家康が小牧長久手の戦いで着用した「勝川具足」を追って
~ 櫻井論文を検証してみる ~
< 「春日井郷土史 第9号」(春日井郷土史研究会研究紀要) >
富 中 昭 智
1 はじめに
「勝川具足」という甲冑をご存知だろうか? ネットで検索したところ、学術を扱う公的な機関や団体では、この「勝川具足」という名称を用いているところはない[1]。しかし、春日井に関連のある団体や個人が盛んに取り上げ、紹介しているようだ。これらの記述内容を見てみると、概ね天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」のときに徳川家康が着用した甲冑のことを指していることがわかった。
これを取り上げたのが、櫻井芳昭氏による論文、「武運長久を呼び込む勝川の地名」『郷土誌かすがい64号』(平成17年10月15日)と、「徳川家最高の吉祥武具・勝川具足」『郷土誌かすがい74号』(平成27年11月1日)である。特に後者の論文のなかで、櫻井氏は「勝川具足」という名称の出典が『東照宮御實記』[3](以後『實記』)であること、そして、その『實記』では、家康が勝川の兜塚(現在の春日井市)で着用した具足(甲冑)を「甲冑勝川」としていること、その正式名称が「ためぬり黒糸の御鎧に椎形の御冑」であることを紹介している。縁あって、私もこの論文を拝読させていただく機会[2]に恵まれた。
2 なぜ、「勝川具足」が重要なのか (櫻井論文から)
櫻井論文自体は春日井市公式HPに掲載されていて誰でもご覧になれるので、詳しくはそちらを参照していただきたい。ここでは、論を進めるにあたって、必要なことのみ簡単に紹介する。櫻井氏は、論文のなかで下の①②③の具足(甲冑)を紹介している。左が通称で、右が正式名である。
① 勝川具足 「ためぬり黒糸の御鎧に椎形の御冑」(『實記』より)
「小牧長久手の戦い」で家康が着用した歯朶の甲冑
櫻井氏は下の②も③もどちらも「勝川具足」であると主張
② 南蛮鉢(椎形兜) 黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜
関ヶ原の戦い直前に家康が黒田長政に贈った
福岡市博物館所蔵
https://twitter.com/fukuokaC_museum/status/1431839505284096001
③ 歯朶具足 伊予札黒糸縅胴丸具足
家康の夢に基づいて奈良の甲冑師が作成
徳川家の具足開きで飾られるようになる
久能山東照宮博物館所蔵
https://www.toshogu.or.jp/kt_museum/collect/
②③はどちらも素性がはっきりしていて、由緒あるものとなる。②通称「椎形兜」(南蛮鉢が一般的かもしれないが、形をイメージしやすいので以後「椎形兜」)を贈られた黒田長政は、有名な黒田官兵衛(孝高)の嫡子と言えばわかりやすいだろうか。そして、③通称「歯朶具足」は、家康が関ヶ原の戦いで着用し、大阪の冬・夏の陣でも身近に携行した。徳川家はこの甲冑を宝物(ほうもつ)として徳川将軍家が毎年江戸城で開いた具足開きの床飾りとした。しかも、四代将軍家綱以降は、代々の将軍がこれの写形(いわゆるレプリカ)を作らせそれを飾ったとある。これらを、それぞれの博物館が大切に扱い、展示品の目玉にしているのは紊得のいくところである。写真については、それぞれの博物館のURLを載せておいたので、そちらをご覧いただきたい[4][5]。
そして、櫻井氏はこの②も③もどちらも①「勝川具足」であると主張しているのだ。ただ、これでは①②③の関係がわかりにくいので、私の方で少し補足しておくと、次のようになる。
② は「小牧長久手の戦い」で徳川家康が着用した甲冑そのものであり、①=②となる。
③ は新しく作らせた甲冑であるので①とはその明らかに別物。よって、①≠③である。
しかし、前立に歯朶をあしらっていることと、勝川の地での出来事から吉兆の具足と位置付け
て、「勝川具足」の名称をもつ。
ところが、いろいろと調べていくうちに、大変勉強になった一方、いくつか疑問が浮かび上がってきたのだ。
そこで、今回の論文は、次のことについて追究していきたいと思う。
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ア ②通称「椎形兜」(黒漆塗南蛮鉢歯 朶前立兜)は「勝川具足」そのものなのか?
イ ③通称「歯朶具足」(伊予札黒糸縅胴丸具足)は「勝川具足」と呼んでよいのか?
