名古屋陸軍造兵廠しょう鷹来製造所を追って

名古屋陸軍造兵(しょう)鷹来製造所を追って 富 中 昭 智   『春日井郷土史研究会紀要 第4号』

 

1 はじめに

 

 

 

 

名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡
Google mapより 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の航空写真から現在の春日井市総合体育館、名城大学農学部附属農場、日本通運、パナソニック・エコシステムズ、春日井浄水場、鷹来中学校などが見てとれる。ここは、春日井市の西北部に位置しており、大きな敷地を有した事業所や施設がかたまっているところである。

春日井市総合体育館の西側に左下の写真のような石碑があることに気づく。碑文を読むと、「名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡」とある。右下の写真は石碑の裏である。写真では読みにくいので、少し長いが、その下に碑文を書き出してみる。

 

春日井市総合体育館の入口に向かって左側にある。立派な石碑ではあるが、足を止めて見入る人は少ない。ましてや裏にこのような碑文があることを知っている人は少ないと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 沿革

昭和十五年二月     九九式小銃弾製造工場用地として約二十六万坪(うち六万坪は西山町地内)陸軍により強制買収され、敷地造成工場等建物の建設     

が始まる。

昭和十六年 六月一日 名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所鷹来分工場として発足。一部生産開始。

昭和十六年十二月一日 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所として開設され、造兵廠本部より、会計、医務、技術、作業、監督、各課分室と製造所庶務、

工務、検査、後に防衛の各掛及び第一、第二、第三、第四、第六(西山町地内)の各工場、その後第五、第七工場が設け

られ、軍人、一般工員、徴用工員、女子挺身隊員、動員学徒(約一千名)を加え、その数約五千有余命を超え、昼夜二交

代制の激務の続く中フル生産を行った。

 

昭和二十年八月十五日 終戦により工場閉鎖

 

茲に従業員、動員学徒有志の浄財により当時の歴史を後世に伝え、恒久平和の悲願をこめてこれを建立。

 

昭和六十一年八月 記念碑建設委員会」

 

 この碑文からは次のようなことがわかる。

 @ここは、「名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所」があった。

A「九九式小銃弾製造工場」だった。

B用地は26万坪で、うち6万坪は西山にあった。

Cそれら用地は陸軍に強制買収された。

D昭和16年6月1日に「名古屋陸軍造兵廠高蔵製造所鷹来分工場」として発足。

E同年12月1日に、「名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所」として開設された。

F工場は、西山を含めて、第1から第7まであった。

G「動員学徒」の約1000名を加えて、「軍人、一般工員、徴用工員、女子挺身隊員」の5000名あまりが働いていた。

 H勤務は、「昼夜二交代制」でフル生産を行った。

 I終戦の日に閉鎖された。

 

 読めばすぐにわかることも多いが、専門用語のためよくわからないこともある。ここでは、まず陸軍造兵廠の組織を確認し、製造していた九九式小銃弾について明らかにしたい。

 

2 名古屋陸軍造兵廠とは何か

 まず、造兵廠とは何か。『大辞泉』を見ると次のように載っている。

 

「陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。旧日本陸軍

では大正12年(1923)に砲兵工廠を改称して設置。本廠を東京赤羽(のち福岡県小倉)

に置き、各地の工廠を管轄した。」

 

要するに、造兵廠とは陸軍直営の兵器工場のことである。武器や弾薬などの軍需品を開発・製造などした。そして、傘下に6つの工廠があった。@陸軍造兵廠東京工廠、A陸軍造兵廠火工廠、B陸軍造兵廠名古屋工廠、C陸軍造兵廠大阪工廠、D陸軍造兵廠小倉工廠、E陸軍造兵廠南満工廠、がそれである。

