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香久山の歴史

香久山の成り立ち 香久山古窯


香久山の成り立ち

 香久山は新しい町です。香久山が日進市の区として独立したのは平成7年です。
明治22年赤池村、浅田村、梅森村、野方村、折戸村、蟹甲新田村が合併して香久山村ができました。明治39年には岩崎村、白山村、香久山村が合併して日進村になりました。 昭和33年に町制施行して日進町になり、平成6年に日進市になりました。

 香久山地区は地籍としては梅森に属していて、現在の香久山の殆どが梅森村株山地内でした。 明治39年に梅森から売りに出された山林(株山)を野方の住人で香久山村の村長を務めた出原三郎氏が購入し、耕地として開墾開発しました。 ひだまり公園の隅に記念碑があり、出原氏の功績が顕彰されています。

 昭和57年当時は区域の南部に民家が点在するだけで、大半は山林でした。 ユニーの交差点斜め向かいにある前区長の市川剛さんのお宅は、その山林の中央の一軒家だったそうです。昭和50年ごろから都市開発公団によって宅地化が検討され、昭和56年9月から土地区画整理事業が実施され、住宅地として開発されました。開発前後の比較写真(下図左)を見てください。

 香久山村の名称は明治22年当時の村長出原三郎氏が百人一首の中から潔白の象徴として「香久山」を提案して採用されたそうです。 都市整備公団中部支社によって開発された区域の地籍は殆どが株山でしたが、新しい町としてふさわしい名前として、香久山村にちなんでつけたものです。


 上の写真は香久山古窯のパンフレットに載せてある写真です。 昭和57年当時(写真上)はアカマツなどの山林であったのが、平成6年(写真下)には現在のように開発されています。  石神交差点南に日進株山特定都市区画整理事業の記念モニュメントが建設されています。この事業は住宅・都市整備公団中部支社が
事業主となり、昭和58年10月から平成5年10月間に換地したと記されています。



香久山古窯(岩崎45号古窯)
香久山古窯の内部
猿投窯から出土した陶片の一部
 香久山古窯(岩崎45号古窯)は平安時代初期(9世紀初期)の窯です。70基を超える猿投窯・岩崎地区の古窯の一つで昭和57年に発掘調査されました。 平安時代初期(9世紀初期)の典型的な窯(あながま)で、天井部分を除いてほぼ完全な状態でのこされていました。