空襲で焼失した愛知第一師範学校女子部を追って  富 中 昭 智 『春日井郷土史研究会紀要 第6号』

 

 1 はじめに

 『春日井郷土史 第5号』で、私は終戦直後の地形図にあった鳥居松工廠そばの学校が、愛知第一師範学校女子部の附属国民学校(戦争中の呼び名であり、附属小学校のこと)であることを突き止めた。春日井市にこの学校があったことは、これまでの春日井市の歴史に関する書籍や報告書には取り上げられておらず、貴重な記録になったと思う。

 しかし、昭和20年(1945年)514日の名古屋大空襲で、附属国民学校と一緒に焼失した愛知第一師範学校女子部の行方がわからなかった。そこで、今回の紀要では、次のことについて追究することとした。

愛知第一師範学校女子部は、空襲で校舎が焼失した後、どこへ移転したのか。
 

 

 


2 附属国民学校(小学校)の近隣を調べる

空襲で校舎が焼失する前、愛知第一師範学校女子部は名古屋市西区北押切町(現在の天神山町)にあり、師範学校と附属小学校は隣接していた。師範学校男子部の方も師範学校と附属小学校は隣接しており、そういった配置が一般的だった。これは、1872年(明治5年)に設立された東京師範学校がモデルとなっているようだ。『千葉県師範学校沿革史』(千葉県師範学校編、1934年)によると、師範学校の生徒は、付属小学校で教育実習生(練習生)として、「半年交代として各数週間ずつ学級を替えて指導した。児童は全年を通じて練習生の授業を受けたのである。」とあり、一年を通して教育実習等(実地授業)を実施したようだ。現在の教員養成課程では、学生は年間で2〜4週間ほどの教育実習を行うだけであるが、師範学校では、より現場に密着した教員養成、今でいうOJTが徹底して行われていたことがわかる。

よって、附属国民学校が春日井市に移転してきたとき、愛知第一師範学校女子部もそのそばにあったのではないかと考えた。そこで、再度、当時の地形図を精査してみることにした。しかし、附属国民学校の敷地に手がかりとなるような記載はなかった。念のため、その周辺ももちろん詳しく探してみたが、やはり見つけることはできなかった。そこで、『春日井郷土史 第5号』の小論で使用した、附属国民学校について詳しく書かれた書籍『ある生活学校の記録』(誠文堂光社、昭和29年)も改めて調べてみた。しかし、残念ながら愛知第一師範学校女子部についての記載はなかった。

 

3 書籍や資料を渉猟

 次に、ネットで検索をかけ、後身の愛知教育大学や附属小学校の沿革史などについて取り上げたWebや論文等を調べてみた。それでも愛知第一師範学校女子部については手がかりがなかった。師範学校が附属国民学校のそばにあることが、あまりに当たり前すぎて記載されなかったかもしれないという考えも頭をよぎったほどだった。ここで諦めていたらこの調査は終了していたのだが、『県二高女・女子師範物語 −愛知県の近代女子教育―』(黎明書房、2015年)<以後、『物語』>という書籍にたどり着いた。これは、県二高女、現在の愛知県立名古屋西高等学校の創立百周年を記念して発刊されたものなのだが、隣接していた愛知第一師範学校女子部についても詳しく紹介していることがわかったのだ。ただ、この書籍には訂正すべき点があることがわかったので、この小論のなかでそのことに触れながら、以下、愛知第一師範学校女子部のその後を追ってみたい。 

 

4 戦争中の勤労動員

 空襲で校舎が焼失したときのことを紹介するにあたって、当時のことに簡単にでも触れる必要がある。ただ、興味のない方は、ここをとばして5へ移ってもかまわない。ここでは、『戦時下における教育の崩壊過程』(北海道大學教育学部紀要、1978年)と前出の『物語』を参考に簡単にまとめてみる。

まずは昭和16年の「昭和十六年度労務動員実施計画」(閣議決定)では、臨時要員として学生生徒も加えられ、文部省訓令第二十七号で中等学校以上の教育機関に「報国隊」組織が導入された。この報国隊というのは、学校が教育の一環として軍事教練や勤労動員に応えるための組織のことである。

昭和17年の「昭和十七年度国民動員実施計画策定ニ関スル件」(閣議決定)では、大幅に動員を増やすことを目指し、学生は主に農業へ配置されて食糧増産に力を入れた。昭和17年度の計画をみると、作業期間は男子で25日間、女子で20日間と計上されている。

