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牛山町の新田地区にある天王橋を追って(春日井市)

「春日井郷土史 第8号(春日井郷土史研究会研究紀要)

 

                               富 中 昭 智 

1 はじめに

 牛山町の南部にある新田地区に下左の写真にあるような鳥居が見える。周りは樹木で囲まれ、朱色であることから稲荷社であろうとわかる程度で、社などはよく見えない。上思議なことに、割と昔から在籍している職員や学校近辺の地域の人に聞いてもよく知らないという返事が多かった。正に狐につままれたような感じだったことを覚えている。

 そんななか通学路を確認するため、改めてグーグルマップを使ってこの辺りを調べていたとき、この稲荷社が載っていないうえに、この稲荷社の前の橋の名前を見て驚いた。「天王橋」と出ているではないか(下中の地図)。

左 新田地区にある稲荷社

中 稲荷社(〇の位置)と天王橋

右 欄干に「てんのうはし」とある 天王橋でまちがいない

 


                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもこのときは、近くに天王社があるのだろうと、それほど気にもかけていなかった。「天王橋」については『郷土誌かすがい』第75号で桜井芳昭氏が取り上げ、天王

社が近くにあると紹介していたからだ。しかし、その後、地図で探しても、近辺を歩いても、天王社を見つけることはできなかった。これはいったいどういうことか。

そこで、今回は、次のことを追究することにした。

 稲荷社のそばの橋の名前が天王橋となっているのは、なぜか。
 

 


2 稲荷社を実地調査

 ひょっとしたら、鳥居は朱色ではあるものの、稲荷社ではなく、天王社なのかもしれないと思い、実際に行き、確認することにした。ネットの中には少なくない数の赤い祠の天王社が紹介されているからだ。

 

稲荷社の祠 狐の焼き物が見える

 

 

 

 

 

 

 

 

敷地には、6本の朱色の鳥居の奥に、小さな祠があった。表に狐の焼き物が置かれていて、間違いなく稲荷社であり、天王社ではなかった。   

他に地蔵尊らしき石仏(うち2体には戒名)が8体置かれていて、何かはわからなかったが、それらは当然、仏教系のものであろうことはわかった。稲荷社とは直接は関係なさそうであるし、天王社ではない。

そこで、ここまで実地調査をした上で、この稲荷社がいったいどういうものか調べてみることとした。

 

3 稲荷社とは

 『平凡社大百科事典』で「稲荷信仰」を引いてみる

 

「宗教法人で神社本庁所属の神社は全国で約9万社あるとされ、そのうちの約3万社、4割弱の神社が稲荷で占められている。」[1]

 

つまり、神社のなかで最も多いのが稲荷社であるということだ。そして、特に関東地方は、上記の数に含まれない「屋敷神」としての稲荷が非常に多いとしている。

 

では、屋敷神とは何か。

 

   「屋敷すなわち宅地内の一隅やこれに接続した小区画に、小祠を構えあるいは古木や石などを依代にするなどしてまつられている神をいう。」[2]

 

この新田地区の稲荷社は、冒頭で述べたようにグーグルマップに載っておらず、宅地に隣接した小区画に祀られている。村の神社というよりは、特定の一門(家)が祀った形の屋敷神の条件を備えていると言えそうだ。そして、屋敷神のなかには稲荷神もあるとのことである。さらに見逃せないのが、祖霊信仰、つまり先祖を祀る性格のものであり、例えば三十三回忌や五十回忌などを経ると屋敷神になると伝える土地があるとのことである。戒名が彫られた地蔵尊があるのはこのためかと思われる。

新田地区のこの祠はやはり稲荷社であり、天王社との関連はつかめず、天王橋につながる糸口は見つからない。そこで、地元の方に聞き取り調査をすることとした。

 

4 聞き取り調査の開始

梅林にある水神の石祠を調査したときにも協力していただいた地元の農家(新田地区)の稲垣𠮷総氏にお聞きすることとした。ただ、対面で聞いても、なかなか聞き取れなかったり理解できなかったりする恐れがあったので、今回は、メールのやり取りを通してお聞きすることとした。

稲垣𠮷総氏に聞き取り調査をしたのは 2022 年(令和 4 年)823 日~920日で、方法はメールと筆記メモ。聞き取りは富中が実施した。文章にするとわかりにくいので、重要なところだけ整理して箇条書きにしてみる。

