〜風〜
穏やかな風が流れる小高い草原の丘の頂上に、君は立っていて僕が来るのを待っていた。その後姿を視界に捉え、僕は一気に、しかし極力気配を消して駆け上がる。いきなり肩を掴んで驚かせようとしたのに、あと一歩で手が届くというところで君は黒髪をふわり、となびかせて振り返る。驚かせることの出来なかった悔しさよりも、微笑む君の紫色の瞳に心を奪われて、僕は…
僕は…
「…だっせぇー…」
自分の見た夢に自分自身で羞恥心を覚えながら、彼はつぶやいた。目を開けたはずなのに視野が真っ暗なのは昨夜読んでいた本が顔の上に覆いかぶさっているからだろう。読みながら眠ってしまったのか…
重い腕を上げ、ゆっくりと本をどかすと光が差し、そのまぶしさに思わず目を閉じる。あんな夢を見たのもこの本のせいだ。うっかり間違えて買ってしまった恋愛小説。しかし彼の手元にはまだ読んでいない本はこれしかなくて…
ふぅ、と目を閉じたままため息をつく。
「やっと起きたか」
「!?」
聞き覚えのある女性の声に驚いて目を開ける。まだ目が光に慣れなくて思わず眉をしかめる。
「な、なんでアンタがここに…」
「こないだ、本を貸して欲しいと言っていただろう?」
「あ…」
そうだ、と彼は思い出す。手持ちの本をあらかた読み終えて、艦内では唯一まともな本を持っていそうな彼女に何か良い本はないかと声をかけたのだ。
「本を読みながら眠ったのか?シーツくらいは掛けておかないと身体を冷やすぞ。」
「あ、ああ…」
「持ってきた本はここに置いておくから、そろそろ洗面してこい」
「ああ…」
「もう他の連中は起きて朝食を食べていたぞ。今日も訓練があるんだから、遅れるなよ」
「…」
「おい、聞いてるのか?」
「…」
「おい!」
「…っせーな…」
「?」
彼は寝起きの不機嫌さも手伝ってか、苛立ってきた。
「うっせーんだよ、おめーは俺のおふくろかよ!」
「はぁ?何言ってるんだ」
彼女も突然怒鳴られて不愉快な感情をあらわにする。
「じゃあ、俺の恋人か?」
「…なっ…!」
また怒鳴り返されると思い、彼は彼女に背を向ける。
が、一向に次の言葉が返されることが無かったので彼は恐る恐る振り返った。
「…?艦長ぉ…」
その先にいたのは、先ほどまで上から説教をしていたドミニオンの艦長ではなくて、顔を耳まで真っ赤にしてうつむく一人の女性…
「おい…」
「し…少尉…さっさと支度しろよ…」
搾り出すような声を出して身を翻す彼女の腕を、彼はすばやく掴む。その細さに、温かさに一瞬戸惑いを感じたが、彼はその気配を悟られまいと力を入れる。
「…へぇ〜…否定しないんだ?」
「…離せ…」
「そんなコト言うなよ、今日から恋人同士なんだから」
「な、何言って…」
手を振り解き、勢いよく振り返った彼女の髪が、一瞬鼻を掠める。
どこかで見た覚えのある紫色の目、その深さに、息を呑む。
「上官をからかうな」
一歩下がって距離を置き、肩をすくめながら彼女はつぶやく。まだ少し赤い頬が、少女のようで…
「あ、悪りぃ…」
「あ、いや、判れば良い…」
つい謝ってしまう彼に、彼女も言葉を弱くする。
うつむいたままの二人の間に沈黙と妙な空気が流れた。
「じゃ、じゃあ、訓練、遅れるなよ…」
「ああ…」
その空気に耐えられなくなった彼女は、そう告げて足早に部屋を出た。
扉が閉まり、一人になっても彼は微動だにできなかった。部屋の中に微かに残る彼女の香りを無意識のうちに探しながら、彼は思い出そうとしていた。
流れる黒髪と紫の瞳…あれはどこだったか。
戦場に吹くものとは違う、穏やかで柔らかい風…
もうそれが今朝見た夢だということも思い出せないほど、遠い記憶の中で、彼は思いを馳せる。
生きるために戦って、でも、命を奪ってまで生き続けたからってそれに何の意味があるのか、考えるのを怖がっていた自分。でも、その意味をようやく見つけた気がした。
生きて、彼女を守ろう…と。
そしてこの戦いが終わったとき、あんな穏やかな風の中で彼女の隣に自分がいられたら…
「…だっせぇー…」
そこまで思って彼は自嘲気味につぶやく。でもその気分は決して悪くは無くて、彼の頬は自然に緩んでいた。
fin
〜あとがき〜
はい、お待たせしました。「祈」オルガ編です。オルナタだけどうしてもなかなかねたが浮かばなかったところにピコーンと閃いて、突発的に書いてしまいました。例によって推敲しておりませんのでよろしく。