 昭和18年の「生産増強勤労緊急対策要綱」(閣議決定)では、徴用範囲の拡大、労働時間の延長、 賃金統制などが内容として盛り込まれ、各種学校などの閉鎖や縮小、集団勤労作業の強化が打出されていた。「昭和十八年度国民動員実施計画策定ニ関スル件」(閣議決定)、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)で、集団勤労作業はこれまでと同様に農業に重点を置いていたが、作業期間は「国家ノ要請ニ即応」して一層長期化、「常時旦集注的(ママ)」に行うことができるようにした。そして、並行して対象を工業へと拡大していっている。作業期間は1年の1/3が計上された。

昭和19年「緊急学徒動員方策要綱」(閣議決定)では、明確に工業への動員を打出した。「緊急学徒勤労動員方策要締実施ニ関スノレ件」(文部次官通牒)では、「航空兵器ノ増産, 其ノ他刻下聖戦完遂上特ニ緊要ナノレ業務」とされ、軍需工業へ動員されることとなった。このとき、いわゆる通年動員が決定され、学校は事実上休校状態となり、12歳以上の学生生徒は労働力とみなされたわけだ。そして、8月には「学徒勤労令」(勅令)が出され、「国家総動員法」を根拠として年間を通じて勤労動員を教育として行なうと規定され、法的根拠が整えられることとなった。

愛知第一師範学校女子部も、昭和194月から神戸製鋼名古屋工場・八田三菱工場・名古屋芝浦電気へ勤労動員となり、6月以降は連日出勤だったとある。そんな状況のなか、何とか苦労してわずかではあるが授業を行っていたようだが、昭和203月には、「決戦教育措置要構」(閣議決定)によって授業が停止した。

 太平洋戦争が始まるまでの頃は、皇紀二千六百年記念式典(昭和15年)などの式典に参列したり、勤労作業として農作業に数日参加したりするぐらいだった。それが、戦争が激しくなってくると、徴兵による労働力不足を補うために本格的に労働力として動員されていく。もちろん授業日数はどんどん削られていった。昭和18年には1年の1/3、昭和19年には通年の動員に駆り出され、昭和20年にはとうとう授業ができなくなっていたのだ。愛知第一師範学校女子部の動きがはっきりしなかったのは、このような特殊な状況に置かれたことが影響しているのではないかと思う。

 

5 運命の日(名古屋大空襲)

 名古屋市への空襲は実に63回(総務省)だったが、愛知第一師範学校部が焼失したのは、名古屋城が焼け落ちた大空襲だった昭和20514日のことである。『物語』にはこうある。

 この日、愛知第一師範学校女子部にいたのは予科1年生80名のうち寮生だった20名のみが防空壕に避難した。上級生は神戸製鋼名古屋工場に動員で不在であり、朝7時50分だったために他の予科1年生はまだ登校前だった。B29が落としていった焼夷弾で校舎や寮舎に火が点き、校庭は50cmぐらいの高さの火の海になっていたそうだ。恐怖の3時間を耐え、防空壕から出て目にしたのは焼け落ちた校舎と寮舎だった。

 

6 寮は高蔵寺町の高座国民学校(小学校)へ、校舎は男子師範学校へ間借り

 3月に授業が停止していたところへの5月の空襲だったわけだ。そのため、終戦までは師範学校の活動は事実上なかったことだろう。ただし、『物語』には、次のようにある。

 

「寮生活の再開は、5月末・東春日井郡高蔵寺小学校(裁縫室・作法室)及び少し離れた青年学校の間借り生活から始まっています。」

 

 この5月は昭和20年のことであり、終戦の前である。教育活動が行われていないため校舎はともかくとして、まずは寮舎の確保がなされたのだ。それが、下線にある「東春日井郡高蔵寺小学校」と「青年学校」ということだ。

ここで、第3章の最後で触れた『物語』の1つめの訂正すべきことを指摘することができる。実は、この「高蔵寺小学校」は、高蔵寺町立「高座(たかくら)小学校」(このときは高座国民学校)のことである。このときに高座小学校があった位置に、戦後の昭和224月になって新制中学校として現在の高蔵寺中学校が開校している。そして、高座小学校はもう少し東の方の現在位置へ移転している。これらのことから、『物語』の著者が調査中に混同してしまった可能性が高い。念のため、高座小学校の名称が改称されているか調べてみたが、高蔵寺小学校という名称になったことはなく、近隣にも高蔵寺小学校という学校は存在しないことを確認した。ちなみに、当時の高蔵寺町は、東春日井郡のうちの独立した地方自治体である「町」だった。それが、昭和33年に春日井市に合併され、現在は春日井市の一部になっている。