824日】

   ・元は牛山町の稲荷社そばの稲垣家の先祖が建立。

・当該地は稲垣家の私有地。

   ・以前は稲垣家が祭事を行い、村人がお詣りする形態だった。

   ・平成初期頃から維持管理が個人では難しいとのことから、町内会事業の一環と

して引き継ぎ扱うようになった。

   ・稲垣氏が町内会長をした平成20年に祠の修復と鳥居の建立を行った。そのとき

にご本尊様を確認したら表書きに「日本総本宮 稲荷社神璽 外箱 〇愛寺」と

あった。〇の文字は上明。

  ・「天王橋」については、天王社があったかどうか、天王橋の由来についてまった

くわからない。地域の人に聞いてみる。

 【911日】

  ・敷地内にある石仏は、一番左が「弘法様」、その右に地蔵尊7体。謂れは上明。

  ・「天王橋」については、先輩方もはっきり言い切れる事情はないが、「弘法様」「稲

荷様」のあたりを「おてんのうさま」と呼んでいたとのこと。

・自分も小さい頃の遊び場で「おてんのうさま」へ集まれと言っていた記憶がある。

  ・「お稲荷様」「弘法様」については所有者がこの地の大地主だった。

・何か商売等のことから、「お稲荷様」を迎えたのではないかと推測する。

・現在は町内会と南部百寿会(老人会)が主体でお守りしている。

・今は、だれでも自由にお詣りをしていただいている。

 【920日】

  ・新田町内会とは、新田東町内会、新田中町内会、新田西町内会。

  ・昔は新田村で1つだったが、時代と共に新規加入者が増えたことと、区の制度

の変更のため、新田三町内会となっている。

  ・この「てんのうさま」で執り行う祭りは、「初午祭」「夏の盆踊り」「秋のお祭り」

の3つとなっている。

  【927日】

   ・後述の稲垣家の奥さんの聞き取り(9/15)の結果を見て、筆記メモを渡された。

・町内会長をしていた年を平成20年と訂正(上記8/24訂正済み)。

・祠の修復時の表書きの訂正(上記8/24訂正済み)。

 ・西行堂川と大山川に挟まれた地域はほとんどが田圃だったので、新田地域から

天神社が見えた。

   ・自分が老人会で役員をすることになった平成284月から老人会が弘法様の法

要を行うこととなり、住職にお経をあげてもらうようにした。

・それ以前には、住職がおらず席が空白だった時期があった。そのときは地域の

人が弘法様のお祀りらしきことを行っていた。

・自分の小さい頃から村の人が集まって「おひまち」と称して、食事、茶話を多

なうことが多かった。

・その頃から弘法様も、自分の親、祖父母の年代の人が集まり、お祀りをしてい

た。このときに住職を呼んでいたかは上明。この集まりで、よくお菓子をもら

った記憶がある。

・天神社に一番に神輿とお馬が入るのは、お神楽を奉じながら入るためだろう。

 

これらの聞き取りで、かなり興味深いことがわかってきた。特に、始まりが個人宅の祠だったこと。これは屋敷神だったことを裏付けるものと言えるだろう。いつの頃からか、祭事を稲垣家当主が執り行い、村人が祭事に参加するようになった。そして、平成初期には町内会が祭事を引き継いだという。さらに、今ではだれでも参拝してよいという扱いになっているとのこと。これは、屋敷神が、「非血縁者を包括して信仰圏を拡大し、地域神に昇格」[3]した経緯が見事にあらわれていると言える。

つまり、稲垣家の一門の屋敷神が、この稲荷社のある新田地区の町内会の「地域神」となったのだ。それが新田町内会で行う3つの祭りに表れている。しかし、牛山町全体として見た場合は、村の神社というほどではないために、グーグルマップには載せられていないということではないか。

それから、𠮷総氏は「天王橋」について最初はわからないとしていたのに、近所の先輩と話すうちに、はっきりしたことは言えないとしつつも、「弘法様」「稲荷様」のあたりを「おてんのうさま」と呼んでいたことを思い出している。

