権力・利権・物欲の世界を感動のある世界に

 盲亀浮木(もうきふぼく)

 感動無くて何の人生・・・
 これが、私の生き方を代表する言葉です。人が胸中に発するポジティブな感動は、時にはその人の細胞をも再生させる働きが有る。

 或る老いた登山家の感動・・は
いつかテレビで報道していた登山家の話に・・その人は若い頃にエベレストに登頂を果たしていて、現在は癌を病んで医者から。末期症状と宣告されていた。
 彼は思ったのだ。いずれ長くない人生だ。もう一度だけ、あのエベレストに登ってみたい・・そしたら俺はいつ死んでも悔いは無いと・・
その命をかけた思いに、彼の子供たちが心を動かした。
 そしてそのエベレストへの登頂行がスタートした。健常者であっても大変な登山である。登山家の誰もが一度は登ってみたいと思う夢の登頂舞台だ。しかし、末期癌の彼には果たして可能かどうか、子供達に助けられての登頂とは云え、どだい無謀な戦いである。
しかし、それは敢行された。そして登頂に成功した。その意志の強さ、思いの凄さ、そしてその山頂に立った時の、彼の胸中に湧き起こる感動たるや、何人も、その思いを彼と同じくすることは不可能であろう。
恐らくかれは、その感動に慟哭し震えたことだろう。
 その喜びを山に残して下山した彼は、それまで世話になっていた医師から、癌の症状がかき消すごとく無くなっていることを告げられたのだ。まさに彼の決死の登頂で胸中に湧き起こった感動が、彼の細胞を再生させたとしか云いようがない。
かれは、まさに人生において大きな感動を二度も得たことになる。その感動によって自分の命をも再生させたのである。
 
日々の感動・・
 今は交通の便が昔と違って山田舎の奥に住んでいる人でも、時には海浜に出かけていって広々とした大海原をみることも、ごく普通の出来事となったが、交通の便が悪かった時代の人達が一生、生まれ育った山間の土地で生涯を終えることは決して珍しいことではなかった。
 そんな人が、たまたま何かの縁で土地を離れ、生まれて初めて訪れた海浜で大海原を眺望したときには、「あれまぁ・・これは・・」と云ったかどうか、大きな感動を受けたに違いない。
 さらには、また初めて富士山に登りご来光を拝んだときも驚きと感動で、まさに生きていることの実感をしみじみと感じた事であろう。
そんな時、仮に何の感動も覚えなかった人が居たとしたら・・どうだろう、恐らくその人は心が死んでいるいるに等しい人と思わなければならない。

 大なり小なり「感動」は人間が生きている証である。心に感動の起こらない人間は死んでいるに等しいのだ。
そんな人間の感動が人と人の間を繋ぐとき、感動のある街、生きた街となり、街は栄え人々は、そんな素晴らしい街の住人であることを誇りに思うのである。感動の無い死人の街を作ってはならない。

 ・・・で、我々人間は生きている間にどれだけ、人に多くの感動を与えられるか・・又、自分が受けられるか・・これが真実生きたことの実感として、素晴らしく生きた・・また、素晴らしい世界に生かされたことを感謝して人生を終わることのできる幸せだと思う。

 有り難い
 これらの事からも、「感動」とは有り得ない・・有り難い・・と云う言葉で表現されるように<希にしか体験できない、とか、或いは一生に一度しか体験できないとまでは云わないまでも、その事が有る・・その事が体験できるのが難しい事。有り難い事・・との遭遇で生まれてくるのが感動では無かろうか。
 日常生活の中で常に経験している事に出会っても感動と云えるものは決して湧き上がってはこないのが人間である。
私は自分の厳しい修行の中で人の心に感動を呼び起こすことで、自分自身の幸せを感じてきた。それだけに人の行う心ある行動や人情には、些細な事でも心を動かされる。我が街の「人道の丘」に祭られている杉原千畝の物語は何度聞いても涙なしにはいられない感動を覚える人間愛の世界である。

 有り難い・・と云う言葉は一体どこからきた言葉であろうか??
私は昨年の十月に町の小学校六年生を対象に精神講話をしたことが有った。「皆さんは自分が人間としてこの世に生まれたことが当たり前の事と思っているでしょうが、当たり前では無いのですよ・・」と、人間と生まれた素晴らしさを対象としての動物の生態を例にとって色々の角度から話して聞かせました。
 日頃の勉強とは別世界の私の話に子供達はたじろぎもせず聞いてくれた。打ち合わせの段階で先生方は「この頃の子供達ですから、恐らく先生の話をじっと聞いているとは考えにくいし、いつものように何か有ったら私達が制止に入りますから・・との事であったが、先生達も吃驚されたようで、子供達は1時間近く私の心に関する話を熱心に聞いてくれた。

 盲亀浮木
 仏教では人間に生まれたことは大変有り難いことだと雑阿含経の中に盲亀浮木の譬喩として説かれています。
ある時、釈尊が「例えば海の底に一匹の盲亀がいて百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に一つの穴がある。百年に一度浮かび上がるこの目の見えない亀がちょうどこの浮木の穴から顔を出すことが一度でもあるだろうか」と尋ねられた。
阿難と云う弟子が「そんなことは、そんなことは、殆ど考えられません」と答えると、釈尊は「誰でもそんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし全くないとは云い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例よりも更にありえぬ難しいことなのだ」とおっしゃっていられます。
                                               浄土真宗親鸞会著作引用
 私達は日常、有り難いという言葉をよく使いますが、この話からも分かるように、通常あり得ない、有ることが希だということから出ています。私は感動のある人間作りや感動のある地域社会を目指して、自分がその為の肥やしになればと思い、また自分に科せられた使命だととの観念から取り組んでいます。恐らく感動を多く生む素晴らしい地域社会では、そんな感動の次元社会を生きる人が数多くいることと思われる。自分自身が人に感動を与える生き方をしていない人は、当然、人や他から受ける感受性も浅く、人生の本当の生き甲斐というものを感じる力が弱い。極端に云うなら殆ど損得・利害の範疇の次元にのみ生きているかの如くである。