Jul.2006

 暑いなあ〜 秋だ〜 紅葉だ〜 と言っている内に はや師走になってしまっていました。
 一年の締めくくりをする月ですね。

 私にとってこの一年は、忘れられない出来事があった年でした。教室の20周年記念イベントはもちろんですが、一番は母を天国へ見送ったことでしょうか。
 母は、昨年の秋から微熱が続き、今年の春に大学病院での精密検査の結果、後3〜4ヶ月の命と言われてしまいました。以来日に日に衰弱していき、 ついに9月26日に帰らぬ人となってしまいました。病名は、後腹膜悪性線維性組織球腫という腫瘍でした。 大学病院では1年に1・2例しか見ることがない珍しい腫瘍だと言われました。

 母の闘病生活は、検査入院の3日間とかかりつけ医の夏休み13日間の入院以外は、最後のその日まで自宅で過ごしました。 その間、母には限られた命と悪性腫瘍だということを知らせず、また不治の病になった時には延命治療をしないでほしいという本人の希望もあり、 手術をせず(実際のところ手術は出来ないくらい大きな腫瘍でした。)かかりつけのお医者様の毎日の往診と、訪問看護ステーションの看護師さんに お世話になりながら、家庭看護をしました。また、ケアマネージャーさん、介護用品のリース業者さんにも助けていただきながらの看護でした。 告知のことは、母が元気な時に“ガンの告知はして欲しくない”と言っていたのを思い出したことと、延命治療については、一筆書いていましたので本人の意思を尊重し、私達家族もそれがいいと判断して、お医者様にその意志を伝えました。

    

 母の看護をするにあたっては、悪性の腫瘍だと気付かれないように、また明るく闘病生活を過ごして欲しいとう私の願いもあり、 心に誓ったことがあります。

*今までと変わらない日常生活を過ごすこと。
(趣味、人付き合い、挨拶、言葉使いなど)

*毎日明るく元気に笑顔で暮すこと。

*母の望むことはなるべく聞いてやること。
(食べたい物、行きたい所、見たいものなど)

*母の看病があるから、これが出来ないと言わないこと。
(時間は、工夫すれば出てきます)

*愚痴は言わないこと。
(愚痴を言って母の病状がよくなれば、いくらでも言います。)

*20周年記念イベントなどの準備はなるべく早く進めておくこと。

など、母に余計な神経を使わせないように、いつもと変わらない娘として接してきました。 ですから、一緒に楽しい会話をしたり、買い物に行ったり、コンサートに行ったり、たまに喧嘩もしました。 でも、時にはしんどくなる時もありました。特に亡くなる一ヶ月くらい前からは、歩行、食事、洗面、トイレの介助など、 一日中家の中を走り回っていた頃です。外出は、買い物の時だけ、それも短時間で済ませ飛んで帰っていました。 その頃は体力的にも精神的にもきつく大変でした。そんなつらさはあったのですが、暑かった時期でもあり夕食のビールが美味しかった!! ホッと出来た貴重な時間でした。

 私でも家庭看護ができたのは、お医者様と看護師さんの“夜中でもいつでも、何かあれば連絡して下さいね。” という暖かい言葉があったからです。実際、お医者様は休日にもかかわらず、“大丈夫ですか”とお電話を下さり、 不安そうな私をしっかりと支えてくださいました。病人を診ることはお医者様や看護師さんの仕事ですが、看病する人の 心のケアすることも大切な仕事なのですね。そんな方達にお世話になっていることに、感謝の気持でいっぱいになりました。

 また、主人もしっかりと私を支えてくれたことも忘れてはいけません。いろいろな面での介助はもちろんですが、 精神的にしっかりと支えてくれていました。体の衰弱が著しくなった母が“あんたは、私をだましている。” と言って私をにらみつけたことがありました。私は母の目の鋭さに、うろたえひるみそうになり、それでも、我慢して母と にらめっこしている時に、“そうこの人は、狐になったり狸になったりして、だますんだよ。”とユーモアを交えて主人が 助け舟を出してくれた時には、本当に救われました。私も“狸になったり狐になったり大変なんだから・・・”と言って、 母を煙に巻いてそれでおしまいにしました。いつも笑顔で母と接することができたのは、本当に主人のお陰です。

 母は、越路吹雪の大ファンでした。闘病生活の間も彼女のCDを聴いていました。また、元気な時からお葬式には 彼女の“愛の賛歌”を流してほしいと言っておりました。また母の部屋から、死亡時の連絡先、お棺に入れてほしいもの、 そして愛の賛歌のことも書いた封書が見つかり、これが母の最後の願いなのだと思い、葬儀の時に流していただきました。 きっと一緒に歌っていたことでしょう。でも、お節介にも母が願ってもいないのに、ヨン様の写真(ヨン様の大ファンでもありました。)を 母の周りに入れてやりました。ベッドルーム、トイレにたくさんのヨン様の写真が貼ってあったのを思い出したからです。 果してあの世で、父はどう思っているでしょうか。包容力のある父のことです。きっと許してくれているでしょう。

 母の腫瘍は、痛みがないのが特徴でした。だから発見が遅れてしまったのですが、その痛みがないからこそ、 亡くなるまで一度も苦痛を訴えることもなく、安らかに天国へ旅立っていけたことは幸せだった思います。 毎日母の手や体をさすりながら、「痛みがなくてよかった」と心の中でつぶやいていました。 今思うと幼い頃は別として、あれだけ母の手を握り体をさすり、母のぬくもりを感じたことはありません。母の看護をさせていただいて、本当に幸せでした。

 今やっと、母のことを書くことができました。でも涙は溢れてきます。越路吹雪のCDはまだ聴くことができません。 母が着たいと言っていて、結局着ることが出来なかった服を見ることはできません。
 でも、親を看取ることは、どなたでも通られる当たり前の道です。これを乗り越えなくては一人前になれないのでしょうね。 ・・・やっと私も一人前になれそうです。

 皆さん、つまらない私の独り言に、最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 来年は、少し成長した私でお目にかかりたいと思います。元気 笑顔でね。


 
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