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春日井にかつてあった陸軍憲兵隊のメモ

富 中 昭 智

 

1 はじめに

 

 憲兵と聞いてピンとくる人はもう少なくなっているはずだ。

戦前・戦中に関りがあった人のみの記憶になっていると言っ

ても過言ではないだろう。

 憲兵は陸軍の兵科の一つで、主に一般警察の権限が及ばない

軍隊内や軍に関わる業務を担っていた。しかし、次第にその権

限が強化・拡大され、戦前の治安維持に大きくかかわった。し

かもBC級戦犯の多くが憲兵だったこともあって、一般によい

イメージはないようだ。進駐軍を知っている人は、MPという      

米軍の憲兵ならご存知かもしれない。現在、憲兵をイメージで

きるものは、残念ながら人気アニメ『進撃の巨人』に出てくる

憲兵団ぐらいだろうか。

 

スパイス, 食品, 座る, 時計 が含まれている画像

自動的に生成された説明

 

【憲兵の徽章】

 

 

 

 

 

 

 

 

2 春日井にもあった憲兵隊

 

 春日井に憲兵隊があったと聞いても、特段、驚くことはない。なぜなら、春日井には大きな陸軍工廠やそれに付随する施設があったからだ。中日新聞に次のような記事がある。

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庁舎の角には今も、憲兵隊時代に彫られた『陸軍』の文字の残る

             石柱があるが、これも一緒に取り外される予定

 

     「治安の要“定年”迎え移転 春日井署現庁舎 

               60年の歴史取り壊し惜しむ声も」

                   

                中日新聞 2007年(平成19年)530

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 春日井警察署が、前の春日井市民病院の跡地である八田町2丁目の現在地に移転する際の記事である。この記事から春日井に憲兵隊が存在していたとわかるのだ。

 しかし、この記事は誤解を招く恐れがあるので、少し説明を加える。中日新聞が一般警察と憲兵警察の混同するような書き方をしているからである。春日井には東春日井郡時代から一般警察として勝川警察署があった。その一般警察の後進である春日井警察署が、かつて憲兵隊のあった敷地に移転してきていて、そこから今度はさらに八田町2丁目に移転したということである。よって、現在の警察署と憲兵隊とはつながりはないことをここに確認しておく。そして、憲兵隊があったという証拠が、敷地の四隅の角の境界杭に彫られている「陸軍」という文字だ、というのだ。

そこで、今回の紀要で以下の2点について追及してみようと思う。

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春日井の憲兵隊はいつ設置されたのか。

設置の目的・業務は何か。

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3  『春日井市史』等、春日井に関する書籍に記載なし

 

 まずは『春日井市史』『東春日井郡誌』『高蔵寺町誌』にあたってみた。特に春日井に憲兵が設置されそうな時代はくまなく探してみた。しかし、社会情勢や工廠の記述は詳しくても、憲兵隊の記録はない。治安・警察、年表、人物、その他関係しそうな所も見てみたが、とうとう憲兵の文字を見つけることはできなかった。

 次に、春日井市教育委員会発行の『郷土誌かすがい』、『春日井史』(昭和18年 春日井市役所)、『写真アルバム 春日井・小牧の昭和』(2012年 樹林舎)にもあたってみたが、やはり憲兵に関連する記述や写真はなかった。

 

4 改めて憲兵制度について調べてみる

 

 日本の憲兵制度は古い。「憲兵」の語源は1873年(明治6年)の陸軍省条例であり、創設は1881年。フランスの国家憲兵隊を模したと言われ、正確には勅令憲兵のことを指す。日本陸軍創設の1871年(明治4年)の10年後ということになる。

 元々は警視庁の警察官が多く転出しており、将校も33名中24名が警察出身だった。初代本部隊長は三間正弘で、警視局の幹部だった。彼は長岡藩家老河井継之助の補佐官として官軍と戦ったが、のちに許されて新政府に入り、西南戦争でその活躍したことが認められたという経歴の持ち主だった。

 組織は陸軍大臣の直轄であり、軍事警察を任務とし、行政警察(内務大臣の指揮)・司法警察(司法大臣の指揮)も兼ねていた。1890年代には全国の市町村に配置。治安維持等も任務に加わるようになり、外地でも活動。職務上、軍人に喧しくもの言う存在だったことから疎んじられるきらいがあった。思想の取り締まりにも及ぶようになると、政治に絡むようになり、政敵の追い落としなどに利用されるようになって、政治家や文化人から煙たがられるようになった。