これは大変重要なことだ。稲荷社のあたりを「おてんのうさま」と呼んでいたということになると、今度は、「おてんのうさま」と呼んでいた理由は何かということになる。推測としては、かつてここに「天王社」があったことを示している可能性が出てきた。そうであるならば、「天王橋」という名称になったことにも説明がつく。

 

5 敷地を所有している稲垣家への聞き取り

 次に稲垣家の奥さんから2回聞き取り調査をすることができた。1回目は 2022 年(令和 4 年)915 日で、方法は電話。2回目は20221012日で、方法は面談。聴き取りは富中が実施した。そして、3回目は119日で、ご夫婦で原稿を読んでもらい、ご意見をいただいた。やはり箇条書きにしておく。

915日】【1012日】【119日】

 ・敷地は稲垣家の所有で間違いない。

 ・敷地のなかには、弘法さん、お地蔵さん、お稲荷さん、鳥居がある。

 ・お稲荷さんを「おてんのうさま」と呼んでおり、町内会のお祭りが行われる。

 ・町内会が関わるようになったのは、昭和のころと思う。稲垣家は昭和初期にはす

でに名古屋に居住していたことがわかっている。なぜなら十二代の当主が昭和12

年に名古屋で亡くなっているから。そして、昭和20年にここ牛山に戻ってきたの

だが、その間、稲荷社は管理する人がなく、十三代の奥さん(現当主の祖母)が

近所の方に管理を頼んだと聞いている。町内会が関わるようになったのは、この

方がお神楽の関係者だったためと思われる。

 ・天王橋は、以前は丸太を何本か組んだ形のものだった。昔は天神社が見えた。

 ・鳥居の建立は平成27年。

 ・一番左にあるのが弘法さん。

・春に弘法さんの誕生日を祝うために麟慶寺の住職が来てお経をあげる。

・弘法さんは大正9年正月に建立。老人会が管理するようになったのは昭和。

 ・中央のお地蔵さんが6代目の夫婦の戒名が彫られており、明和4年(1767年)と

明和5年(1768年)に亡くなっている。

 ・稲垣家の墓は牛山の野墓と麟慶寺にあるので、これは供養のため。

 ・くずれかかってどかしたこともある。

 ・初代は寛文二年(1662年)に亡くなっている。現在の当主は十五代目。

・牛山天神社のお祭りでは、この新田地区の神輿が一番に入れられる。

 

この聞き取りからも、屋敷神として始まったが、現在は地域神に昇格している様子がよくわかる。興味深いのは、稲荷社を「おてんのうさま」と呼んでいるということで、稲垣𠮷総氏の聞き取りと一致する。そして、この稲荷社と牛山天神社には強いつながりがあり、牛山町全体としては天神社が産土神(氏神)であるが、新田地区のみこの稲荷社が祀られている様子がうかがい知れる。ただ、町内会がかかわるようになる時期が𠮷総氏と奥さんでは異なっているので、それをはっきりさせるのは今後の課題だろう。

弘法さんというのは弘法大師(空海)の石仏が置かれている、コンクリートブロック製の小さな霊廟のこと。そして、興味深いのは、麟慶寺(牛山町、間内駅そば)とつながりがあり、住職が経をあげに来ることだ。元々、稲荷社は真言宗の東寺(教王護国寺)と強い結びつきがあり、真言密教の僧侶が稲荷信仰を広めた経緯がある[4]ので、稲荷社に弘法の石仏があることに上思議はない。

そして、稲垣家始祖の方が亡くなったのが寛文二年(1662年)。春日井地区の四ツ家の4家が田楽から入椊(田楽越)し、春日井新田という村名が与えられたのが1640年。新木津用水の開通が1664年であるので、春日井原一帯の開発が始まったのと同じ頃に移住してきた方ということになるだろう。しかも、この地区の字名が「新田」ということから、牛山村の新田と推測され、同じ頃に牛山村も新田開発に乗り出したことがうかがい知れる。稲垣家の始祖は牛山村の郷中や皿屋敷などそちらの方面からの移住者と推測される。

それから、地蔵尊に彫られている戒名は、麟慶寺にある稲垣家の位牌から6代目であり、亡くなったのが明和4年~5年(1767年~1768年)であることが判明した。戒名はその夫婦のもので、代々の墓も夫婦の墓として牛山村の野墓と麟慶寺にあることからこれは供養のためのものということだった。

