店でカメラの接客・売買についてある程度修行した後、寺町にある支店の方へ移った。
 初めて店に勤めるようになってから3年位になった頃か、・・義兄の姉に対する店先やプライベートな酷い態度に我慢が出来なくなってきていた。私は義兄と別れて東山に帰ってくるように勧めて、姉の為に三畳の離れ座敷を近くの大工に頼んで増築して貰った。その上で私は義兄に云うだけの事を云って、店を辞め東山に引き揚げてしまったのである。今、思うと余程、腹に据えかねたのだと思う。義兄の私に対する態度は決して悪いものでは無く、期待の大きいことが伝わってくる位だ。しかし、私の心境としては、どうにも為らなかったのだ。


 再び書画の道を取り戻す
 私は東山の自宅の人となり、再び以前のように書画の修行に励むことになった。絵の方は既にご指導を戴いている大阪・有秋会の久保田耕民先生の他に、二柳居と称され二条柳の馬場にお住まいの南画家、内藤基土先生、また先生からの紹介で烏丸御霊前町下がる広大なお屋敷の大竹林に面した縁側が今も深く印象として残っているが、この邸宅で何度もお会い戴いて、若造の私に親しく指導下さった河野秋邨先生は雲の上の人であった。当時、たしか日本南画院会長であったと記憶している。

 この頃に、私は菅楯彦主宰の「京都文人画会」に席を置くようになって二条木屋町の善導寺での展覧会にも出品しまた。後に、この寺で
奈良からご出張指導をされている辻本史邑先生のお手本を戴く事になろうとは、全く予想していない事だった。
 そんな月日が流れて、修行に打ち込んでいた私に対して諦めきれない義兄が、再び話を、姉を通して持ってきた。今度は写真のDPつまり写真現像その他、技術の世界で・・と云う事だ。今度も執拗なまでも強い申し出で、今度もまた、母や姉が困り抜いたのは云うまでもない
 人間の性格にも依るが、私の場合肉親の情と云うものには勝てない弱さと云うものを思い知らされることになる。

   第二章 写真技術の世界へ
 再び写真の世界へ
 全くだらしの無い話だ。義兄は16o映画技術者としては当時、京都府警の講師として指導し、東映撮影所とも取引が有り、色々と指導していたくらいだ。その義兄の弟子に出店させている店が四条大宮の方にあるから、2週間程、習いに行ってから自宅に暗室をつくり、今まで弟子の店にやらせていた現像・焼き付けをお前の方でやってくれ・・と云うのだ。全くの素人に2週間で京都を代表するカメラ屋のDPを任せる・・と云うのだ。これは、どだい無理な話だと思ったが、私はその店に出向いて学ぶ事にした。
 しかし、思いの外、一週間も経つと、その店のやっている事が、全くまどろかしく、つまらなくなって、予定の半分の日数で通うのを辞め、もうこれで、後は自分の思い通りにやることを義兄に宣言したのだ。この程度の事でよく現像所が成り立つものだ・・との思いである。
 しかし、これでいよいよ後には退けない背水の陣を自ら布いた事になる。実際、私にはその段階で既存の現像所よりかなり高度なレベルを実現する自信が実感として有ったのである。


 いよいよ自宅に現像室を
 姉が帰ってくる時の為に増築した3畳の部屋が、結局、長男が生まれたことではあり、そう簡単には別れる気持ちになれない姉の気持ちを痛感した。こうなれば自分の将来の目標を写真の世界に乗り換えて、身内の為に再び頑張るしかない。私が母や姉、また姉の長男を支えてやろう・・との気持ちに割り切ったのだ。3畳の部屋を板張りにして一番奥の1畳余りの狭い囲いに戸を付けて暗室にし他の2畳を乾燥機等を設置して仕上げの作業場にした。最低限度の広さだが、それでも何とか仕事が出来ると思える設備は出来上がって恐らく営業用としての現像室としては恐らく最低限度のものだと思う。
 しかし、実際の仕事は全て順調の滑り出し、私は何をやるにも、やるからには命懸けの努力をする。暫くして、こんな狭いチャチな暗室から質の高い写真が安定して供給できるようになった。
 その頃、書家の谷辺橘南先生が書道誌「書窗」を発刊されていて、会員や先生方の作品を自ら撮影して私の方へ、持ち込まれ「書窗」に掲載する印刷の為の印画を色々なサイズで注文され、私も師匠に協力した。また、奥谷四郎なる弟子が来るようになり仕事も本格化していった。
 こうして一年近く経った頃、店の義兄から、全てをお前に任せるから、本店の裏に本格的な現像所を構築して貰いたいと云ってきた。
さすが、商売人だ・・軌道に乗るまで自宅で研究させて、本調子になってきたら、店でやらせようと云う訳だ。やられたな・・とは思った。
しかし、此には私も余り抵抗は無かった。研究する事は好きだったし、自分の思い通りに実力の発揮出来る、やり甲斐の有る仕事としての実感があり、身内の為には仕方がないことかな・・と承諾した。

