国鉄瀬戸線を追って

「国鉄瀬戸線を追って」 富 中 昭 智  『春日井郷土史研究会紀要 第3号』

 

1 はじめに

 

 下の写真を見て頂きたい。今ではほとんどお目にかかることがなくなった懐中時計である。この時計の大きさは、直径がおおよそ5cmあり、結構大ぶりな懐中時計である。ケースの裏蓋には見慣れないマークが入っていることが見てとれる。実は、このマークは、「愛知環状鉄道」の社章ということがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏蓋に「愛環」の社章の入った鉄道時計

 

 

 

 

『中日新聞』[1987年(昭和62年)623]によると、1987年(昭和62年)4月に車両のデザインと共に一般公募を行ったところ、社章には891点もの応募があり、広川幸次氏(岩倉市)のものが最優秀作品に選ばれたと紹介されている。図案は、愛知の「A」と環状線をイメージ化したもの、とのことだ。つまり、この時計は、かつて愛知環状鉄道の車掌や職員などが使用していた「鉄道時計」と推測できるわけである。ちなみに、ムーブメントはクォーツであり、メーカーはセイコーということがわかる。私がこの鉄道時計を入手したのは、つい最近のことだった。そして、今年[2016年(平成28年)]が、愛知環状鉄道(本社:岡崎市)設立30周年ということを知ったのである。 実は私は以前から、そもそも愛知環状鉄道はなぜ「環状」の名前を有しているのかなど素朴な疑問をいくつかもっていた。そこで、今回の紀要では、この愛知環状鉄道についてこれまで疑問に思っていたことついて解決を図りたいと思う。

 

 

愛知環状鉄道路線図

 

 

 

2 愛知環状鉄道とは

 まずは、愛知環状鉄道について簡単に整理しておきたい。愛知環状鉄道は路線延長45.3kmの愛知県で初めての第3セクター鉄道であり、1986年(昭和61年)919日に設立され、1988年(昭和63年)131日に開業した。路線は、岡崎駅〜高蔵寺駅で、国鉄岡多線の岡崎駅〜新豊田駅間と日本鉄道建設公団の新豊田駅〜高蔵寺駅間を合わせた形になっている。東海道本線・中央本線を含めた環状線の構想となっており、これが「環状」の理由だったのだ。

 沿線は、春日井市・瀬戸市・豊田市・岡崎市の4市にまたがり、その人口は100万を超え、19の大学が株主として共同出資をしていたことから、その期待の大きさが推し量れよう。乗車数は、開業年は400万人そこそこだったが、2012年(平成24年)には1497万人に増加していて、黒字経営とのことだ。また、2005年(平成17年)に開催された日本国際博覧会(愛知万博、「愛・地球博」)の際、八草駅から浮動式リニアモーターカーが観客の輸送に使われたことは記憶に新しい。

 これぐらいが、一般の方がお持ちの愛知環状鉄道に関する情報ではなかろうか。しかし、愛知環状鉄道の路線の歴史は想像以上に複雑ということがわかってきた。

 

3 国鉄瀬戸線と国鉄岡多線

次の文章は、春日井市中央公民館にある「四つ建て」民家(春日井市文化財課所蔵の古民家)の表玄関横に、かつて設置されていた説明看板の冒頭である。勝川町五丁目にあった小林俊光氏の旧宅で、国鉄瀬戸線工事のため取り壊して現在地に移築、昭和五十三年十一月に復元された。

 

 

 

これは、「四つ建て」民家の旧看板(昭和5311月 春日井市教育委員会)。現在は新しい看板がかかっており、「国鉄瀬戸線」の文言はなくなっている。ちなみに、「四つ建て」民家の名称は、この地方の農家の標準的な家屋ということから、中部大学の富山博名誉教授が命名したものである。今では貴重な文化財ということで、現在、春日井市中央公民館の敷地に保存されている。

 

私が文化財課に勤務していたころ、この旧看板を読んで、「国鉄瀬戸線」を名鉄瀬戸線と勘違いする方が大変多かったという記憶がある。人によっては、この看板は間違いであるのですぐ訂正すべき、という方もみえた。

しかし、よく見ればわかるのだが、<勝川町五丁目にあった>とある。つまり、この「四つ建て」民家も国鉄瀬戸線工事も、現JR勝川駅の南辺りのこととなり、名鉄瀬戸線ではないのだ。

 

では、国鉄瀬戸線とは何か?

 

鉄道敷設法 別表一 第72号ノ2 に次のようにある。

 

「愛知県瀬戸ヨリ稲沢ニ至ル鉄道」

 

これは昭和37年に追加されたものであり、これが「国鉄瀬戸線」の構想である。なぜ、ここに国鉄瀬戸線について書くかというと、愛知環状鉄道の路線の一部はこの国鉄瀬戸線と関りがあるからである。元々は、戦前から議論されてきた中央本線の名古屋市周辺における城北案(現在の路線は城東案)への変更構想等が、この国鉄瀬戸線のルーツであり、実際は、戦後に枇杷島駅〜勝川駅〜高蔵寺駅〜瀬戸市駅という形となって表れた。

他方、国鉄岡多線の構想は、その名前のとおり、元々は岡崎〜多治見を結ぶものだった。ところが、モータリゼーションの波や景気悪化、国鉄の分割民営化などから計画が一旦凍結され、構想が再び動き始めた時には、国鉄瀬戸線との関連が議論され、国鉄瀬戸線を枇杷島駅〜勝川駅間、高蔵寺駅〜瀬戸市駅間に分離する構想が進んだ。もうお分かりと思うが、高蔵寺駅〜瀬戸市駅間が岡多線構想に組み込まれ、瀬戸市駅〜多治見駅間は棚上げになったのだ。