 

6 天王社とは

さて、稲荷社と天王社につながりがあるのか探っていくこととする。次に、『平凡社大百科事典』で「天王信仰」を引いてみる。

 

   「牛頭天王に対する信仰。」

   「各地に天王信仰は展開しているが、中心は、播磨の広峰神社、

京都の八坂神社、尾張の津島神社にあり、…略… 八坂神社の

行疫神的機能は、京都が大都市的性格を帯びるに及んで、さら

に強まり、牛頭天王をまつる祇園祭が盛大となり …略… 

各地の地方都市に、疫病退散の意味をもった天王信仰が伝播す

ると、いずれも旧暦615日前後を祭日とした祓いの行事と

して定着した… 」[5]

 

 つまり、牛頭天王を祀る信仰で、疫病退散の機能をもった天王信仰が全国に広がったということだろう。牛頭天王は、釈迦が説法を行ったとされる祇園精舎の守護神であり、もともとは仏教の神である。それが日本に入ってきて、蘇民将来の武塔天神と同一視され、スサノオの本地とされた神仏習合の神となった。京都では祇園信仰の神となり、感神院祇園社(後の八坂神社)に勧請され、祇園社や天王社で祀られることとなる。有名な「茅の輪」くぐりはここに由来がある[6]

そして、愛知県は津島神社が中心だった。では、津島神社とは何か。

 

   「愛知県津島市に鎮座。 …略… 建速須佐之男命を主神とし大穴

牟遅命を配祀る。古くは牛頭天王といわれ、俗に天王さんと称す。」

 

   「織田・豊臣・徳川の三家より特別の尊崇と庇護を受けた。ことに疫

病退散の神として信仰され、…」[5]

 

つまり、津島神社は古くは「牛頭天王」(通称天王さん)と呼ばれていたことから、「天王社」であったことがわかる。戦国時代に、織田信長・豊臣秀吉が津島を庇護したのは、津島という交易港からの収益を重視したからである。彼らは社殿の造営や社領の寄進などをしている。そして、江戸時代には、尾張藩、そして、後には幕府をも後ろ盾とし、津島御師が地方を回って布教し、檀那場をふやしていった。厄除けの神として霊験あらたかということから、特に東海地方や東日本に信仰を広げて行き、発展した[7]

 こう見ると、新田地区の稲荷社の前に天王社があったのではないかという状況証拠はかなり揃う。地元の人が「おてんのうさま」と呼び、その名残として「天王橋」という呼称が今も存在することは大きい。今のところ確証はないが、聞き取りの内容からここに天王社があったとみてほぼ間違いないだろう。

 

7 現在、稲荷社である理由

 では、なぜ今は天王社でなく、稲荷社なのだろうか。そして、変わったその時期はいつなのだろうか。

 まず、時期から考えてみると、それほど最近のことではなく、しかし、地元の人たちがすっかり忘れてしまうほどに昔のことではない、と推測する。足がかりは、先ほど聞き取りに協力してくださった稲垣𠮷総氏の記憶である。𠮷総氏の物心がついてからのことであれば忘れているはずはないので、少なくとも7080年はない。しかも、生まれる前であっても、親や近所の人たちが話題にしたであろうから、少なくとも100年ぐらいは遡れるだろう。それから、日常会話のなかで「おてんのうさま」という共通の地名として出てくるぐらいの時期で、しかも橋の名前に残っているといことは、少なくとも地元の人たちの記憶には違和感なく「おてんのうさま」というものが残っていたぐらいの時期ということになろう。となれば、𠮷総氏からもう1世代~2世代ほど遡るのではないか。ざっくり計算して130年~160年ぐらい前だろうか。

 そう考えると、寺院から神社へ一大転換した時期がある。それは、京都の感神院祇園社が八坂神社に、津島牛頭天王が津島神社に改称させられた、「廃仏毀釈」である。幕末~明治時代初頭を改めて見直してみると、明治新政府が相次いで神仏分離令を出しているのだ。

 特に、「神祇事務局達」(慶応4年)には、次のようなことが書かれている。

  