 「さくらや本店」に現像室を・・

 設計・企画の全てを私に任せられているので、責任は重いが、やり甲斐はある。
当時の写真材料の卸商である常磐薬品や近江屋で暗室資材を調え、三品木工に造作を頼んで超特急工事で完成した。フイルムの現像は大型の檜水槽に灌水装置を施し、その中に30糎角で高さ75糎程のホーロータンクを3個沈めた。当時は今日のような自動現像システムが発達していないので、全て、手作業に依らねばならない。
 新しい現像室での作業開始まで余り日数は掛からなかった。新しく羽田・山本・吉岡・柴田の経験者を雇い入れて、奥谷四郎と4人が助手であり弟子とした。奥谷以外は5年前後の経験者であるが、私から見て全くの素人と同じで技術は幼稚で、本人達も1年余りしか経験の無い私の指導で世界が変わったようで「写真って、こんなに難しいって思わなかった・・」とこぼしていた。竹ピンの持ち方から教育した。
 それから本格的な仕事が次々と入ってきた。サクラヤは当時、東映撮影所とも取引が有ったので、薄田研次?長田某?を始め多くの俳優や女優達も訪れていた。俳優の高田浩吉の娘で高田美和の生まれた時は、纏まって数百枚のプリント注文が有った。写真家では「女性新潮」であったか?当時、ヌード写真家で有名に為っていた中村立行氏が仕事で京都へ来た際には必ず、私の処で掲載の為の印画を依頼していた。

 後記・・06/04/21 それこそ久し振りに、箕面市に住んでいる奥谷四郎君に電話した、電話は九州の、彼の愛孫の方へ転送されて、色々話した。明日には帰る予定らしい。昨今「エホバの商人?」と云ったか、ボランテア活動をしているらしい、当時の話を聞くと私の記憶で、先に書いた者の他にも現像室に携わっていた人がいたようだ。話していると、その頃が懐かしい・・・


         

                平成20年76歳の 高森和子さん2億円の寄付をする  

                                          l
マキノ芸能社のニューフェイス達   http://www.asahi-welfare.or.jp/info/2008/toukyou/takamori.html

 私が誘って嵐山へ・・
  中央・ 当時のトップニューフェイス・桜真智子(現在の作家・高森和子女史)                                      
  ↑この桜真智子はボートに同乗して私が撮った。                  右端が小生

  清水寺へ出掛けて私が撮影した
  桜真智子さん当時16歳





       高森和子女史

       現在は小説家として、また病気のお母さんに
       尽くされた生きた経験を、各地の講演を通して
       話され社会に貢献されている。  
          



私のカラー
現像・プリントの
研究に協力して
戴いた。
アグファー・ネガカラー
コダック・ポジカラーを
数多く撮影して現像や
焼き付けの試行錯誤を繰り
返して完成へと近づいていった。
度重なる転居で当時のカラー
関係の資料を無くして残念だ。


現像室の仕事も安定し、技術の質の高さで多くの顧客の信頼を得た。私は何をやっても、これで良いと思うことは絶対に無い、何処までも追求する精神は死ぬまで変わらないだろう。 時代はカラーを要求している。いよいよカラーの時代が、もう其処まで来ている・・と、私は時の息吹を強く感じていた。

