Sing... うたう        Nov. 2016
 野山織りなす紅葉のグラデーションが美しい季節となってまいりました。そして、庭にはツワブキの花が、可憐に咲いております。
 この紅葉の季節が終わると、体をふんわりと包み込んでくれる温かいニットの季節となってまいります。

 長年編物に携わってきたのですが、その歴史をひもとくこともなく、日々過ごしてきました。反省です。そこで少し立ち止まって編物の歴史をたどってみることにしました。

 編物の歴史は古く8000年もの昔の旧石器時代や青銅器時代には、現代の編物に近いものが作られていたそうです。その後の紀元前のエジプトのピラミッドからはレースの編物が、帝政ローマ時代の遺跡からも発見されました。当日の針は、現代のかぎ針に近い形状だったようです。また古代アラビア遊牧民族はサンダル用の靴下を編んでいたそうです。

 このように発展してきた編物は、4~12世紀にはエジプトやシリアから、アラブ商人らによって、ヨーロッパに伝えられ広まったそうです。
フランス、イタリアでは、繊細なレース編みが大流行し、オランダでは、花鳥獣の図案を裏目で編み込んだ浮き出し模様の靴下が発展しました。
また黒海を渡り、北上してスカンジナビア半島を経て、良質な羊毛が算出されるフェア島、シェットランド島、アイルランド島、アラン諸島へと伝わりました。そこから生まれたセーターは漁夫の船上の作業着と定着しました。北欧ニットの起源です。そのころ北欧やイギリスでは、2本の棒針を使う技術が完成したそうです。
 
 産業としての編物はフランスで発展し、16世紀には、フランスで編み靴下組合が設立され、ヨーロッパ各地でギルド(同業組合)が成立し、プロフェッショナルな職人による技術が発展していきました。ちなみに編物職人は、男性に限られていたそうです。
またイギリスでは足踏み式の靴下編機が発明され、手編みから機械編みへと発展していったようです。その後、編物工業は益々発展し、現代のTシャツやジャージとなり、カットソーへと発展していったのです。

 19世紀には、戦争の影響が強く反映され、編物が益々繁栄していったそうです。例えば、クリミア戦争時、兵士は厳しい寒さから体を守るため、毛糸で編まれた深い帽子、靴下、手袋などが必需品となり、女性たちの手で大量に編まれたそうです。
 また、その時代には、上級階級の女性たちは、有り余る時間を編物をして過ごしたそうです。

 第一次世界大戦後、編物の需要はますます盛んになり、現在のセーターが出来上がっていったようです。
Fukiko
日本の編物
 ヨーロッパ各地で発展してきた編物が、最初に日本に伝わってきたのは、16世紀。スペインやポルトガル人によって伝えられました。織田信長がメリヤス製品を持っていたと言われているそうです。メリヤスという言葉は、スペイン語の「メジアス」やポルトガル語「メイアシュ」の「靴下」を意味する言葉から、そう呼ばれるようになりました。またメリヤスは、足の大小に関係なくぴったりすることから「莫大小(メリヤス)」という漢字で書くようになったそうです。

 17世紀には、宣教師の渡来が盛んになり、メリヤスは刀のさやのおおい、足袋形の靴下などに使われ、全国に広まったそうです。

 本格的に編物が盛んになったのは、明治時代になってから。外国の文化がたくさん入ってくるようになり、編物・手芸を宣教師などから、教わる人達がでてきました。また、職業学校でも教えるようになり、全国にますます広まり現在に至っております。
 編機の方は、16世紀にイギリスで発明されたメリヤス編機は、明治時代の初め頃、改良されたものが輸入されました。そして、大正12年には、メリヤスとガターが編めるものが作られました。それ以後、改良を重ね工業用機械が作られていきました。
 家庭用機械は、戦後1954年にブラザー工業が製作、家庭で多くの人に編まれるようになりました。

 そして、現在機械編みの方は、衰退してきておりますが、手編みは、根強い人気があります。
日本の先人たちによって発展してきた編物の技術は、世界にもその価値を高く認められております。
ちなみに2月10日は、「ニットの日」と制定されています。2(に)と10(とう)の語呂合わせから、1994年に全国的な記念日とされたそうですが、知らなかった!!

 さて、来年5月16日(火)~21日(日)に鵜沼宿脇本陣にて、「風に誘われてニット展」を開催いたします。ご来場お待ちしております。