「ソハナの戦い」    二十八防 川崎清臣

 

 

昭和十八年九月中旬ラバウル第一飛行場の十二・七糎高角砲陣地を撤収、

ブーゲンビル島ブカ地区ソハナ島(周囲二千米位)に上陸して、高角砲陣地

を構築した。十月中旬富中音治隊長の号令一下敵P28偵察機に向け第一弾

が発射された。十月三十日午後十一時頃、敵艦隊の艦砲射撃を受けたので我

が隊は、水平射撃で応戦した。シード岬より「敵艦に弾着あり」の発行信号

に大声で万歳を叫んだところ、隊長より「落ち着け」と戒められた。暗闇の

中を大発がシード岬に急行するのが、かすかに見えた。これは八七警の陸戦

隊員たちであった。十一月一日タロキナに敵上陸の報あり、以後敵機は毎日

襲来した。

十九年五月ソハナ島に二十五粍連装機関銃及び二十ミリ航空機銃を増備し、

文字通り要塞化した。我々は最後の勝利を信じ一日も休む暇なく、敢然と斗

った。その士気は極めて旺盛他の隊より勝るとも劣ることはないと思ってい

た。然し毎日戦斗の疲労は次第に重なりその上マラリヤ、下痢、熱帯潰瘍に

罹る者も出たが、この病魔を圧して、死力を尽くして斗った。その内、薬品

も食糧も無くなり、飢をしのぐため、敵機の襲来の合間に、堅い赤土の島を

開墾して芋を植えた。又敵機の目をかすめてヤシ取りに、漁労に力を尽くし

た。生と死は一枚の紙より薄いという過酷な環境の中で、お互いが生きて郷

里に錦を飾るまではと、励まし合って頑張りました。しかし多くの戦友が、

つぎつぎと倒れて、散華され、本当に痛ましい限りです。

紺碧の空に南十字星が浮かんでくる頃、同年兵の木太貞一君と島の先端に

行き「お母さんは元気だろうか。帰ったら腹一杯ご飯を食わしてもらおう」

と、泣きながら語ったこともあった。まだ二十才に満たぬ我々は子供心を脱

ぎきれなかった。私は連絡員として八十七警本部に行くことが多かった。加

藤司令は「ソハナはどうか。隊長は元気か。頑張ってくれ」と優しく激励し

て下さいました。帰島して、そのことを報告すると、隊長はいつも指揮所で

脱帽し、本部に向かい最敬礼をしておられたが、その心境はなお今でも察す

るに余りある。十九年十二月二十日に当直中、マラリヤで熱発した。そのと

き木太君は「病室に行け」と言い代務についた。何十秒後に敵機が来襲して

戦斗が開始された。その時指揮所付近で爆発音が響いた。爆弾は指揮所を直

撃して隊長、木太水兵をはじめ数名が戦死した。何という運命のいたずらか、

代わってくれた戦友を死なして、私は残念でならず男泣きに泣いた。砲弾も

残り少なくなって、司令よりの命ある時以外は射撃中止となった。あとは機

銃だけの対空戦となった。欠員は各隊から派遣されたが「ソハナは地獄の島

だ。生きて帰れぬ」という噂も広がって、皆この島に来るのを嫌っていた。

二十年四月からは、敵はソラケン半島から砲撃するようになった。そのため

に日中は芋も掘れず、夜間芋を集める他なくなった。

二十年八月十六日敵機二機が日本降伏と翼に書いて飛来したが、そんな宣

伝に乗れるものかと二機を攻撃した。二機はソラケン半島方面に消えたが、

たちまちソラケン半島から何百発もの砲弾の雨が降ってきた。本部連絡で停

戦を知った。その夜、弾薬を海中に投棄した。生きて日本の土を踏めるかど

うか分らない、という噂が飛んだ。派遣隊員は、原隊に復帰したが、我が防

空隊々員はどうなるのか、終戦とは大吉なのか、大凶なのか。これから先の

ことを思う隊員の表情はそれぞれ違っていた。やがて接収が始まり地獄の孤

島から解放され、夢にまで見た内地への一歩が近づいた。

 

コルセアー問題で見解を示している川崎さんの報告です。指揮所付で祖父富中音治に

ついていた少年兵だったとのことであり、八十七警の加藤司令(加藤榮吉海軍大佐のこ

とと思われる)との様子などが書かれていて興味深く読みました。また、ソハナ島は欠員

補充が他の部隊からなされる隊であり、行くのを恐れられるような陣地であったことも書

かれています。実は私は川崎さんに、福岡までお会いしに行った覚えがあります。そのと

きは急な訪問にもかかわらず気さくに色々な話をしてくださったことを覚えています。

このHPもかなり充実したものになってきました。

 

 

 

 

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