内津ルートへの中央線敷設反対運動があった可能性をさぐる

内津ルートへの中央線敷設反対運動があった可能性をさぐる

『春日井郷土史』第7号

                                    富 中 昭 智 

 

1 はじめに

坂下地区には中央線敷設反対運動があったという里伝があった。それらについては、『春日井の歴史物語』(以後、『物語』)と『春日井市の近代史話』(以後、『史話』)という春日井市教育委員会が発行した書籍に詳しい。どちらも下街道沿いに多治見から内津峠を超えて坂下地区を通るルート(以後、内津ルート)に決まったのは、明治262月に第1回鉄道会議において「筑摩線」が採択されたことと関連して書かれている。

確かに、筑摩線はこの第1回鉄道会議のときに採択された。しかし、併せて審議されたのは瀬戸ルート、小牧ルート、高蔵寺・勝川ルートのみで、内津ルートについては検討もされなかったというのが事実である。よって、坂下地区(内津)に反対運動が起こるはずもなく、それを裏付ける文書もないため、いわゆる中央線敷設反対運動はなかったというのが「中央線が開通するまでの歴史」(安田裕次)『郷土史かすがい第66号』の主張である。これは安田氏本人が述べていることであるが、青木栄一氏の『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館)の影響が大きい。すなわち、この内津ルートの件は候補にもあがっていなかったはずで、反対運動があったとは言えないという結論になるのは無理もないことである。つまり、『物語』にも『史話』にもある「多治見から名古屋に至る路線の決定が宙に浮きかけた状況となった」というのが明治26年2月の第1回鉄道会議のときとしていることそのものが明らかな間違いだったのだ。

しかし、だからといって、内津ルートが全く俎上にのぼらなかったのだろうか。また、それに伴う反対運動がなかったといえるのだろうか。第1回鉄道会議以前のことだったとしたら、そして、公式な記録には残っていなくても技師の素案やアイデアだったり、そのレベルに至る前の何某かの動きに対するものだったりするという可能性はないのだろうか。

そこで、今回の小論では次のことを追究したい。

現段階で、内津の中央線敷設反対運動があった可能性はないのか
 

 

 

 


2 青木氏もすべてを否定しているわけではない

前出の青木栄一氏による『鉄道忌避伝説の謎』が出版されたのは2006年(平成18年)のことである。建設反対の陳情など忌避に関する基本史料が存在しないことから、鉄道のルート選定は技術・地形によるものであると結論づけ、それら技術的問題に通じていなかった地方紙研究者が伝説化したとしている。元になった論文は1982年(昭和52年)に書かれた「鉄道忌避伝説に対する疑問」だ。

しかし、青木氏も全くなかったと言っているわけではない。先立つイギリスの鉄道の黎明期には反対運動が盛んに行われたことは議会記録や会社の記録に残っており、青木氏もそれについて認めている。日本でも鉄道忌避が確認できるものをいくつか挙げている。そして、青木氏はこの論文の結語で次のように述べている。

 

@明治20年頃以降は存在する可能性は低いと思われる。

A明治20年頃以前にあっては、軍部や保守的な士族層による鉄道反対、あるいは汽船化された

水運との競争を避けて、競争区間における鉄道の敷設に反対する鉄道官僚や地方官僚の存在は確

認できる。

B(明治)20年代以後、各地で若干の事例をみることができる。これまで確認されたものは、農

業水利・洪水時の条件悪化、耕地の現状維持などにかかわるものが多い。

 

すなわち、❶明治20年頃以前であれば存在する可能性があり、❷内津に調査などに来ていればその可能性はぐっと高まる。そして、❸資料が残っていれば存在したことを証明できる、ということである。内津に反対運動があったことを証明するには、この3つを確認することが条件となる。

 

3 そもそも内津に測量に来たのか

瀬戸・小牧・勝川の誘致運動が起きたのは、明治25年末〜26年のことであり、それは少なくとも鉄道敷設法で定められた明治25年6月以後のことだ。であるならば、内津の反対運動があったとすれば、それはそれよりも前、つまり、明治10年代から20年代前半だったはずだ。測量はその頃か、それよりも前に実施されていなければならない。直接の測量はもちろん、内津の人々がもしかしたら内津の辺りがルートになるかもしれないと思うような測量があったか確認したい。

そのために、よくまとめられた加藤育夫氏の「中央本線前史」(HP『愛岐トンネル群保存再生委員会』)から愛知・岐阜に関係のあるところを抜き書きしてみる。

 

