第三章  自動車学校時代

             


                                                                    表紙に戻る
       中京吟書会から・・有志による詩吟は、かくの如く受け継がれ発展していった。                         
                     玉も磨かざれば光無し・・かくして素晴らしい人材が育っていった    自分史に戻る

 私が中京自動車学校に就職したのは昭和39年3月であった。
姉に協力して名古屋の東新町に「カメラのヤマモト」を新開店し。自分なりに最大限の協力をしてきたが、姉との意見の隔たりを埋めることが出来ないことを知って、店を辞めることにした。
私は給料さえ貰えばそれで良い・・と云う人間ではない。人間としての考え方や行いが相容れない場合は、一緒にはやっていけない。

 店は辞めたものの家族を養っていかねばならない。資格としては京都で昭和34年に取得した自動車免許だけだ。
ちょうど、そんな時に中京自動車学校で指導員を募集していることを知って応募した。取り敢えず働き場所を与えられたのだ。
勿論、自動車学校とは、どんな働き場所か・・全く予備知識も無く、飛び込んだ次第である。
指導員講習を受けて正式に働き始めて2年程経った頃、漸く職場には慣れてきたが、甚だしく風紀の悪いのには驚くばかりだ。

  校風刷新に意欲をもって行動を起こす 

丁度、そんな時、京都のカメラのサクラヤに勤めていた男が、サクラヤを辞めて名古屋の明治製菓の課長となっていて、当校に免許取得のため入校してきたのである。全くの驚きであった。休憩時間や空き時間には、控え室の片隅で、オイチョ賭博、花札賭博と全く図にならない風紀の中へ曾ての知人が入校してきたのだ。京都時代の私を知る者にとっては、当に青天の霹靂である。
 私は、・・これはいかん。今まではさほど感じなかったが、この学校の校風を刷新するのは私の天命だと感じた。

そんな事があって、私は自分の今まで研鑽してきた詩吟と書を、この学校に広め、職員教育を通して校風刷新する決意をした。

 第1回中京詩吟研書会(昭和42年10月8日)
入社2年を経て、校内で書の指導を始め、夜の休憩時の15分に、コース内の坂の上で一人詩吟を詠じた。
詩吟は鎌倉の小菅一男先生に感銘を受けてから、詩吟の名家の詠ずるレコードは勿論、唐詩選の解説本を書かれていた先生が本の中で、自分の吟を録音して送る・・とあったので、送ってもらった。学者の吟はまた素晴らしいものであった。そのお陰で光音寺町の姉の住居の隣に住んでいた横山と云う女性が是非、私の詩吟を聴かせて欲しいと云うので出掛けて行って「小諸なる古城のほとり」を詠じた。横山女史は是非、先生が詩吟の会を起こしてください。及ばすながら私が回りの一切の事を勤めさせて戴きますと懇望されたが、既に私は「第3回関西吟詩名古屋支部大会」を栄の教育会館で参観し支部講師の伊東鷺伸先生を尊敬し傾倒していたので申し出を辞退した。横山さんは後に「白宝会」を起こされ活躍されている。その後、当然、私は伊東鷺伸先生に弟子入りした。
 余り乗り気でない社長や校長の尻を叩いて指導員食堂の壁に畳1枚位の木枠の中に、フェルトを貼って書作品を掲示する設備も造った。
    
 此処に掲げた記録はそれから約1年後、私が当学校に就職して3年7ヶ月を経て職員有志の希望も有って、近くの伊奴神社で第1回の
中京詩吟研書会を開催した記念の記録である。校内の最盛期は会員37名を擁した。その後、回を重ね私が喉を悪くして関西吟詩を辞するまで3年ほど続いた。こうして種を蒔いて育てた人達を尊敬する関西吟詩(現在の関西吟詩文化協会)名古屋支部の伊東鷺伸先生に託したのである



 
 その後の松尾強(柏伸)君について、ここに記録しよう。
 五年ごとの記念大会の報告を色々な形で送ってくれている。
 現在彼は関西吟詩文化協会北九州支部講師であるとともに
 北九州吟剣詩舞道響会・副理事長の要職にもある。