 そして、愛知第一師範学校女子部の校舎については、終戦後の9月になってから男子部の校舎(名古屋市東区東芳野町:現在の名古屋市工芸高等学校)に間借りすることになった。つまり、寮生は、高蔵寺町の高座小学校に入っていた寮で生活し、学校へ行くのに、中央線の高蔵寺駅から汽車(当時は蒸気機関車だった)に乗り、名古屋市の大曾根駅で降りて男子部校舎に通ったことになる。

【1/50000地形図 昭和21年11月】 

実線の囲いが、かつての高座小学校であり、「文」が確認できる。ここは現在の高蔵寺中学校の位置でもある。ここに、昭和20年5月末に愛知第一師範学校女子部の寮が入ったのだ。当然、現在の高座小学校は存在しないことが確認できる
 

 

 

 

 

 

 

 


7 そして、春日井市牛山町陸軍兵舎跡へ

 前章では、終戦の年までの流れを明らかにした。ここでは、『物語』に戻って、これ以降の記述を引用してみる。

 

 「第一師範学校女子部は、翌212月から春日井市牛山町陸軍兵舎跡(現春日井市立西部中学校)へ校舎・寮舎共に移転しています。バラック建てで床もないのを、みんなで難儀してつくろい、畳をしいて、部屋にしたのです。狭い部屋でしたが、間借りから解放されてとてもうれしかったようです。」

 

 これは、西部中学校の開校30周年の記念誌『西中三十年のあゆみ』(以後、『あゆみ』)においても確認することができる。

 

 「あの牛山校舎は、戦中、国土防衛の拠点であった小牧飛行場のすぐ東隣、かって(ママ)は、つわものたちが仮寝の夢を結んだ陸軍航空隊兵舎であり、戦後、そこには師範学校女子部が仮住まいしていました。」(太字筆者)

 

 「進駐軍兵舎跡を校舎とし、西部中学校は生まれたのでした。(略)空き地は前住の愛知女子師範の先生方の作り残された野菜畑とて運動場らしいものもなく、…」

 

 『物語』の中に出てくる「陸軍兵舎跡」については整理しておく必要がある。この陸軍兵舎跡は、戦争中に小牧空港に駐営していた旧陸軍航空隊の兵舎だった。これが、春日井市の牛山町にあったことがわかる。そこへ、まずは終戦直後に連合軍が進駐してきて、「進駐軍兵舎」として使用した。そして、昭和212月に、今度は愛知第一師範学校女子部の校舎と寮舎として使用することになった。さらにその後、春日井市立西部中学校がここに開校した、ということになる。つまり、ここに出てくる「牛山校舎」というのは、このときの西部中学校の校舎を指す。

 

8 牛山校舎の位置と様子

 西部中学校は、文字どおり春日井市域の西方にあり、戦後、昭和224月にいち早く開校した春日井市立の新制中学校の一つである。しかし、現在の校舎の建っている敷地は、宮町字宮町175番地であり、牛山町からかなり離れている。つまり、牛山校舎とは言いがたい。西部中学校の沿革史をよく見ると、この地へは昭和2312月に1号校舎が完成し3年生が移転。昭和24531日に2号校舎が完成し2年生が移転。全学年が移転を完了したのは3号校舎が完成した昭和2521日だったとある。

よって、それは移転する前に校舎が存在したことを示しているのであり、それが第7章で取り上げた校舎、通称「牛山校舎」が、西部中学校の開校当時の校舎だったということなのだ。

では、その牛山校舎はどこにあったのだろうか。そして、どのようなものだったのだろうか。この記念誌は、当時の校区図と校舎の位置を書き残してくれている。場所は名鉄牛山駅から2300m東のところで牛山新田そばとわかる。ここには現在、「パナソニック・デバイスSUNX」がある。

ここで、第3章の最後で触れた『物語』の2つめの訂正すべきことについて指摘しておきたい。牛山校舎は確かに西部中学校の校舎だったのだが、それは現在の位置ではなく、開校当時の校舎だったということだ。