「1870(M03)年06 月」3) 4)
東西幹線ルートについて東海道筋から調査を開始。1871(M04)年01 月交通の開けた東海道よりは未開発地域の中山道に鉄道敷設が適当との復命報告「東海道筋鉄道巡覧書」を提出3)。同年04 月続いて中山道筋の調査を開始し、1873(M06)年03 月には板橋・多治見間、1874(M07)年10 月碓氷・和田・下諏訪間、1875(M08)年04 月越後(信越本線・上越線ルート)・美濃(中央本線ルート)の調査を実施した4)。

「1876(M09)年09 月09 日」1) (経由区間の後の鉄道路線名・自動車路線名)
これまでの調査を踏まえ建築師長ボイルが東西幹線は中山道が望ましいとの調査上申書1)を提出(以後中山道幹線)。主な経由地「東京・大宮(東北本線)・高崎(高崎線)・横川・碓氷峠・軽井沢・小諸(信越本線)・和田峠・下諏訪(小諸本線11)・和田峠線11))・塩尻・中津川・多治見(中央本線)・美濃太田(太多線)・加納(岐阜)(高山本線)・大垣・米原・京都間(東海道本線)」5)。

「1883(M16)年08 月08 日」1)
鉄道局・井上 勝長官が中山道幹線「大垣・高崎間」建設を上伸1)。10 月23 日政府は同線の建設を正式決定1)。併せて(1)「碓氷峠」「木曽渓谷」の測量。(2)建設資材の海上輸送を考慮した半田線(加納(岐阜)・名古屋・半田間)の建設。(3)資材輸送の為直江津線との連絡。(4)大垣・高崎双方から中央に向けて工事を進める事を決定・実施に移す3) 4)。

「1884(M17)年05 月20 日」1) 3) 4)
井上長官が信越・東海・阪神地方現地視察出発1) 3)。05 月25 日大垣にて中山道幹線「関ヶ原・大垣間」開業式及び大垣・高崎間着工式・新長浜港築港式挙行1) 3)。05 月28 日名古屋・内津峠・多治見間視察4)。06 月11 日名古屋・瀬戸・品野・笠原・多治見間視察4)。07 月13 日現地視察終了1)。

「1885(M18)年03 月23 日」4)
井上長官が加納(岐阜)から名古屋を経て半田に至る資材運搬線建設を上伸1) 4)。併せて加納(岐阜)・名古屋間は勝川・多治見を経て高崎に至る中山道幹線西部線である事を明確にする4)。中山道幹線東部線(横川・軽井沢を経て多治見・勝川・名古屋に至る鉄道) 
「1886(M19)06 月30 日」3)

1886(M19)年03 月鉄道局技師・南 清らが東海道線との比較の為、中山道線横川・多治見・勝川・名古屋間の実測調査を開始。06 月調査を終了。中山道筋は地形上建設困難な部分が多く建設費がかさみ工期もかかり、開通後も運転速度が遅く運転経費の増大が見込まれる旨の調査結果を報告3) 5)。同報告を受け井上長官が中山道線から東海道線への変更を上伸し、変更が閣議決定される3)。
<太字は富中>

引用・参考文献
1) 中村建治「東海道線誕生」p242-253 年表 イカロス出版 2009 年
2) 三宅俊彦「日本鉄道史年表」p8 グランプリ出版 2005 年
3) 井戸田弘「東海地方の鉄道敷設史」東海道線 p08-09 平成14 年
4) 井戸田弘「東海地方の鉄道敷設史」中央線 p128-129 p150-154 p167 平成14 年
5) 八木富男「碓氷線全史・その 1」鉄道ファン No.437 p86 1997 年9 月号 交友社
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治17年には、ずばり「内津峠・多治見間視察」「瀬戸・品野・笠原・多治見間視察」とあり、この辺りに視察に訪れたと書いてある。訪問の通知はもっと前になされたはずであるので、その頃から人口に膾炙したことは疑いなく、内津村は賛否がどちらにしても上を下への大騒ぎだったことが想像される。

しかし、測量そのものは、明治3年から明治19年頃までに愛知・岐阜の辺りで何度も繰り返されていたことがわかる。そして、それらはどこへ路線を繋いだらいいのか迷いながらの測量だったこともはっきりしている。多治見には明治6年にすでに調査のために訪れており、明治9年にはボイルの調査上申書が提出されている。このときにボイルが妻籠と馬籠に来たことが島崎藤村の『夜明け前』第八章にも書かれている。この部分だけでもボイルが東濃について詳細に調査を行っていたことがうかがい知れる。