 そして、さらにBの陸軍造兵廠名古屋工廠の傘下に、鳥居松製造所、鷹来製造所のほかに次のような製造所があった。

熱田製造所 … 観測車、弾薬車、山砲、航空用機関砲

高蔵製造所 … 野砲、山砲、高射砲、榴弾砲、機関砲などの弾丸

立川製造所 … 航空機

千種製造所 … 固定航空機関砲、軽機関銃

鳥居松製造所は、正しくは「陸軍造兵廠名古屋工廠(名古屋陸軍造兵廠)鳥居松製造所」、鷹来製造所は、正しくは「陸軍造兵廠名古屋工廠(名古屋陸軍造兵廠)鷹来製造所」と言った。

 

3 九九式小銃弾とは何か

銃や弾に関係がありそうだ。全くの素人のため、専門書を紐解いてみる。

 

「(92式重機関銃の)7.7ミリの採用で、それが性能面ではどうやら不満が解消される

と、必然的に小銃の大口径化が頭をもたげてくる。これが99式小銃となって採用とな

る。7.7ミリ、昭和14年、皇紀2599年(1939年)のことだ。」

(「世界銃砲史 下」p777

 

つまり、九九式小銃というものがあって、それは大口径化した7.7ミリの銃弾を採用したようだ。小銃というと、小さい銃だから拳銃、と勘違いしてしまいそうだが、どうも違うらしい。「近距離における対人用の個人携行火器。ライフルrifleもしくはライフル銃と通称されることがある。」(『平凡社大百科事典』)とある。つまり、兵士一人一人に与えられる軍用銃で、いわゆるライフル銃のことだったのだ。大砲を「大銃」と呼んだことに由来するものであり、明治時代以後は大銃という言葉は使われなくなったため、小銃という言葉のみ使用されているらしい。

九九式小銃は太平洋戦争時に日本陸軍の主力小銃だった。そして、やはりその前の主力銃だった三八式歩兵銃の後継機として開発されたという。九九式小銃の生産総数は250万挺。ちなみに、ルバング島で発見された小野田少尉が持っていたのがこの九九式小銃だったという。陸軍造兵廠名古屋工廠千種製造所の岩下賢蔵少佐が開発責任者となり、陸軍第一技術研究所の銅金義一大佐らとともに開発に携わった。三八式歩兵銃の銃弾は6.5ミリだったため、九九式小銃の銃弾7.7ミリが大口径化と言われているのだ。

そして、肝心なところであるが、鷹来製造所の碑文にあった「九九式小銃弾」は、この九九式小銃の銃弾だったのだ。よって、この銃弾(実包という)を製造していたのが鷹来製造所だったということになる。

 

ここで、『郷土誌かすがい』25号「工廠」の一部を引用してみる。

「鳥居松工廠への原料の供給は、日本製鉄(株)より名古屋港に普通鋼を陸揚げして、鉄道で中央線経由で鳥居松補給廠に送られ、そこから工場へ送られた。銃身の材料である特殊鋼は、港区の大同製鋼(株)よりトラック輸送か牛車で輸送された。」

「鳥居松工廠では、(略)1万数千人の従業員の手で九九式小銃を中心に()つくられ、日本陸軍の小銃、銃弾の最大生産工場になっていった」

鳥居松工廠とは、2に出てきた鳥居松製造所のことである。この鳥居松製造所は九九式小銃の国内最大の生産工場だったとある。下の写真は、鳥居松製造所の跡地(現王子製紙)に建てられた慰霊碑である。この碑は2回の春日井空襲で命を落とされた方たちのためのものであり、この碑文にもこのことを裏づける内容が記されている。やはり、少し長いが書き出してみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥居松製造所の「慰霊碑」。近年、8月14日に投下された爆弾が原爆模擬弾だったことがわかっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「碑文

名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所は此地に所在して 九九式小銃を主とし各種の携帯兵器を生産する旧陸軍最大の工場であった 大東亜戦争中一萬数千人