 憲兵は兵科の1つであるので、平時は拳銃・軍刀での武装をしていたが、武器の使用は制限されており、有事のみ小銃や騎兵銃、軽機関銃で武装した。憲兵と言えばマントが特徴だが、ほかの陸軍将校用よりも短い。これは着たまま武器が使用でき、逮捕等の活動ができるようになっていたからだ。本論の冒頭の写真は憲兵が襟につけた金属徽章であり、下士官は「憲兵」の腕章をつけた。

 憲兵の養成は、創設以来各師団管区別に教育が行われていたが、昭和十ニ年に陸軍憲兵学校が創設された。学生は甲乙丙丁(後に甲乙丁己)の4種に分かれており、いわゆる学生は丙種(後に己種)とされ憲兵少尉候補とし、教育期間は概ね1年間だった。

 憲兵として有名な人物は甘粕正彦、新見英夫、小坂慶助、槙枝元文、宮崎清隆、横井英樹といったところだろうか。

 ここまで調べてみて思うことは、1890年代における配置のときに春日井へも設置されたのだろうか、とうことだ。

 

5 『日本憲兵正史』より

 

 憲兵について調べているうちに、『日本憲兵正史』(昭和51年)という書籍を入手することができた。資料編第二章の「憲兵諸機関の編成装備配置」を中心に、この地方の憲兵隊の編成を書き出してみる。

 

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宮城、愛知憲兵隊の創設(明治22年<1889年>4月)

    愛知憲兵隊(4/1) 下士47  上等兵80 計127  馬6

         (4/1) 分隊数4 伍の数20

         (4/25)第1管区より第八管区までが愛知県下に配置

             佐官1   士官6 下士50 兵80 計137

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憲兵司令部(大正2年)

    名古屋憲兵隊 

      隊長      中佐   中島短貞

      名古屋分隊長  大尉   須藤昇司 

      岐阜分隊長   中尉   福田義雄

      津分隊長    大尉   薄井宗次     

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内地憲兵隊の編成配置重なる職員(昭和128月現在)

    名古屋憲兵隊

      隊長     大佐 荻根丈之助

      副官     少尉 小野清十郎

      名古屋分隊長 少佐 西村立身

      岐阜分隊長

      豊橋 〃   大尉 立岩正美

      浜松 〃   〃  角田春三

      静岡 〃   〃  藤井忠夫

      三島 〃   〃  林田順英

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憲兵司令官隷下憲兵隊編成表(昭和20815)

        東海憲兵隊司令部 隊司令官  美座時成 大佐

      直轄分隊 豊橋、豊川、春日井、笠寺、岡崎、河和、名古屋、

           築地、機動隊

      金沢地区隊  隊長    西村立身 中佐

         分隊 小松

      富山地区隊  隊長    小林幸良 少佐

         分隊 伏木

      岐阜地区隊  隊長    中村隆夫 少佐

         分隊 各務原

      静岡地区隊  隊長    角田宙七郎 大佐

         分隊 御殿場、三島、沼津、富士宮、清水、浜松、新居

      津地区隊   隊長    都築 敦 大佐

         分隊 四日市、鈴鹿、宇治山田

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これらを見てわかることは、将校の格が順に上がり、担当地区が拡充されていることである。春日井の名が初めて出てくるのは、昭和20815日の終戦の日となっている。憲兵隊の官舎が置かれるのが地区隊や分隊ということであれば、春日井に憲兵隊が設置されたのは、昭12年〜昭和20年の間で、憲兵令が改正されたとき、ということになるはずだ。

 春日井に工廠が建設され始めるのは昭和14年以降であるが、念のため昭和12年からの憲兵令改正を調べてみる。

 