それらの動きは岐阜から愛知の地元の人々に何某かの情報が噂として伝わっただろうし、人びとにとってそれを確かめるにしても限られた情報源では心許なかったことだろう。

 

4 当時、内津から東濃は生活圏だった

内津の鵜飼家は当主を源六と名乗り、屋号を「舎(やまきち)」と称した屈指の商家だった。その繁栄ぶりは今も残る3階建ての大きな蔵を見ればわかる。この商家は江戸後期から明治にかけて繁栄したことがわかっており、明治の初め頃には、自分の土地だけで恵那まで行くことができたと地元の人が伝えているほどだった。これは比喩なのかもしれないが、内津の人が恵那ぐらいまでは頻繁に往来していたことを物語っている。

また、内津(春日井)から槙ヶ根追分(現瑞浪市)までは下街道が通っており、その先は中山道で中津川まで行けた。当時からこれらの地域との人と物の往来が盛んだったことを考えると、中津川や妻籠・馬籠の辺りの測量の話は下街道を介してすぐに内津に伝わったことは間違いない。そして、それは不確かな情報(その中には流言や飛語もあったことが想像される)がたくさん含まれたていた可能性がある。現代のような情報化社会であっても、コロナ感染症での騒ぎが証明したように不確かな情報で人々が不安になった。当時はそれらを確かめる術は限られていたことを考えると、内津の住人がそれらに踊らされたことは容易に想像できる。さらに、明治16年には木曽渓谷の測量に再び訪れている。そして、半田線ではあるが加納(現岐阜市)も名前が挙がっており、このとき愛知県の北部に近いところが俄かに騒がしくなってきていたことがわかる。

つまり、内津視察が明治17年ということは、第1回鉄道会議や誘致運動が盛んになった明治25年〜26年よりもよりもかなり前であること、そして、それよりもさらに前から比較的近い土地に調査や測量に訪れていたのであり、様々な情報が内津にもたらされていたのだ。これで第2章で取り上げた❶と❷は事実として確認することができた。

 

5 第1回鉄道会議における内津の立ち位置

明治17年に「名古屋・内津峠・多治見間」(内津ルート)と「名古屋・瀬戸・品野・笠原・多治見間」(瀬戸ルート)が登場するものの、明治25年〜26年の第1回鉄道会議中に、瀬戸ルートが猛烈な誘致合戦を繰り出したにもかかわらず、政府は結局、採択しない。そして、明治18年には、突然、「勝川・多治見」間(高蔵寺・勝川ルート)が登場し、結局、この高蔵寺・勝川ルートが選択されたところを見ると、政府はこの時すでにこのルートを有力視していたことがわかる。

つまり、総合すると、瀬戸ルートは候補に挙がったものの、すぐに落とされた。しかし、それでもあきらめずに必死に陳情等誘致を展開した。小牧ルートは視察・調査・測量はなされておらず候補に挙がっていなかったにもかかわらず、進んで誘致合戦に乗り出したが相手にされなかったということになる。

他方、内津ルートは候補に挙がったものの、瀬戸と同じく落とされ、諦めたのか誘致合戦をした動きがない。面白いのは小牧ルートの請願書(1893年)なかに内津が入っているのに、請願者には内津の有力者の名前がないのだ。これは少なくとも内津を通る小牧ルートを積極的に支持していないことを示していると思われる。よって、反対運動の有無ははっきりしないが、賛成もしていないことになり、暗に反対運動をしていたことをほのめかしているのではないだろうか。

 

ダイアグラム

自動的に生成された説明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中央線の比較ルート

高蔵寺・勝川ルートを誘致するための「中央鉄道玉川線選定趣意書」収録の「中央鉄道八王子名古屋間比較線図」を元に『瀬戸市史』が編集している。

A 高蔵寺・勝川ルート(現路線)
B 小牧ルート
C 瀬戸ルート

右上の多治見と左下の名古屋を結ぶルートを誘致するために激しく競った。
B小牧ルートは途中まで内津を通っていることがわかる。しかし、請願者に内津の有力者の名前はない。

『瀬戸市史通史編下』より
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そして、政府の意志は堅く、商業的な理由では覆せない、経費上と技術上の理由があり、それは軍事と密接に結びついたことが、会議の経過から確認できる。多くの文献が、一見、誘致合戦で決まったかのような表現がなされているが、3つのルート(内津ルート、瀬戸ルート、小牧ルート)が候補から外れたのは、そういった経費上・技術上・軍事上の理由だったと考えられる。