開校当時の西部中学校の校区図の一部
(『西中三十年のあゆみ』より加工)

実線の囲いが「牛山校舎」(西部中学校の開校当時の校舎)。破線の囲いが現在の西部中学校の校舎。牛山校舎の西(左)側に名鉄牛山駅があり、そのさらに左側に小牧飛行場が見える。
 【1/50000地形図 昭和21年11月】

囲いが、かつての旧陸軍兵舎の位置である。ここには現在、「パナソニック・デバイスSUNX」がある。このときは愛知第一師範学校女子部が入っていたはずだ。しかし、それらしい表記はない。ただ、敷地と建物の形がだいたい一致しているのは感慨深い。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


9 その後の移転

愛知第一師範学校女子部が、西部中学校の牛山校舎の前にいた期間は1年余りでしかなく、次の移転地は、陸軍造兵廠名古屋工廠鳥居松製造所の北側に隣接した補給廠跡の春日井市弥生町だった。ここには、昭和214月に、すでに附属国民学校が移転してきていたので、昭和224月にそこへ同居できたというわけだ。そして、同時に附属国民学校は附属小学校と改称している。

 そして、昭和234月には男子部(名古屋市東区東芳野町)に戻り、昭和245月に「国立学校設置法」が公布され、愛知学芸大学が誕生。名古屋市東区東芳野町の校舎は愛知学芸大学名古屋分校となり、愛知第一師範学校(男子部・女子部)とは併設された状態となった。昭和263月には卒業生を輩出して閉校となっている。

ちなみに、昭和22年(1947年)に新制中学校として、女子部附属中学校がこの春日井市の補給廠跡地で開校している。そして、昭和234月(1948年)にはこの女子部附属中学校と男子部附属中学校が合併し、女子部附属中学校のあったこの地に愛知第一師範学校附属中学校が誕生した。つまり、附属中学校のルーツは春日井市にあったことになるのである。ちなみに、「愛知教育大学附属名古屋中学校同窓会」の公式HPでも、2017年に創立70周年記念事業を執り行っているので、創立年は合併した、この昭和23年としていることがわかる。

 

10 まとめ

 この小論では、514日の名古屋大空襲で校舎を失った愛知第一師範学校女子部が、その後、どこへ移転したのかについて追究してみた。初めは、それまでの慣例から附属国民学校のそばにあったのではないかと推測してみたものの、どこにも見つけることはできなかった。実は、当時の春日井市の地形図や記録にはどこにも載っていなかったからだ。そのため、確かな手がかりがなく、しばらは資料等を探し続けるという状態だった。愛知教育大学の公式HPや沿革に関する論文を見ても載っておらず、大学も把握していない可能性があるのではないかとあきらめかけていたところだった。しかし、第3章で紹介した『物語』に出会うことができたのは幸運だった。著者である名古屋西高等学校の元校長矢野先生が、愛知第一師範学校女子部についても書き残してくださったことに感謝したい。

さて、この小論で追究してきた結果、愛知第一師範学校女子部も春日井市と浅からぬ縁があったことがわかった。当時、愛知第一師範学校女子部に在籍していた方は90歳代の半ばだろうか。しかし、開校当時の西部中学校に在籍していた方はまだ80歳代半ばだろうし、寮を高座小学校に間借りしていたころを記憶している方はもう少し下の年齢の可能性もある。この小論を読まれたら、何かご示唆いただけると大変ありがたいと思う。

              2019年(令和元年)98

 

 【1/50000地形図 昭和21年11月】 →

実線の囲いが、かつての高座小学校であり、「文」が確認できる。ここは現在の高蔵寺中学校の位置でもある。昭和20年5月末に愛知第一師範学校女子部の寮が入ったのだ。当然、現在の高座小学校も存在しないことが確認できる。
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実線の囲いが、かつての高座小学校であり、「文」が確認できる。ここは現在の高蔵寺中学校の位置でもある。昭和20年5月末に愛知第一師範学校女子部の寮が入ったのだ。当然、現在の高座小学校も存在しないことが確認できる。
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実線の囲いが、かつての高座小学校であり、「文」が確認できる。ここは現在の高蔵寺中学校の位置でもある。昭和20年5月末に愛知第一師範学校女子部の寮が入ったのだ。当然、現在の高座小学校も存在しないことが確認できる。