つまり、現在の愛知環状鉄道の路線のうち、高蔵寺駅〜瀬戸市駅は国鉄瀬戸線のものであり、それ以南は国鉄岡多線のものだったのである。そして、残りの国鉄瀬戸線の路線について、勝川駅〜枇杷島駅間は「城北線」に名前を変え、JR東海の子会社「東海交通事業」が運営者となり、1991年(平成3年)121日に開業している。そして、勝川駅〜高蔵寺駅間は中央本線の拡幅のための用地買収のみで終わっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸線・岡多線の路線図
中日新聞 昭和60年10月17日

 

 

 

 

 

4 城北線の勝川駅

ちなみに、春日井市民でもよく知らない方がみえると思うので、ここに城北線の勝川駅について触れておく。現在、春日井市には、勝川駅が2つある。1つはJR勝川駅で、もう1つは城北線の勝川駅である。

城北線の勝川駅は、将来、JR勝川駅に乗り入れができるように準備はされているという。しかし、現在は、JR勝川駅から中央本線の上り方面に沿って500mほど歩いて行かなければならない所にある(しかも城北線の勝川駅の入り口は、さらに階段を上ることになる)。この駅から南へ国道302号までと、西へ国道19号までの範囲が、「四つ建て」民家の旧看板にある勝川町5丁目におおよそ該当することになり、そのなかでも、小林俊光家は、この城北線の高架工事にかかわる範囲にあったことになるわけである。そして、この城北線が、当時、「国鉄瀬戸線」と呼ばれていたのである。勝川駅付近を把握する参考として頂くため、地図と航空写真をグーグルマップから借用して貼っておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 鉄道時計とは

 最後に、冒頭で触れた「鉄道時計」とは一体何か、ここで詳しく説明しておきたい。

鉄道時計はアメリカが発祥の地である。きっかけは、1891年にオハイオ州のキプトンという所で起きた列車の正面衝突事故だったという。原因は鉄道員の持っていた時計がわずか4分遅れていたためということだった。それから、正確で、視認性がよく、耐久性のある時計が必要ということになった。

そこで、鉄道員が専用に使用する時計として、ウェッブ・C・ボールが定めた基準に従って製造することとなったのだ。その基準は次のようなものである。

@ サイズは18サイズ、もしくは16サイズ(16サイズの外径は約5cm

A 軸受け等に17石以上の石を使用していること(石の数が多いほど摩耗しない)

B 5つの姿勢での精度が高いこと(時計が傾いても正確)     

C 精度は1週間に±30秒以内

D 温度は華氏40度から100度(摂氏4.437.8度)で時間調整が可能

E 竜頭は12時の位置にあること

F 白い文字盤に、黒いアラビア数字で、太い針

G 秒単位の時間調整が可能であること

H 蓋のないケース(オープンフェイスで視認性がよい)

などが挙げられる。

もちろん、発条(ゼンマイ)で動く機械式時計である。あくまで精度と堅牢性にこだわった時計と言うことができる。有名な鉄道時計メーカーは、ウォルサム、エルジン、ハミルトン、イリノイ、ロンジン、ゼニット(ゼニス)など。これらメーカーの鉄道時計は、手入れさえしていれば今でも稼働可能であり、しかもかなり精度を高くすることができることに驚かされる。

 日本では、明治維新以来、鉄道は文明開花の象徴であり、時計も多くを輸入していた。しばらくして懐中時計については国産化に成功したが、鉄道時計は同じ精度の時計を作ることはできず、当初は輸入していた。高価なものだったはずである。他方、大正から昭和の初頭にかけて、工業製品などの国産化奨励運動が盛んになり、この鉄道時計もその対象となった。そして、1929年(昭和4年)に、鉄道大臣令が出され、精工舎(現セイコー)の19型の懐中時計が国産初の鉄道時計として認められたのである。

通称「19セイコー」(ジュウクセイコー)と言う。その精度については、アメリカ製やスイス製には及ばなかったものの、堅牢性に優れ、十分に実用に耐えると認められた。もちろん、当時は昭和恐慌から世界恐慌の時代であり、輸入が難しくなっていたなど、他の理由も絡んでいた可能性はある。かし、この19セイコーは1971年(昭和46年)まで製造され、長い期間に作られ続けたことからもわかるように、国内での評価は高かった。しかも、鉄道時計だけでなく、電話交換手の交換時計、飛行時計・航空時計などの軍用時計など、そのバリエーションの多彩さがマニアにとって魅力になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冒頭の愛知環状鉄道の社章の入った鉄道時計は、この19セイコーの流れを汲む、クォーツ時計だったのである。細かいことだが、マニアによれば、19セイコーは機械式時計でなければならず、ムーブメントもその名のとおり19型でなければならないので、セイコーの鉄道時計であっても、この愛知環状鉄道の鉄道時計はいわゆる19セイコーではなく、あくまで19セイコーの後継機ということになる。

しかし、春日井に縁のある鉄道時計はほとんどないとあきらめていたところだったので、今回、愛知環状鉄道で使用していたことがわかる鉄道時計を、愛知環状鉄道設立30周年の今年に入手できた幸運を嬉しく感じ入っている。

 

6 おわりに

 今回の小論では、鉄道時計と「四つ建て」民家の看板をきっかけとして、「国鉄瀬戸線」「愛知環状鉄道」「城北線」について取り上げてみた。以前から疑問に思っていたことを整理しておきたいと考えていたので、今回、このような形で簡単にではあるがまとめることができて嬉しい。最後に、参考にした資料を挙げておく。

 

  ・「愛知環状鉄道の10年」 10年史編集プロジェクトチーム編 1998

  ・「出発進行! 愛知環状鉄道」愛知環状鉄道連絡協議会 1988

 

2016年(平成28年)116日