ただ、『瀬戸市史』には、瀬戸ルートの請願時には「すでに鉄道が地域経済に与える効果が認識され、鉄道敷設に対する地域の要望が高まっていた。」という一文がある。ということは、この誘致合戦よりも前は、効果が認識されていなかったということを示しているととれる。すなわち、反対運動の可能性を暗に匂わせていると捉えることができる。

 

6 「中央鉄道玉川線選定趣意書」収録の「中央鉄道八王子名古屋間比較線図」に内津ルートがある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、高蔵寺・勝川ルートの請願書に付けられた「中央鉄道玉川線選定趣意書」に収録されたという「中央鉄道八王子名古屋間比較路線図」と見ていただきたい。これは、高蔵寺・勝川ルートの優位さを示すためにつくられた地図で、他の小牧ルート・瀬戸ルートを載せて、比較・検討できるようにつくられた地図であることを理解していただきたい。

実はこの地図の中に、内津ルートが記載されているのだ。第1回鉄道会議で検討もされず、載せる必要がないにもかかわらず、である。一番上の小牧ルートと中央の太い線で表されている高蔵寺・勝川ルートの間にある細い線がそれだ。ということは、内津ルートがあったことは間違いない。

内津は誘致運動には乗り出さず、公式の文書や鉄道会議では取り上げられなかったにもかかわらず、高蔵寺・勝川ルートの請願書に、内津ルートが存在したことが奇しくも残された、ということなのだ。

ということは、内津では鉄道反対運動を起こしたために、誘致運動には乗り出せなかった。あるいは、少なくとも、内津のなかでは誘致運動への反発が強く、乗り出せなかった、ということが真相ではないのだろうか。

 

7 青木氏の例示する「基本資料」を探してみる

青木氏が挙げている基本資料とは、「請願書、檄文、当時の新聞、関係者の日記・手記」「陳情書」「上申」「意見」「議会記録」「会社の記録」である。鉄道の技術等を理解していない「市史」等をまとめた郷土史家のものは2次史料であり基本資料とはならない、としている。しかし、それら市史に基本資料(1次史料)が紹介されていれば直接あたることは可能であるので、確認することには意義がある。そこで、この地域の歴史について書いている書籍を整理してみる。

 

@『東春日井郡誌』大正12年   記載なし

A『東春日井郡農會史』昭和4年 記載なし

B『高蔵寺町誌』昭和7年    記載なし

C『春日井市史』昭和38年 p497 記載あるが資料なし 「鉄道省は…」

D『さかした』 昭和43年 p4445 記載あるが資料なし 「陳情をおこなったことは有名」

E『高蔵寺農協六十年史』昭和62年 p30 記載あるが資料なし 「明治政府は…

F『春日井の近代史話』昭和59年 詳細な記載があるが資料なし 内津−名古屋のルートあり

G『春日井の歴史物語』昭和61年 詳細な記載があるが資料なし 内津−名古屋のルートあり

 

これだけを見ると、戦前の@ABには記載がなく、初出は戦後のC『春日井市史』ということがわかる。その後は記載があるのだが、どれも基本資料(1次史料)がない。唯一出典らしいものは、『さかした』の「有名」という表現になっていることから「口伝」らしいということである。これによれば、陳情書があるはずだ。もし、この陳情書が発見されれば決着がつく。しかし、今のところ、この陳情書は見つかっていない。今後の研究に期待したい。

 ただ、不自然なのは、農業、特に養蚕に詳しい『東春日井郡農會史』に記載がないことである。なぜなら、内津の反対運動は主に養蚕や街道の生業に影響が出ることを心配してのものだからだ。明治初頭の地租改正とその結果起きた紛憂事件(春日井の地租改正農民騒動)については詳細な記載があるのに、なぜ中央線の反対運動は記載されていないのか。疑問ではある。ただ、激しかったとされる誘致運動についても触れていない。よって、これをもって即座に反対運動がなかったとは言えないだろう。

 

8 おわりに

内津の中央線敷設反対運動はなかったのではないかという疑問が提示されているのは周知のとおりである。それらは、文書が発見されていないのだから反対運動はなかったはずだ、という主張に尽きる。しかし、内津に視察に来ていることが確認でき、さらにそれよりも前に隣の多治見をはじめとする東濃地域の調査・測量が行われたこと、そして、内津にそれらの情報が早くから伝わっていただろうということが確認できた。そして、誘致運動の小牧ルートのなかに内津が入っていたにもかかわらず、内津がこの誘致運動に乗り出していなかった事実は反対運動があったことを匂わせている。その誘致運動のときには鉄道の有用性が認められていたことを考えると、内津が請願に乗り出していなかったことは、なお不自然である。

