戦前戦中という時代

 

E特急列車の時代

 昭和の初期から戦争半ばまでは、特急列車の草創期と言える。そして、それらに先立って行われた改革があったればこそとも言える。

 

 改革のなかで重要なものは、何といっても「国有化」だろう。日露戦争における運用の不便さから、軍部から国内基幹の輸送を優先することが要請されることになった。そして、1906(明治39)には「国有鉄道法」が可決され、大手私鉄の買収が行われた。これが、長距離列車の設定を可能としたのだ。

 

昭和初期には「燕」(昭和4年)・「富士」(昭和5年)・「鴎」(昭和12)の特急列車が現れる。

 

大陸では1934年(昭和9年)に、南満州鉄道による「あじあ号」(大連-哈爾浜間)という超特急も運行された。

 

そして、昭和15年には、「弾丸列車」と呼ばれる「東京・下関間新幹線増設に関する件」の計画も可決されることになる。(この計画は戦争激化のため中断され、戦後の新幹線に引き継がれる。)

 

それら特急の登場と時期を同じくして開発されたのが19セイコーであり、それら特急列車の運用を立派に果たした。

 

 

D19セイコー、ついに鉄道時計に指定される

 

当時の『報知新聞』 1930.10.17-1930.10.21 (昭和5)<神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 機械製造業(02-081)>に

  セイコーの懐中時計が鉄道省の乗務員の時計に指定されたことを報じている。

 

「懐中時計の領域では、だから現在精工舎の『セーコー』が国産愛用運動の流れに乗って勇敢に組立工場に向って挑戦を続けているわけである、鉄道省でも昨年(昭和4年)から最も正確を尊ぶ乗務員の時計についてウォルサムを廃めて『セーコー』二十型を指定した例もある、」( )は私

 

ここでは、鉄道時計を「乗務員の時計」と呼んでいるが、これは鉄道時計のことだろう。

つまり、Cの国産品の懐中時計は、「セイコー」の懐中時計であることがわかる。

 

残念なのは、指定された時計を「二十型」としている点である。これは明らかに間違いであり、19型のことである。

そして、19セイコーに間違いない。

 

当時はケースまで含めて20型としていたのだろうか。

それとも単なるまちがいなのだろうか。

 

 

 

C国産品の懐中時計が鉄道時計に指定された報告

 

「鐵道省に於ける國産品使用奨励委員会經過報告」 (昭和五年三月 鐵道省)

 

p37

チ、懐中時計

 鐵道乘務員用懐中時計は特に正確を要するものなるが故に、從来外國品をのみ採用したるも當省の如く大量需要者が國産品を採用せざれば内地製品の進歩もまた期待し得ざるを以て進で之を採用し、製品の進歩とともに順次國産品に代ふべき方針なり。目下試用中のものは米國ウオールサム會社に比し遜色なきものの如し。

 

鉄道省が発行した国産品使用の経過報告書である。

   ・いわゆる「鉄道時計」のことを「鐡道乗務員用懐中時計」と呼んでいることがわかる。

・また、従来は、「外国品のみを採用」としており、その理由が「特に正確を要するものなるが故」としている。

・そして、順次国産品へ代える方針としている。

・試用中(試験を繰り返していたことを示しているのではないか)のものは、

アメリカ製のウォルサムに比して「遜色なきもの」としている。

鉄道省は、国産品の懐中時計をかなり高く評価していることがうかがえる。たぶん、これが19セイコーなのだろうが、残念なことに、明記はしていない。

 

 

B国産品愛用運動

 

当時の新聞である『時事新報』 1930.6.28 (昭和5) <神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 産業(5-030)> を見ると、

昭和5年6月27日の定例閣議における「国産品愛用問題」について各大臣の言葉が紹介されている中で、江木鉄道相の言葉が目を引く。

 

「昨年(昭和4年)八月から省内に国産品使用奨励委員を設け調査を進めたが十一月頃迄は何等成績があがらなかったが十二月以降に於て始めて数字の上に証明し得べき事柄が出てきた、昭和四年十二月より本年五月に至る半年に於て外国品を購入したもの三十一万円で前年の同期間に於ける二百六十九万円に比すれば約八割八分を減じている」<( )は私>