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3 黒漆塗南蛮鉢歯 朶前立兜 (椎形兜)
これについては兜のみ伝わっているのでこの名称となる。頭形は椎形(しいなり)であり、椎の実
のように先が尖っていることと、歯朶の葉の前立があることが特徴。『實記』には、「関ヶ原の出陣に際して、長久手の戦いにめされし歯朶の御冑に鞍置る馬を長政に賜りけるとぞ」とあることからこの兜が「勝川具足」そのものであることを示す根拠となっている。
長政とは黒田長政のことであり、黒田官兵衛(孝高)の嫡男である。彼は福岡藩を立藩した初代藩主。秀吉の九州平定や、文禄・慶長の役で活躍したことが知られ、関ヶ原の戦いでは、家康側(東軍)につき、一番の功労者と称えられている。家康は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの出陣の際、この甲冑と馬を黒田長政に下賜したというのだ。
兜の特徴である「歯朶」の「歯」は「齢」(よわい)に通じ、長寿と子孫繁栄を願ったものとして
縁起の良いものとされる。②「椎形兜」は①「勝川具足」の特徴である「歯朶」を前立としてあしらっており、勝川具足と同じだ。
他に、私の調べたところでも、貝原益軒が著した『朝野雑載』(ちょうやざっさい)[6]において、家康が長久手の戦いで着用したとの記載があることがわかった。
4 椎形兜の位置づけ
ところが、福岡市博物館発行の令和3年(2021年)夏の所蔵品紹介(第123号)の説明書きには、
は、この「勝川具足」という名称は全く出ていない。ましてや「小牧長久手の戦い」で家康が着用したなどという記述もないことがわかった。
念のため、福岡市博物館に問い合わせたところ、「勝川」は地名ですか? と訊かれことが最も印象に残った。つまり、この「椎形兜」を「勝川具足」とは認めていないのだ。理由については濁されたが、ヒントをいくつかいただいたので自分で調べてみたので、推論を下に書く。
椎形兜の体裁をもった兜は、西洋から輸入された甲冑(南蛮具足のこと、だから通称が「南蛮鉢」となっているのだ)のことであり、その特徴は、鉄板を用いて(プレートアーマー)、全面中央部が鋭角に盛り上がっているため鉄砲の攻撃にも強いということだった。珍しさから徳川家康に愛用されたことは広く知られていることであるし、関ヶ原の戦いの際にはすでにあったことはわかっている。
しかし、問題は日本に伝えられた時期である。一般に、この南蛮具足は1598年に日本に漂着したリーフデ号から回収、再利用したものと言われている。また、1588年にポルトガル領ゴアのインド総督から豊臣秀吉への贈答品として、1590年に長崎に到着(天正遣欧少年使節団がともに帰国)した南蛮具足が、現在わかっている最古の記録と言われていることもわかった。ということは、小牧長久手の戦いがあった天正12年(1584年)のころには、まだ、この南蛮具足は日本にはなかった可能性が高いということなのだ。
もっとも、記録上のことであるので、全く可能性がないというわけでもない。ここのところは、今後の研究を待つしかない。もし、新発見があれば、勝川具足=椎形兜(南蛮鉢)ということもあり得るのであるが[7]、それはまだ言えないというのが現時点での専門家の間での評価であることは心にとめておきたい。
5 伊予札黒糸縅胴丸具足 (歯朶具足)
頭形は「大黒頭巾鉢」と言われ、「家康が霊夢により奈良の函工 岩井与左衛門に命じて作らせた
もの」(久能山東照宮博物館の説明)とある。そして、①も②も「歯朶」をあしらっているものの、いわゆる「歯朶具足」と言った場合、この具足のことを指す。家康はこの甲冑を関ヶ原の戦いで着用し、家康の死後久能山へ紊め、3代将軍家光までこの具足を、そして、4代将軍からはこの具足の写形を、具足開きで飾った。
この具足については、『實記』に特に記載はないようだ。そして、家康の霊夢が発端ということであるとなると、「勝川具足」との直接の関連が見えてこない。しかも、頭形は「椎形」でななく、「大黒頭巾鉢」で全く異なる。
しかし、櫻井氏は、「前立にある縁起のよい椊物である歯朶に注目して『歯朶具足』と呼称することはよいとして、誕生地が入った「勝川具足」も忘れないようにしたいものである。」と、明確にこの「歯朶具足」を①(勝川具足)であると主張している。そして、吉祥地名の場所である「勝川」だけでなく、ほかの地名や人名も「勝」という、家康の文字へのこだわりが顕著であると紹介していて、「勝川具足」という名称を引き継いでいることを示唆している。
6 久能山東照宮博物館の見解
ところが、久能山東照宮博物館の令和4年(2022年)12月~3月の「徳川家康公展」の「歯朶具足」(伊予札黒糸縅胴丸具足)の説明書きにも、この「勝川具足」という名称は全く出ていない。さらに「小牧長久手の戦い」で家康が着用したなどという記述もないことがわかった。
念のため、こちらについても久能山東照宮博物館に問い合わせをしてみた。すると、こちらにつ