 カラー現像室を新設
 私は社長である義兄に、これからはカラーの時代だと強く進言し、河原町通りに面した店の奥に続いている暗室とは、20b近く離れた新築の母屋に適当なスペースが有るので、社長を口説いて納得させ、鰻床のようなスペースの処へ、カラー現像室を新設した。当初は先ずネガカラーの現像と、そのプリントの研究から始めた。やると決めたら、私の行動は電光石火だ。



 (これは昭和33年5月17日.18日の日記である。私は77歳の今も昔も必ず日記を書き残しているので当時の様子がよく分かる。)

これで見ると、この年の5月17日は大阪へカラーの講習を受けに出掛けている。18日の日記には社長への思いが書かれている。とにかく私は、京都を代表するカメラ屋の現像室を預かっている者として他店に劣る技術者であってはならないと深く自負していた。
 

 京都大学の藤原元典名誉教授のアリナミン発明に伴う宮中参内用写真を作る
 次の年、昭和34年、店が出入りしている京都大学の名誉教授・藤原元典教授がアリナミン?だったか、ビタミン、かの発明で恩賜賞を宮中に参内して陛下から戴くことになり、その説明の為の材料や製造過程の写真をアグファカラーで撮影してこられて、宮中に参内して陛下にご説明する資料にしたいのでと来店された。当時、京都では、それを引き受ける店が無かったとの事で、私がお引き受けした。私も未だ研究中の事ではあり、特に自信が有ったわけではないが、他に引き受けてくれる店が無いと云われては後へ引けない。とくにアグファカラーは初めての事であり、色々の処から文献を取り寄せて、丁度、姉の子の家庭教師に来ていた大学生に翻訳してもらい、猛烈に勉強した。泥棒を見て縄を編む・・・の如しであった。

(↓下の写真は甥の雅巳と私の翻訳を手伝ってくれた家庭教師)

 しかし、努力の甲斐あってアグファカラーの現像からプリント仕上げまで完成することが出来て、大変喜ばれた記憶がある。
(この時期、余りの忙しさで日記が書かれていないことを知った、そこでインターネットで検索して調べてみると、ビタミンB1の発明とある。何しろ50年近くも昔の事だが、一連の作業記録の中で、ニンニクの画像を印画にした記憶がある)・・・正確を期す為(06/03/31午後9時頃藤原先生のご自宅へ電話したところ奥様が出られて先生は既に13年前に亡くなられたとの事、それもゴルフ場で・・と話して下された。四条河原町のサクラヤと云う・・とまで云ったら写真屋さんですね、と直反応され、写真の事で色々と主人がお世話になりました、と申されていたが私のお聞きしたいことについては、当時から難しい話は私などに一切しない人でしたから、お役に立てなくて済みません・・)と謝しておられた。何れにしても私が大事な写真をお引き受けした先生であることが確認できた「電話帳図書館・京都府内の名前検索使用」

  
カラー研究の私の現像室ではネガフィルム→ポジフィルムへ研究の意欲が増す
 アグファーカラーから、コダックのポジフイルムの研究に入った。ポジフイルムの現像は一度、現像して必要の無い銀を溶解駆除してから、光線をそのフイルムに照射して再現像して反転しなくてはならない。この照射時間を結果に基づいてフィードバックし、何度も何度も試行錯誤し記録をとってゆくので大変根気のいる仕事である。この時期、テストのポジフイルムを作るために、女優の桜真智子さんが被写体になって協力してくれた。これも若い時期の思い出である。
 この少し後、彼女は当時の高山義三京都市長(同級生・高山寛の父)が名付け親となって嵯峨野美智子と云う芸名で映画「忠治山形屋」の中で老父に売られてきた不憫な少女に出演していたのを記憶している。其れを最後に、私の視界から消えていった。

                                        
   福子21歳

 私達の結婚
 昭和27年5月3日、私が22歳、福子が21歳のとき四条通り寺町下ルの浄教寺と云う寺で私達は結婚式を挙げた。彼女は京都地方貯金局で働いていたが、私が当時、名声寺と云う寺と自宅で書道教室を開いていたが、近所の子供達と同じく、彼女の友達と一緒に習いに来たのが縁で、意気投合して結婚することになった。