 私が中京自動車学校内で校風刷新の為に創設した「中京詩吟研書会」
 の会員を、尊敬する伊東鷺伸先生に託したが、その多くの人達の中でも
 彼は特に傑出した逸材である。



           右から伊東鷺伸先生(当時名古屋支部講師)
           二番目の方が伊豆丸鷺州先生(詩吟界の歴史に
           大きな名を刻まれた)名古屋支部大会の為の来名












 下に掲載したように、松尾柏伸君は、私のご尊敬申し上げている
伊東鷺伸先生の大きなご指導をいただいて、いまや吟界で大活躍
をしている。

                               


 松尾柏伸君の他にも中京詩吟研書会から巣立って行った人達がそれぞれ人間的に成長し社会の為に役立つ人として大成されていった人は多い。その2.3の例を中京詩吟のルーツとして此処に明らかにしておきたい。

右下の写真は昭和46年の正月に撮ったもので、毎年正月には「中京吟書会員」の作品を集会場に展示して新年明けましておめでとうございます祝うことにしていた。

前列の中央は任社長・鈴本校長である。 前列一番左にはコロンビアレコード主催の東海地区詩吟大会で優勝した吉村忠伸君(八百津町久田見出身)その後ろに居るのが私で右から2番目の背の高いのが松尾柏伸君である。ここに写っている人達は皆、それぞれに指導者として<その後も大いに能力を発揮した。













                                 作品の入選等級を決めているところ

 
                                                                
 この
「輪唱」は、私が労組副委員長の時に積極的に組合員を正しい方向へ
導く為の必要から創設したもので、私が委員長になってからは松尾強(後の柏伸)君が
編集責任者を引き受けてくれた。
                                 (関西吟詩文化協会機関誌吟好・平成13年度新年号)

         
























    (関西吟詩文化協会機関誌吟好・平成13年度新年号より抜粋               松尾柏伸君の手記・文面は左ページから続いている。) ↓

















  次に紹介するのは、当時、中京自動車学校へ毎日ご主人と二人で職員の為の牛乳を運んで貰っていた村上蘭伸(万喜子)さんである。私の在職当時から病気になられたご主人の世話をしながら詩吟を勉強されていたが、今日では関西吟詩文化協会の支部教室で多くの人達を指導し、且つ漢詩の研究にと、素晴らしく開花し女流漢詩人としても活躍されている。其れを下に掲げよう・・

 また、ここに付記したいのは、数年前にカメラ屋を廃業した私の姉が、老後の生き甲斐にと、詩吟の会に入会したところ・その会と云うのが、此処に掲載した「関西吟詩文化協会」の村上(蘭伸)万喜子女史の支部であったと云う・・姉からの報告で、其れを知ったが不思議な回り合わせである。 






 


 名実ともに学校を良くするには自分自身組合員の先頭に
たって指導する必要を感じ、やがて組合委員長として頑張る。







  校内ストを実行に移す前の秩序等について私が委員長訓辞をする      
  その最左端が小生・・中央3人が上部団体役員
                    











                     旧小牧の自宅で愛犬ケリーと
       







 詩吟の関係で受賞を披露する・・カップを持つのが松尾柏伸
 後列左から二人目が吉村正長・右端が村上蘭伸(当時は牛乳屋さん)




















                                                  愛犬けりーも私と共に安全運動に参加
  下の図は当時まだ
  漢字変換が不完全
  だった(シャープMZ-80)
  を使用して計算・作成
  等をした。
 ↓













      私が「書院−2400」を使って作成した半クラッチを
      理解する為の解析図である。左図のように指導車
      の車輪円周寸法から1回転の距離・各ギヤの抵抗
      を起こさない速度を割り出し、円滑なギヤチェンジを
      示すずである。