いては、「諸説あるが…、」と前置きをしながらも、明確に「勝川具足」とは「別物と考えている」との返答だった。内容を要約すると、古文書ではまだ確かなものが見つかっておらず、誤りとも正解とも言えないのが実情としながらも、同じ歯朶をあしらった具足であるので、混同されてきた可能性があるのではないかと考えているとのことだった。確かにこちらの甲冑については『實記』も「勝川具足」との関連についての記述がないことは先程述べたとおりである。そして、興味深いことには、これらの状況を勘案するに、ここ久能山東照宮博物館の③「歯朶具足(伊予札黒糸縅胴丸具足)」と福岡市博物館の②「椎形兜(黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜)」の2つ以外にも、もしかすると、歯朶をあしらった具足がもう1つある可能性があるのかもしれない。そして、それが「勝川具足」なのかもしれない、との見解を示していただいた。
こちらの博物館には、「勝川具足」そのものについての存在は否定されなかったものの、今のところ、この博物館の「歯朶具足」との関連は認められないとの回答だったのは、福岡市博物館と同じだった。
7 おわりに
櫻井氏は、①「勝川具足」が、②「椎形兜」であり、③「歯朶具足」であると明確に主張している。
春日井の地名を冠した具足(甲冑)が、実は徳川家の宝物ということであれば、大変誇らしいことである。私も、そうであってほしいと期待したい。
確かに、「勝川具足」についての記録を見ると、特に②「椎形兜」について、『實記』には明記されているし、17世紀後半の『朝野雑載』にも記載が見られるため、信憑性は高く見える。また、①②③のいずれも、縁起の良い歯朶をあしらっているところから、記録が確かであれば何某かのつながりがありそうだ。
しかし、『實記』は「関ヶ原の戦い」から240年も後の著作である。博物館の学芸員たちも、今のところ、確かな決め手とは見ていないようだ。理由は、②「椎形兜」に関する記録が符合しないからであり、③「歯朶具足」についても『實記』に記載がないことから肝心の徳川家が明確に肯定していないと考えられるからだ。今後の研究がそのあたりのことを明らかにしてくれることを期待したい。
令和6年(2024年)1月6日
【 註 】
[1]唯一取り上げているのが、「井伊美術館」公式HPだ。ここは、かつての「中村甲刀修史館」のことであり、民間の施設のようだ。紹介には「当館は日本唯一の甲冑武具・資料考証専門の美術館」とある。このHPに、「井伊達夫 著作目録一覧 『剣と鎧と歴史と』収録外」発表放送等執筆作品目録という項目があり、「異聞勝川の鎧・・・・・・昭和50年7月 小説サンデー毎日新人賞最終候補作」という記載があるのを見つけた。「勝川の鎧」とあり、勝川具足のことを指すのではないだろうか。しかし、これは小説であり、学術の世界には広まっておらず、一般化はしてはいないようだ。
[2]この櫻井氏の論文を、鷹来公民館主催の『大人の教養講座』の一環として実施した講座のためにプレゼン用の資料に富中が整理。論文の主張は明確で、資料に起こすことは特に問題なくできた。しかし、講座に参加される方は一般の方であるため、小牧長久手の戦いや具足(甲冑)そのものについて追加調査をしているなかで出てきた疑問を専門家に問い合わせ、さらに整理したのがこの論文である。
[3]通称『御實記』、『徳川實記』。完成は、天保14年(1843年)江戸末期とあることから、江戸幕府開府の240年後の著作となる。著者は、林述斎、成島司直、ほか。内容は家康から10代家治に至る歴代将軍ごとの治績や逸話を附録としてまとめている。全485冊
[4]写真についてここに掲載すると親切なのはわかっているのだが、いずれも貴重な美術品であり、博物館の所蔵品であることから、著作権についてはその取扱いに厳しい条件が課されることが予想される。よって、ここは比較的大きくご覧になれるWebのページのURLを貼っておくのでご容赦願いたい。
[5]甲冑における基本用語をここに載せておく。
・甲冑 胴部を守る鎧(甲、よろい)と、頭部を守る兜(冑、かぶと)からなる武具。
・具足 日本の甲冑のこと。鎧と兜のこと。 = 甲冑
・兜 甲冑のうち、打撃・斬撃や飛来・落下物などから頭部を守るための防具のこと。
・写形 元の具足とそっくりの模造品、レプリカのこと。御写形。
[6]福岡藩3代藩主黒田光之に、千夜一夜風に語ってきかせたという体裁に仕立てたもの。織田信長をはじめ名だたる戦国武将が登場し、有名なエピソードが綴られている。
[7]南蛮具足に関しては、歴史上こういったことが現状であるにもかかわらず、ファンタジーや映画の世界では、織田信長が着用していたとするイメージが先行して作られているので注意したい。特に『レジェンド&バタフライ』(東映:2023年)では、織田信長役の木村拓哉がこの椎形兜(南蛮具足)を着用しており、それをイメージして製作されたJR岐阜駅前の黄金の織田信長像もこの椎形兜
(南蛮具足)を着用している。南蛮文化を積極的に取り入れた信長のイメージと合致し、あまりに恰好が良いためか、五月人形やイラスト素材などでも、織田信長が南蛮具足(椎形の兜)を着用しているものが散見される。しかし、本文にも紹介したように、南蛮具足と呼ばれる椎形の兜の記録は1590年が初出であることを考えると、「小牧長久手の戦い」よりも前である信長の時代にあったかとなると、さらに厳しい。信長の件についても、今のところはあったとは言えないのが正解の状態であることを知っておきたい。