  一、中古以来、某権現或いは牛頭天王之類、其の外佛語を以って神号に相称へ候神社少なからず候、いずれも其の神社之由緒委細に書付け、早や早や申し出づ可く候。

  一、 佛像を以って神体と致し候神社は、以来相改む可く候事。

 

つまり、「牛頭天王之類」と明確に名指して、神仏分離令の対象とした[8]。このとき、「全国各地の牛頭天王信仰の社は、この時、徹底的に改変させられ、一般の神社(弥栄・八坂・天王)となって」いたのだ[8]。変えられたのは名前だけでなく、「あらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社とした」というのだ[9]。これは春日井市近辺も、いわゆる「天王社」、あるいは「津島神社」と変えられ、「牛頭天王」の名前は外されたことを示しているのだろう。

こういった嵐の中で、この牛山町の新田地区の天王社(廃仏毀釈前の牛頭天王と思われる)も例外ではいられなかったはずだ。そして、今、稲荷社があるということは、稲垣家の人たちが、牛頭天王から稲荷社に祠(祭神)を換えたことになる。

ここで、「換えた」と表現したのには意味がある。廃仏毀釈の命には逆らえず、稲荷社にしたということもあっただろう。しかし、疫病退散という願いも稲垣家にとっては過去のものであり、必ずしもこだわる必要がなくなっていたことが考えられる。そこで、何に変えたらいいかを当時の稲垣家の人たち(ひょっとすると新田地区の人たちも入っていた可能性はある)は散々話し合ったはずだ。その結論がこの稲荷社だったのだろう。

稲荷社は、今でこそ商売繁盛の神であるが、もともとは稲作の神であり農業の神である。「特に農業が盛んな地方では、お稲荷さんの神様のイメージの方が強い」[10]のではないかということだ。しかも、稲荷社は屋敷神としても相性がよく、家族繁栄や子孫繁栄という願いと結びついたという。

これは稲垣家だけでなく、新田地区の人たちの願いとも一致していたと思われる。しかし、「おてんのうさま」という言葉と天王橋が残ったのは、それだけ天王社(廃仏毀釈前の牛頭天王)への愛着があったからではないかと思われる。そのため、先ほど「変えた」ではなく、「換えた」と表現したのだ。換言すれば、この牛頭天王は稲垣家だけでなく、新田地区の人々にそれほどに受け入れられていたのではないかと思うのである。

8 天王社が勧請された時期

さて、最後になるが天王社が勧請されたであろう時期について考えてみたいと思う。

確かな記録があるわけではないのではっきりとは言えないが、稲荷社が勧請されたであろう明治初頭より前で、「てんのうさま」という呼び名が定着するほどに長い間存在していたことは動かない。そして、六代目の供養のための地蔵尊が祀られたときには、ここは墓ではないということではあったが、それに準じた神霊的、宗教的な意味合いをもつ土地になっていたことも見逃せない。

そうなると、その時か、あるいは、その前後に、天王社が勧請される条件はそろっていたことになる。そして、地蔵尊のお祀りが先だったか、天王社の勧請が先だったかはわからないにしても、牛頭天王社の津島御師が尾張地方を回り、「知多郡松原村」が御立符様を祀ることを定めたのがちょうど明和年間(1764年~1772年)であるところを見ると、牛頭天王社の布教とちょうど時期も重なりそうだ。

 

9 おわりに

 今回の小論は、牛山町にある橋の名前が「天王橋」である理由を追究するところから始めた。地域を眺めたとき、表面上には天王社が全く見当たらなかったからだ。稲荷社が何がしかの手がかりになるとは思っていたが、昔からいる職員でも存在することすら気づいていない人がおり、小学校近辺の地域の人たちもよく知らない、という状態だったから長い間手をつけられないでここまできた。しかし、この稲荷社についてだけでも小論に残せば価値はあると思い、とりあえず追究を始めることにした。

 この稲荷社と天王社は調べていくうちに、図らずも奥深い世界があったことに気づかされた。屋敷神、廃仏毀釈など、よく知らない方向に向き始めたときはどうやってまとめようかと逡巡したりもしたが、そんなときに解決の糸口になったのは聞き取りだったように思う。特に今回は、稲荷社のことを「おてんのうさま」と呼んでいた、というのは書籍でいくら調べても出てこなかっただろう。それから、新田町内会や老人会の方たちのこの稲荷社や弘法廟への愛着やそれに対する稲垣家の感謝の気持ちは、やはり聞き取りをして初めてわかったような気がする。