 「カメラのサクラヤ」の長男、矩弘君の嫁を彼女の自宅まで行って貰い受ける・また次男の結婚では仲人を務めた
 こんな慌ただしい日常ではあったが、写真以外の事でも私の役割は決して少なくはない。長男の矩弘君は既に亡くなっているが、その妻の弘江さんは健在で、東京へ勉強に行っていたと云う彼女の長男と後を継いで頑張っている事と思う。彼女の父親は京都で有名な寿司の老舗「いずう」の料理人であった。私が話しに行った後、仲人には当時の鞍馬寺住職の弟で補陀洛寺(小町寺)住職の服部雅堂氏にお願いして式を挙行した。
 また、次男の浩君は義兄の命で私が一人で仲人を務めた。ここが型破りの義兄である所以でもある。彼の嫁は私の同窓で、湯葉製造業の神福と云う人の妹で、飛びっ切りの美人であった。彼は私と同窓であったが、私が二人をとりもったのでは無く、相思相愛の中であり、仲人したのは偶然であった。その次男も、これを書くかなり前に亡くなって、兄に聞くと彼女は琵琶湖の辺に移り住んでいるとの事だ。


 社長の死で姉を助けて名古屋に転居す。
 義兄の山本雅久氏が全国写真材料商組合の行事で金沢の街を、左右に舞妓達を侍らせたオープンカーに乗って巡回中、蜘蛛膜下出血で倒れた。その時の処置がどうであったか分からないが、死亡したので急遽京都から現地へ迎えに行って、車で連れ帰った。
享年60歳と云う若さであった。

 私は義兄が亡くなったことで、もう此の店にとどまって写真を続ける必要が無くなったと、解放される事を期待した。緊張し続けた年月の疲れからか結核を患い、京都北辺にある博愛会病院に入院した。私が詩吟と出会ったのは、その間のことである。入院して1年位経った頃には殆ど体も回復していた。
 ある日、新聞の片隅に出ていた記事に運命の出会いを感じた。それは小菅一男なる人が伊豆地方の一角で催眠術の指導をしていて生徒を募集していると、あった。その先生は戦時中、枢密院の中で人材育成の為の教官をしていたそうで、是非一度、会いたいとの思いに駆られて病院に外泊届けを出して現地へ出掛けていった。
 もう50年近くも昔のことで記憶も定かでないが、鎌倉の円覚寺であったか、其処で講習が有った。寺の向かって右隣に川端康成の屋敷が有ったのを記憶している。催眠術の講習は面白かったが、何だか私にはそぐわない思いで過ごした。しかし、その寺にまつわる武将の物語に聞き入る者は皆、落涙した程、先生の話には情が隠っていた。そして講習の余暇に小菅先生が咏じられた詩吟は更に一段と心に染みるものであった。その時から私は詩吟の虜になった。

 私の結核も完治したころから、姉が京都の店を小姑達に分け与え、先妻の長男に店を譲って、自分は僅かな取り分を頼りに名古屋で店探しをする事にしたのだ。私は姉の願いをここでも聞かぬ訳にはいかなくなって、名古屋の隅々まで車で走り回って店探しをした。京都の店で事務員をしていた女性を亡き義兄と二人で取り持って結婚させた事が有った。その男性は当時、カメラの仲買商人で全国を回っていた人だが、テレビ塔の西側で大丸商会として、ビル経営とカメラ商(広瀬武正氏)で成功していた。この人を後見人に頼んでの名古屋移住である。
 店も何とか東新町のビルの1階に開店する事が出来て、少しづつ売り上げを伸ばしてきたが、名古屋での店作りに、京都の店から連れてきた商売の方の番頭役の男が、姉の弱味に付け込んで不遜極まりなき行為を度重ねるので、このことに付き姉と話し合ったが、男同士の話を姉がさせないので、私は姉と袂を別って店を辞める事にした。ここで私の役割を終えたいと決断した。

    ここで人生の回り舞台は中京自動車学校へと移る