 

さらに、財部海相の言葉

 

「陸海軍は従来と雖も主として国産品を使用していたのである鉄相の報告を聞いて満足に思うがこの上国産品愛用を満鉄等植民地方面迄徹底して貰いたい」

 

つまり、国を挙げての「国産品愛用運動」が行われており、特に鉄道省ではその効果が上がっていることを紹介しているわけだ。そして、さらに満鉄等植民地方面まで徹底する方針を確認している。19セイコーはこの流れのなかで生産・販売が開始され、鉄道時計として指定されたことになる。

 

では、国産品の懐中時計であれば何でもよかったのだろうか? 

 

19セイコーの名前の由来である19型というムーブメントの大きさは「鉄道時計」の大きさに適合しており、生産・販売そのものは鉄道省内に国産品使用奨励委員が設置された昭和4年8月よりも前の4月である。ということは、19セイコーは、国産品使用奨励委員が設置されてから開発されたのではなく、初めから鉄道時計の指名をめざして開発されていたと推測できる。

 

 ただ、鉄道省による鉄道時計の指定は、この国産品愛用運動の流れのなかで行われたことは間違いなく、服部金太郎が政治の流れを読んで開発をしていたことは否めない。しかも、性能としては「精度誤差の許容範囲」(『精工舎 懐中時計図鑑』)「性能に差がない」(『鉄道時計ものがたり』)という程度のものであり、輸入品(この時代までは舶来品と呼んでいたらしい)に肩を並べる、とか、凌駕する、とかいうものでなかったことは明らかだ。そのため、『鉄道時計ものがたり』では、「むしろスペックダウンとなっている可能性も否定できないはずで」という表現になっている。

 

しかし、そのムーブメントや機構を大きく変更することなく、昭和46年まで生産されたのであるから、いくつかの特急列車、そして、新幹線でも使用が可能だったわけだ。ということは、開発された昭和の初期の段階で、19セイコーは現場の使用に十分耐える性能を有していた、と言うことはできるのではないだろうか。

 

 

 

A鉄道省の誕生

 

 他方、鉄道所轄官庁が、鉄道事業の権限強化・独立を果たし、大正9年(1920年)に「鉄道省」に昇格した。初代大臣は元田肇となり、昭和18年(1943年)の八田嘉明まで24人の大臣を輩出し、鉄道の近代化、戦時における効率化などに取り組むことになる。

 

 そんななか、19セイコーが鉄道時計に指定されたのが、第8代鉄道大臣 江木翼(えぎ たすく)のときだった。このときのエピソードが、『精工舎 懐中時計図鑑』の100頁に紹介されている。それまで鉄道時計は、アメリカのウォルサムやエルジン、スイスのゼニス(ゼニットとも)といった外国製が使用されてきており、国産の鉄道時計が指定されたということは画期的なことだった。

 

 

 

@19セイコーにとっての「戦前戦中」という時代

 

 ここでいう戦前戦中は、いわゆる歴史学において評価をしようというものではない。そういったものは他のHPや書籍に譲るものであり、ここでは「19セイコーにとって」戦前戦中はどういった時代だったのかについて少し考えていきたい。

 

 19セイコー(19型SEIKOSHA)が誕生したのは昭和4年4月。鉄道時計として認められたのが、同じ昭和4年11月。

 

奇しくもこの昭和4年はという年は西暦1929年であり、世界大恐慌の端緒となった「ウォール街大暴落」の年として記憶されている。そして、いわゆる「暗黒の木曜日」と呼ばた、昭和4年10月24日(木曜)に、最初の株価暴落が起きた。

 

日本では、その前、大正12年(1923年)に関東大震災が起き、昭和2年(1927年)3月には昭和金融恐慌、そして、追い打ちをかけるようにウォール街大暴落直後の昭和5年(1930年)に金解禁を行ったという、激動の時代だった。そんななかで誕生したのが19セイコーだった。

 

 

 

 

 


にほんブログ村