 当時、私は阿含宗・桐山靖雄の弟子として真言密教で精神的に自己研鑽の修行の中に有った。学校では校風刷新の文化的な方面の指導と、指導員としての技を極めるためにシャープの書院−2400を購入して色々と研究していた。今日では教習車両はオートマチック車を使っているが当時は、生徒が半クラッチで悩んだもので、私は独自に研究していた。故に、10分程度車を停めて説明するだけで生徒は上手くなった。しかし、これは考えが有って表には発表せずにおいた。


今日、健康で水墨画の創作活動に専念出来るのも
密教修行の中で縁の有った「正食医学」のおかげである。ここで夫婦ともに体の弱かったにも関わらず無医村の山中に腰を据えて、一生で最後の修行の場と決めることが出来たのである。



  
阿含密教の修行の証として
  授与されている   ↓


  阿含宗で学んだことは、その後の私の生き方に大きな
  指針を与え、其れまで以上に生き甲斐のある人生に一歩進めた。

   
毎年2月11日に桐山靖雄大阿闍梨によって挙行される
       京都東山の阿含宗大本山の大護摩法要







 ある年、 京都・祇園祭りへ中京自動車学校の職員大勢を伴って繰り出した。                            


               
無双原理と正食医学の研鑽
     私は中京自動車学校を定年退職した後、何れかの山間に移り住んで、若い頃の志しを貫徹
     したい意志が有るので、自分自身は当然のこと、妻や家族の体のことを考えて世界的に著名な
     東京の「CI協会・小田急沿線」へ1年の研鑽に出向いて、体と食の研究をした。今から28年前
     のことである。



 私が中京自動車学校で「校風刷新」を目的として活動した色々なアクションは、一般的に云って単にその会社に勤めている・・と言う普通の職員ではやらないことばかりである。個人的に精神を糺すために職員の家を単身、訪ねて行って、彼を正しい道に引き戻そうとして喧々囂々家族中を前にして諫めたことで、素晴らしい職員に立ち戻った事や、ある職員では、そんな事により、親戚の方から感謝を受け、記念の書を懇望され、それを一対の掛け軸にして家宝にします・・との事で、出来上がった立派な軸をみて、此方が感動した事が有った。その人は当時、東海土木の社長さんで簡易裁判所の相談役職でもあった。

 昭和57年の12月に第1回個展を名古屋駅前の毎日会館・ホルペイン画廊で行った。
その時期、私は「九遊」と称していた。九遊の由来は、当時、私が住んでいた小牧の自宅の庭に池を掘って鯉を飼いたいと思い立ち、堀りかけたところが、オイルショックで、セメントの入手が困難になった。そんな時、先に記念の掛け軸を書いたときの職員の親戚で東海土木の社長さんが15sのセメン袋を15袋届けてくださって、橋も架け、立派に池も完成したのです。その池に九尾の鯉を放したことからアトリエを「九鯉庵」と名付け、自身の雅号を九遊としたのである。その後、考えが有って、この池を埋め立て部屋を増築した。都合、7LDKの住宅になった。

   「九鯉庵」思い出多い濤石のアトリエ

この住宅は、もともと長男に後を譲るために新築し、且つ増築してきたものだが、結局子供達が巣立っていってそれぞれに家を持った関係で意味の無いものになった。


私は中京自校を定年後、青春時代の志しを貫徹したいとの厳しい覚悟を以て進んでいるので、何れは静かな山村に転居してアトリエを営みたいと考えていたので、この屋敷を処分することにした。

 これは人生に於ける最大の決断である。
幸い、子供達には独立自立心の精神を柱にした家庭教育をしてきているので、親の財産に頼ろうとか、生き方に自信の無い子は一人も居ないので、私の決断で何の躊躇もなく次の段階へと進むことが出来た。私の妻は昔から私と一心同体なので何の抵抗もなく、この歳で思い出多い家を捨てて地方の山中に暮らすことを賛成してくたのである。こんな決断を果たして何人の妻が納得して付き従うだろうか。