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昭和12年      なし

   昭和13年       なし

   昭和14年           なし

   昭和15 219日  憲兵令改正  憲兵司令部総務部長を本部長に、

                   警務部長を課長に改む。憲兵上等

                   兵を憲兵兵長に改む。

   昭和16 7 8日   憲兵条例改正

   昭和17 522日  憲兵令改正

        11 1日  憲兵令改正

        1117日  憲兵令改正

   昭和181119日  憲兵令改正 北部憲兵隊司令部編成。

                   舞鶴憲兵隊新設

   昭和19年      なし

   昭和20 213日  憲兵令改正

          330日  憲兵令改正 

本土決戦に備え各軍管区(中国、四国は広島、善通寺管区)に憲兵隊

司令部(内地八朝鮮台湾各一)を設置、各府県(朝鮮は各道)に地区

憲兵隊を設く

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6 春日井に憲兵隊があった時期と、意外な任務

 

 最も大きな動きは昭和20330日だ。実は、この時の憲兵令の改正は、勅令第162号を以てなされたもので、大改正だった。内地の各府県に地区憲兵隊が創設し、隊司令部所在地の都道府県には、地区憲兵隊を置かず、憲兵隊司令官の直轄とした。つまり、従来の指揮関係から変えたのだ。

 630日には陸軍省令も改正(陸軍省令第39号)され、「従来の憲兵隊は直轄管轄区域をもたなかった(全部分隊の管轄)が、新設の地区憲兵隊は直轄の管轄区域と分隊の管轄区域があった」というのだ。このときの「大拡張は未曽有のもの」と言い、憲兵学校の総人員が10,674名に及んだとしている。東海憲兵隊司令部(名古屋)も809名(隊司令官 美座時成大佐)、地区憲兵隊5となっている。これは5章の昭和20815日の編成と一致する。

 注目すべき内容は、このときに「春日井」の名前が初めて出てくることだ。東海憲兵隊司令部の直轄分隊の1つが春日井であるので、名称は「春日井憲兵分隊」ということになる。

 そして、この憲兵令改正の目的は「本土決戦に備え」るためとなっている。これは、昭和20120日に大本営が作成した「帝国陸海軍作戦計画大綱」による本土防衛体制を秋までに整備することであり、作戦は、米軍に持久戦を行い、最後に本土決戦を行うというものだった。これは、日本の勝利は望み薄であると知りつつも、本土決戦による被害を米軍が回避しようとすれば和平の機会があるかもしれないということへの賭けだったのだろう。

 つまり、このときの春日井憲兵分隊の任務は、この本土決戦を遂行するためのものだったのだ。

 

7 春日井憲兵分隊のもう1つの任務

 

 重慶政府との和平に失敗して総辞職をした小磯内閣の後に組閣した、鈴木貫太郎内閣の評価はともかく、周知のように本土決戦は回避され、終戦を迎えた。しかし、憲兵隊の任務はこれで済んだわけではなかった。戦後の治安維持である。

 降伏が確定し、連合軍が進駐してくるその時に、理由はさまざまだったろうが米軍を中心とする連合軍との衝突は是非とも避けなければならなかった。周知のとおり日本軍は連合軍の進駐に合わせ武装解除をした。

 しかし、憲兵は逆で、全国に臨時憲兵隊を編成し、強化を図った。東海憲兵隊司令部も例外ではなく、

 

  憲兵司令官隷下憲兵隊編成表

    東海憲兵隊司令官(831) 陸軍少将  長谷川務

 

と、人事異動がなされ、司令官は大佐から少将に格上げされ、名古屋に約3000名が配置された。そして、東海憲兵隊司令官は沼津−笹子峠を連ねた線以東にある隷下憲兵隊を第53軍司令官に配属すると共に、静岡地区憲兵隊主力を以て服務させなければならない、そして、検問所は、少なくとも撤収地区の境界線上交通の要点に設置すること、とした。

 その後、連合軍が進駐してきた地域から、順次憲兵隊は武装解除を行い、1020日以後は内務省に治安警備を依頼。1030日に総員復員を完了。少数が残務整理にあたり、2月1日には憲兵司令部も解散した。

 終戦後の春日井憲兵分隊の隊員の動きについての詳細は不明だが、上記のような流れのなかで職務を全うしたと思われる。

 

   830日  マッカーサー厚木進駐

   9 2日  降伏文書に調印

   913日  大本営廃止

   920日  憲兵の行政、司法警察権停止

  10 9日  幣原内閣成立

  1020日  陸軍省は治安維持の責任を内務省に依頼

  1030日  憲兵総復員

   2 1日  憲兵司令部、各憲兵隊司令部解散

 

 

8 『郷土誌かすがい』に見る記述

 