最後になるが、快く聞き取りに協力してくださった稲垣家の奥さんと、橋渡しをしてくださったり多くのヒントをいただいたりした稲垣𠮷総氏に感謝したい。

                 

                      2022年(令和4年)1114

 <参考文献>

[1]「稲荷信仰」『平凡社大百科事典1』1984年初版

[2]「屋敷神」 『平凡社大百科事典141985年初版

[3]「屋敷神」 『平凡社大百科事典141985年初版

[4] <「お稲荷さん」って結局どんな神様なんですか> HPDaily PortalZ

  フリーライターの井口エリ氏が国学院大学の平藤喜久子教授にインタビューした記

事。平藤喜久子氏の専門は神話学。

[5]「天王信仰」『平凡社百科事典10』 1985年初版

[6]「牛頭天王」Wikipedia

[7]「天王信仰と津島御師の活動 *御立符と檀那場をめぐって* 」松下孜 

『愛知県史研究』 HPJ-STAGE

[8]「八坂神社」『月刊京都市跡散策会 第30号』2008615

[9]「津島神社」Wikipedia

[10] <「お稲荷さん」って結局どんな神様なんですか> HPDaily PortalZ』

 

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「おてんのうさま」(稲荷社)で執り行う祭りについて、稲垣𠮷総氏のメール文を多少手直しして使わせていただく。写真も𠮷総氏が提供してくださった。(※は富中)

 

【初午祭】

新田三町内会で現在、毎年暦の初午の前の日曜日に「初午祭」を、天神社を管轄されている河村宮司を迎えて祭司を執り行います。新田三町内会の都合のつく人が参集し参拝します。近年は宮司の都合を取り入れて、午前にこの初午祭、午後に牛山天神社春の祈念祭を執り行っています。

 

 ※初午(はつうま)と読む。一般に、2月の最初の午の日に行われる祭のこと。

和同4年(711年)に稲荷大神が稲荷山に降り立った日に行われるようになっ

た。奈良時代以来1000年以上も続いている稲荷信仰の行事。

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初午祭(平成21年)      

 

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初午祭の河村宮司(平成30年)

 

【夏の盆踊り】

以前は新田三町内会で牛山児童遊園(南部学習等供用施設隣り)にて金属製やぐらを組み立てて盛大に行われていました。10年ぐらい前からやぐらを組む大変さから維持できなくなりやむなく廃止となりました。我々の前の代では、「お稲荷様」前の広場で夏の盆踊り、秋のお祭りを青年団が主体で行われていました。小生にも記憶があります。

 

 ※文献では室町時代までさかのぼる。先祖の霊を供養するための行事として定着していったが、宗教的な意味は薄く娯楽として広まった。明治時代には禁止令が出たこともあるが、大正末期から再び奨励され始め、現代に至っている。

 

 

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【秋のお祭り】

新田三町内会で現在も天神社の祭礼に合わせて執り行っています。牛山児童遊園を宿に御神輿・お馬のお飾りを仕立てて、町内を一周練り歩きます。その後、牛山天神社へ出向き祭事に臨みます、祭事後、同行の神楽連(新田三町内の大人指導員と子供で結成、維持されてきましたが、子供の少子化で約10年前位から牛山小学校区の子供を受け入れて維持している)によるお神楽奉紊が行われます。お神楽連が天神社より戻ると、三町内会主催の懇親会を行います。 

 

  ※秋の恵みに感謝し、翌年の豊作を祈願する祭。宮中で行うものを新嘗祭という。これは弥生時代にまでさかのぼると言われる。尾張地方では馬之塔(おまんと)が行われる地域が多い。上のように牛山でも盛んに行われた。

 

 

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軍朊を着た男性たちの白黒写真

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【秋祭りの様子】 稲垣𠮷総氏提供

上 牛山天神社に集まる神輿やお馬(平成20年)

中左 戦前の祭のようす(昭和15年以前)

   右から5人めの長身の方が𠮷総氏の父君

中右 町内を練り歩くようす(平成20年)

下 牛山児童遊園に設営の宿とお飾り(〃)

 

 

 

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