    森濤石旧邸・小牧市久保一色・九鯉庵の門                        
    ある日の、母の思い出




     九鯉庵の庭は色々な季節の花が咲き乱れていた。。


                                   
 





  
          昭和57年頃既にパソコンの研究をしていた。
  九鯉庵の応接間・ 妻の福子もまだ若かった


















                               
  アトリエ内の階段を上がって中二階の茶室へ
 
                   
 娘の久美子は、このアトリエで支度して結婚式場の
 名鉄犬山ホテルへと向かった。
 人生の旅立ちの朝である。

                                                       

 


 中京自動車学校に於いて色々と私でないと
    やれない校風刷新の改革運動を続けてきたが

 

定年退職も近い昭和57年頃からは、更に将来へ向けて書画の道を完成するための
準備時期に入ってきたので中国へ撮影・スケッチ旅行にも出掛けて行った。
 
  
第1回目の中国行きは1200枚程の写真を撮ったが、その1部紹介
上海から飛行機で重慶に飛んで、そこから山峡下りである。これは大味な川下りであった。
               
 閑話休題  万県 (ワンシエン)の怪

 山峡下りで今も記憶から消え去らない思い出は、恐らく、それが非常に怖い思いをしたからであろう・・舟が重慶を出発して600キロ余り下った処に万県という港町がある。この万県の町の歴史にこんな事件が記録されている、1926年英国の商船が中国側とのトラブルの末拿捕された。英国側は商船奪還の為に砲艦二隻を派遣して砲撃を加え、万県の町を破壊した。これによって中国人は縮み上がり、、長江一帯の反英運動は終息した・・というものである。この港で私達の舟を停泊させて一夜を明かすことになった。それが予定であったか、どうかは忘れたが、同行したツアーの仲間が舟をおりて川沿いに1キロ位遡って行くと可成り繁華な町に出て、そこで毎晩のように夜店で賑わっている、と云う情報を得たので、これは面白い土産話になると、皆が行く気になって舟を下りた。

 桟橋から陸に上がったが、辺りは全く灯りも無く暗闇で、足下はゴロゴロした荒れた石ころ道で、更に水がどこからか足下に流れてくるので半ば飛び飛びに歩く始末、その上、同行の一人が足を挫いてしまって、これではとても先へ進めないと言い出して、この現実の前に尻込みしてしまった、引き返すのが賢明だと云うことになり戻ってしまった。 しかし、私だけは、単身行く気になって、皆と別れて真っ暗な厳しい道を奥へ奥へとと進んでいった。 進むにつれて、これは矢張り大変な処だと半ば後悔しながらも、裂けた道路から水が溢れ出しているのを飛び飛びに進んだ。どれくらい進んだか足下の危険と戦いながら時間も距離も意識ないままに気が付いてみると遠くの山手に仄かな灯りが感じられた。

 此処まで来ると、引き返すのも大変なので細心の注意を払いながら灯りを目標に進んで行った。すると左側に幅の広い・・10b以上もあったろうか石段が現れたのだ。結構、上の方でザワザワと音がしている。数十段も有ろうか、もっと多かったか、上がりきると夜店のような賑やかな世界が開けていた。
 こんな、見知らぬ他国の世界へ一人で足を踏み入れたわけだが、暗闇を歩いていた時と違って、不思議に恐怖感もなにも無かった。夜店は可成り広い範囲で山中が赤々と照らし出されていて奥まった処に神社のようなものがあった。人達はきわめて陽気で、飲食店で屯して騒ぐ一団。何か土地の独自の競技に走り騒いだりで、真っ暗闇を歩いていた時とは違って、全くの別世界が其処には有った。
つづく


    重慶の国画院にて・・              寒山寺にて・・













  院内で水墨画を画く、若い女流画家   




長江下りで撮影中
                                       蘇州は水の都、情緒溢れる
           


   










    拙政園にて                                                                                                     
                                                    
 














         上海空港から・・おさらば中国・・→ 大阪空港へ

          



     そして再び
      回る舞台は最後の修行地岐阜県
           八百津町・潮見