の従業員は昼夜兼業にて生産奉国に挺身したが 昭和二十年三月二十五日及び八月十四日の空襲により 永久保所長以下三十名の尊き殉国の士を出した

事は痛恨の極みである 爾来二十有一年の歳月は流れ平和の繁栄を見るにあたり 益々追憶の情に堪えず 茲に有志の浄財により此碑を建設して慰霊の微

意を捧げる

 

昭和四十一年十月  

 

発起人 名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所元従業員の会 名鳥会」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前出の「世界銃砲史 下」にあるように、九九式とは皇紀2599年(1939年 昭和14年)のことである。昭和14年と言えば、太平洋戦争が始まる昭和16年の2年前である。この九九式小銃と銃弾を速やかに戦場に送り出すべく大規模に製造するために建設されたのが春日井の鳥居松製造所と鷹来製造所だったのだ。

 

4 九九式狙撃銃という銃がある

 この小論の執筆をすすめていたとき、偶然だが、興味深い映画を観た。『最後の弾丸』(The Last Bullet)というテレビ映画である。これは日豪合同で製作されたテレビ映画であり、太平洋戦争終戦間際のボルネオの戦いを舞台にしている。

 映画のなかで、主人公である山村伍長が持っていたのが九九式狙撃銃だと、後で調べて知った。狙撃銃は、特に遠距離から撃たなければならないので、目標をとらえるために高倍率のスコープを付けている。これはレンズを組み合わせた望遠鏡のような、狙いを定める装置のことである。映画のなかでは、この九九式狙撃銃がかなりの高性能であるように描かれていて、大変印象に残った。

 調べてみると、この九九式狙撃銃は、九九式小銃の生産ラインの中から精度が高い個体を選び出し、それにスコープを装着する台座をつけた。スコープは、倍率が4倍、有効射程距離1,500mという。

このスコープの製造を担当していた企業は、ニコンをはじめとする現在の日本における光学系の錚々たる企業ばかりだ。九九式狙撃銃は生産総数が1万挺というから、九九式小銃の総生産数のほぼ1/250のということができるだろう。精度が高かった個体を選りすぐり、そのうえで高性能になるべく調整を施して製造したのが九九式狙撃銃だったのである。

この狙撃銃は、上記のような製造をすることから鳥居松製造所だろうと推測はしていたが確証はなかった。しかし、今回、HP『一般社団法人岐阜北法人会』のなかの「ふるさと秘話 工場勤務の兵隊たち」(道下 淳)というエッセイのなかに、その確証を見つけることができた。鳥居松製造所で造っていたものは「99式小銃▽100式機関短銃▽99式狙撃(そげき)銃▽拳銃」と明記しているのだ。この筆者は鳥居松製造所に勤務していた人で、「食糧確保係を下番(交代)、鳥居松製造所長 龍見南海雄(たつみなみを)大佐の当番となった」と紹介している。また、陸軍の制式銃器としての自動小銃を、鳥居松製造所で試射した体験も併せて書いている。 

あの映画に出てきた九九式狙撃銃と鳥居松製造所がこれで繋がった。この九九式狙撃銃を春日井の鳥居松製造所で製造していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 むすび

 これまで見てきてわかったように、鳥居松製造所と鷹来製造所は太平洋戦争時の陸軍の主力装備であった九九式小銃・九九式狙撃銃、そして、その実包を製造していたことがわかった。しかも、その国内最大の生産拠点だったということがわかって驚いた。飛行機や大砲、軍艦のような派手さはないにしても、時代と大きく関わっていたことを実感できる。

 実は、九九式小銃が試作された年が1938年(昭和13年)であり、今年2018年(平成30年)はちょうどその80周年に当たる。日本に再び戦争の惨禍が起きないことを願うためにも、戦争の記憶を消さない努力が必要なのではないかと思う。

 

 ・「工廠」 梶田久忠 『郷土史かすがい』25号 春日井郷土史研究会

 ・『世界銃砲史 下』 岩堂憲人 国書刊行会 19951120日第一刷

 ・HP『25番(省力型)』 たかひろ 

 

                                                                                 2018年(平成30年)128