→二十八防空隊

 

「夫の想いを記憶の彼方へと閉じこめた六十余年間」佐藤ツギエさん

『わしズム vol.19 2006夏 大特集 戦争論以後』p78〜p79

【女達の「戦争論」61年目の恋文】 ジャーナリスト 笹幸恵

 

 

<淑子さんと同様,未亡人のまま一人娘を育て上げた女性がいる。佐藤ツギエさん(九十歳)。頭髪ばかりか睫毛まで真っ白になったその姿が,

戦後の年月の長さを感じさせる。

 「再婚の話もあったけど,私自身は考えたことがなかったですねえ」

 夫の佐藤三郎さんとは,彼の姉と,ツギエ三の叔父が結婚していたことから見合いとなり,昭和十二年に結婚。ツギエさん二十一歳のときだ。二年後には一人娘の幸子さんが誕生する。

 三郎さんは,昭和十七年から海軍第二十八防空隊員として,ソロモン諸島にあるブカ島付近の防備の任務にあたっていた。現役を満期除隊した後の,再度の応召だった。

 ツギエさんの場合も,夫との別れは呆気ないものだった。

「現役兵のときは内地勤務でしたから,また行ってもいずれ帰ってくる。そういう感覚で送り出しました。」

昭和二十年一月,三郎さんはブカ島から目と鼻の先の小島,ソハナ島の野戦病院で亡くなっている。一年以上も経って,戦死公報が届いたが,夫の死の前後の記憶が,ツギエさんにははっきりしない。

「だんな様の死を知って,どのように感じましたか」

「……」

「納得できない気持ちが先でしたか。それとも,やっぱりという諦めに似た感情だったのでしょうか。

「……やっぱり,という感じでしたかねぇ」

「娘さん一人抱えて,これから先どうしようかと不安になったこともあったのでは?」

「……」

夫の死をどのように受け止めたのか,そこから生きていくためにどうやって気持ちの整理をつけたのか。そこが,最も知りたいところであった。

しかしツギエさんに言葉はない。

 後日,娘さんの幸子さんが母の無言をつなぐかのように,私にこう語ってくれた。

 「私もこれまで何度か母に尋ねているんですけど,記憶がはっきりしないんですよ。六十年経って忘れてしまったのか? そうじゃないと思います。あまりにショックで,そのつらさを忘れたい。たとえ忘れられなくても,忘れていたい。そういう感覚が無意識のうちに働いて,六十年間,ずっと記憶の外に追いやってきた。その結果ではないかと私は感じるんです。

 夫の三回忌を済ませたツギエさんは,大分の夫の家を出て働き始めた。夫の勤め先でもあった日本鉱業(現・新日鉱ホールディングス)独身寮の寮母として,住み込みの職を得たのだ。以降,六十歳になるまで働いた。

 「新しい洋服を買うとか,家を持つとか,すべて二の次でした。裸一貫,ただ食べていくだけで精一杯だったんです」

 独身寮の若い社員達は,ツギエさんの温かな人柄に母の姿を重ね合わせた。今でも独身寮仲間の集いがあると,ツギエさんは招待されて出かける。

 今年五月,ツギエさんは娘の幸子さんとソハナ島に降り立った。ツギエさんにとっては,三年ぶり二度目。島民の厚意で建立された。父の墓碑代わりである慰霊碑に,平和を祈念する銘板をはめ込むためだ。この記念すべき儀式に,ブーゲンビル自治政府首相のジョセフ・ガブイ夫妻も参列。現地の新聞では一面トップで報道された。記者はツギエさんのことをこう表現した。

 「九十歳になる未亡人は,年を感じさせないほど力強い」

 私が取材に訪れたのは,ブーゲンビルから帰国した翌日だった。疲れているはずなのに,心なしか表情や足どりにハリがある。

 「ブーゲンビルに行く前は身体のあっちが痛い,こっちが痛いとやっていましたが,行くと決まってからは不思議とそれがなくなっていったんですよ」

 戦時中のことを多くは語らないツギエさんに,私は最後の質問をした。

 「……幸せでしたか。これまで」

 しばらく間を置いた後,ツギエさんはまるで自分に言い聞かせるかのように,ゆっくりと言葉をつむいだ。

 「欲を言っても始まりません。親子が健康で,こうしてブーゲンビルで夫にも無事に報告ができました。……これが,幸せというものでしょう」

 このとき,六十余年という長い長い月日のさまざまな出来事がツギエさんの脳裏に去来したのだろうか。真っ白な睫毛の奥から落ちた一粒の涙が,苦労を重ねたその手を濡らしていた。

 

平成21913日(日)

 よく似た話を本などでは読んだことがありますが,祖父の部隊にもいたんですね。

もっとも,祖母も同じような人生を送ったわけですから,決して他人事ではありませ

んが,何分にも祖父が隊長だったということを考えると気の毒と言うしかありません。

お国のためだからという言葉で片付けるには余りに重い現実を感じ入っています。

 私の父は,祖父が戦死したとき徳島県の旧制中学校に通っていたときだったので,

やはり,記憶がもう一つということですが,母や兄弟姉妹と苦労をしたのは,むしろ

戦後だったと聞いています。私が徳島県でなく,この愛知県にいるということとも無

縁ではありません。人に歴史あり,とは言い得て妙です。過去に起きたことは変えら

れません。そのため,自分の人生は,自分だけのものではなく,祖父や祖母,そして

両親のためにもしっかり生きなければいけないと改めて感じています。