 しかし、これらを調べているうちに、「鳥居松工廠とその界隈」伊藤浩(『郷土誌かすがい』平成6315日発行 第44号)という論文に憲兵隊に関する記述を確認することができた。引用してみる。

 

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「この頃は交代で隣組が、夜12時に集まって歩いて熱田神宮に行き、

戦勝と出征兵士の武運長久を祈願することが続いた。また、青年会が

出征兵士の家族のため、鳥居松劇場で慰安会を開いたりした。変わっ

たことでは、憲兵隊分所の横の広場で、有田サーカスが1週間ぐらい

興行したが、912日の暴風雨で小屋が全部こわれてしまったことが

あった。しかし、これは直ぐ復旧し興行した。」

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 ここには、「憲兵隊分所」とある。時期は昭和18912日である。5章からすると、名古屋憲兵隊の分所ということなのだろう。この後にも、昭和192月と昭和203月の記述に憲兵が出てくる。しかし、この昭和18年の分所の記述の存在は大きい。憲兵だけではどこの所属かわからなかったが、分所とあれば間違いなく春日井に憲兵隊があったことになる。

 しかも、昭和18年にはこの分所がすでにあったのであるから、どこまで遡ることができるか、ということになる。第4章でも触れたように1890年代という可能性もある。今回は残念ながらこれ以上は調べられなかったが、今後、それらを示す資料等を確認していく必要がある。

 

9 おわりに

 

 「春日井憲兵分隊」が設置は思ったより遅いことがわかった。春日井憲兵分隊の記録がほとんどないのは、こういった事情も関係があるのかもしれない。

 私は当初、工廠がつくられる時期よりも前、少なくとも太平洋戦争の準備段階として設置されていたのではないかと考えていた。さらに、私が見覚えのある鳥居松にあった鉄筋コンクリートでできた春日井警察署の官舎が、憲兵隊の官舎であると勘違いしていた。鉄筋コンクリートとはいえ、この官舎が戦前のものにしてはかなり立派だったのは、憲兵隊の官舎だったからだろう、と思い込んでいた。実際、そのように書いている書籍もあるからだ。

 しかし、春日井警察が鳥居松7丁目に移転してきたのは昭和297月で、しかも新庁舎を建設したと『春日井市史』に明記してある。それは、『写真アルバム 春日井・小牧の昭和』のp105でも確認できる。まずは「勝川警察署」が廃止され、昭和23年に自治警察として「春日井市警察」が発足。官舎は王子町の鳥居松工廠跡地に設置された。さらに昭和29年に自治警察が廃止されて愛知県警に統合され、「春日井警察署」として鳥居松7丁目に移転。このときの庁舎は木造だった。鉄筋コンクリートではなかったのだ。この木造の庁舎が春日井憲兵分隊のものだったのだ。そして、昭和41年に私にも記憶のある鉄筋コンクリート造二階建ての新庁舎となったのだ。この後に、三階建ての庁舎が増築されている。

 つまり、前出の中日新聞の記事に「1946(昭和21)年、同市勝川町から移転してきた現庁舎は三階建てで…」とある記事はいくつもの間違いを含んでいたのだ。このこともあり、追究していた私は混乱を深めたのだった。そして、それに気づいて整理がつくのに随分と時間がかかってしまったわけだ。

 しかし、9章でも示したとおり、春日井の憲兵隊はもう少し遡る可能性が出てきた。となると、やはり春日井に工廠が設置されたころからという当初の予想もあながち間違いではないかもしれない。

残された文献等を渉猟し、わずかな手がかりを蓄積していく必要がある。残念ながら今回の追究はここまでだが、今後の研究のたたき台になれば幸いである。今後の研究に期待したい。

 ちなみに、陸軍と彫られた石柱は春日井市役所の総務課が保管しており、鳥居松7丁目にあった官舎の写真は、木造のものも鉄筋コンクリートのものも、やはり春日井市役所の広報広聴課が保管している。そして、私が撮影した写真は文化財課が保管している。将来、春日井の戦争遺跡が近代遺跡として取り上げられる機会が訪れることを期待し、その際にそれらが生かされることを期待したい。

 今回は春日井の憲兵隊について追究してみた。色々な意味でなかなか骨の折れる作業だったが、春日井の歴史をまた1つ掘り起こすことができてうれしく思う。

 

                                          令和337日