さらに、高蔵寺・勝川ルートを請願する文書に付けられた地図に、内津ルートが記載されているという事実と誘致運動に乗り出さなかったという事実は、反対運動の可能性を一気に引き上げる。

ここに至って、私は内津の反対運動がなかったと結論付けるのは早計だと考える。今後は、反対運動があったことを示す文書が発見され、実証的な証明がなされることが課題だ。内津から出されたという陳情書が見つかれば、反対運動はあったことになる。

少なくとも、運動があった可能性は否定できない以上、今は、結果を急ぐ必要はない。よって、これから1つ1つ実証を積み重ねていくことが大切なのではないかと考える。今回はその提言としたい。

 

                              2020年(令和2年)926日 

 

< 参考文献 >

『さいお』2010年 富中昭智・五井忍 春日井市立西尾小学校

「中央線の建設とそのルートをめぐって」青木栄一『鉄道ピクトリアル』1973年 鉄道図書刊行会

 

 

 

演繹的手法ばかりでなく、帰納的手法も必要なのではないか

『中央線誕生』2016年 中村健治 交通新聞社新書095
『中央本線、全線開通!』2019年 中村健治 交通新聞新書131

 つい最近、この2冊の書籍が発刊されている。これらには鉄道敷設反対運動があったという内容が紹介されている。これらの書籍は確かに市史等を参考にしている。
しかし、『中央線誕生』では、馬車鉄道について、明治17年(1884年)の東多摩郡和泉村からの伺い、これに対する甲武鉄道の回答、明治18年(1885年)の南豊島郡・南多摩郡の9か村の代表からの陳情、明治18年(1885年)の和田村ほか3村から東多摩郡・南豊島郡を兼務する郡長への反対意見、調布塾では流言蜚語に近いとは断りながらも社内で反対運動があったこと、一直線になった伝承話として『日本国有鉄道百年史・付録』に掲載されていること、他にも反対運動があったと紹介している。反対運動がなくなるのは、明治19年(1886年)の蒸気鉄道に切り替えからだ。
他方、『中央本線、全線開通!』では、青木栄一氏の『鉄道忌避伝説』を引用しており、これを踏まえた上での甲武鉄道に関する記述については、陳情・意見等の紹介になっている。その理由として、「筆者としては、『忌避したと推測されるが、詳細は謎である』でひとまず打ち止めでいいのではないかと考えるところである」(今田保「中央本線・歴史の興味」『鉄道ピクトリアル』869号)という考えを支持している。
さらに、この書籍では、中央線西線(名古屋方面)の田立村の「自村通過の鉄道は不要」の決議書と通過の決定後の田畑などの高額収用の陳情書を出したこと、大井宿の反対運動、中津(川)駅の設置場所の反対、などが紹介されている。しかし、中津駅の開設時には花火を上げ、各家庭に国旗が掲げられ、すべての仕事を休んで祝賀したという話も紹介されている。各地域がうまく立ち回ろうとして、翻弄された姿を見るようで大変興味深い話だ。
内津の鉄道敷設反対運動があったとすれば、これらの動きのなかで起こされたことになり、住民は推進か反対かでかなり振り回されたことだろう。中央線敷設における内津の動きは、こういった流れを時期ごとに細かく検証することが必要なのではないかと思う。
 ネットのなかでは、すでに鉄道忌避伝説は定着していて、疑う余地のないかのような風潮である。いわばステレオタイプの主張が闊歩しているのであり、青木氏の主張に間違いはないと言わんばかりだ。つまり、1つ1つの事象を検証したものにはなっていないのだ。
中村健治氏も青木栄一氏も鉄道史学会会員である。鉄道史学会事務局は日本経済評論社内に置かれており、『鉄道史学』を刊行している。発行元になっている交通新聞社は、戦前からの団体が母体となって発展してきた会社で、現在でも時刻表の発行を始め鉄道にさまざまな形でかかわってきたスペシャリストと言える。そこが冒頭の書籍を発行しているということは、鉄道敷設反対運動については演繹的に主張するばかりでなく、帰納的に実証することの重要性も認めているということではなかと思う。
                                   富中 昭智