〜 聖 〜
ピアノの調べが部屋に響く。静かでゆったりとした曲だ。それを奏でるのは幼い少年だ。少年の母親だろうか、その背中にゆっくりと女性が歩み寄った。
『バァンっ』
「あ…」
彼女はピアノに手のひらを乗せ、ピアノは不協和音を鳴らす。
「何度言ったら判るの?この程度の曲も弾きこなせないの」
「ご、ごめんなさ…」
「やっぱりコーディネイターにするべきだったわ」
少年がおびえた表情で彼女を見上げると、その視線をそらすように顔を上げ、大きくため息をついた。
「そこまで言わなくてもいいだろう」
「あなた!」
少年の父親と思しき男性が部屋に入ってくる。
「我々の血を受け継いでるんだ、この年齢でこのレベルの曲をここまで弾けるのはそうそういないぞ」
「でもあなた、こないだのコンクール、金賞だったのはこの子より年下の子よ!コーディネイターの!」
「自然に背いて遺伝子をいじってんるんだ、今だけだよ」
「今だけでもいやなの!あの女の、大して才能もないあの女の子供のほうが私たちの子供より優秀だなんて、嫌なの!」
少年はピアノに向かい、うつむいていた。
―ママは僕が嫌いなんだ…僕がピアノを上手く弾けないから…僕がナチュラルだから…
「ママ…」
「え?」
伸ばした手に触れる温もり、それで彼は目を開ける。その視線の先にあるのは…
「艦…長…?」
「大丈夫か、アンドラス」
少し低めの、女性の声が彼を気遣う。
「ど…して?」
「訓練の時間だが、おまえがなかなか起きないからな、様子を見に来たんだが…」
彼が視線を横に動かすと隣のベッドとその向こうのベッドはすでに空っぽだった。
「本当に、大丈夫か?怖い夢でも見たのか」
「え?」
「その…泣いてたみたいだから…」
目じりが霞んでいることに気づき、手でぬぐう。みっともない、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「ただの、夢だから…」
彼がうつむくと、その手が彼女の手を握り締めていることに気づく。このまま手を離すのも気まずい、と彼が迷っていると、
「アンドラスの指はきれいだな」
彼女の方が先に沈黙を破った。
「…昔、ピアノやってたから…」
「そうなのか?いいなぁ、私は楽器なんてさっぱりだから…」
「…」
「今度聞かせてくれよ」
彼は始めて見るかもしれない、彼女の笑みを見つめる。
「艦長のほうが、きれい」
握ったままの手を、彼の唇に当てる。柔らかい感触が手の甲に当たり、彼女は戸惑う。
「あ、アンドラス…?」
「僕の両親、地球では結構有名な音楽家だったんだ」
「…アンドラス…か?すまない、私は聞いたことがないが…」
「ソレ、僕の本当の名前じゃないから」
「え?」
「僕、捨てられたから…」
「…」
「僕、何もない。名前も、家族も」
話していたら昔の断片的な記憶を思い出し、彼は唇をかむ。
「…本当の名前は?」
「もう忘れた。もう、何もかも…」
過剰な薬物投与が脳への影響を与えることを、彼女は思い出す。
「アンドラス…」
「何?」
「おまえは、シャニ・アンドラスだ!」
「!」
彼女は彼を抱きしめる。彼女の制帽が耳に当たる。
「おまえには名前もあるし、一人じゃない!」
「艦長…」
彼女の声が少し鼻声になっていて、彼は驚く。
「今日だって、心配してたんだぞ、みんな」
「え?」
彼女が目元を手でこすり、視線を横に向ける。それにつられて、彼も視線を動かした。
「あ…」
その先には、バツの悪そうな彼の『仲間』たち…
「おまえがうなされてるって、私のところに飛んできたんだ」
「…」
照れたように笑みを浮かべながら、彼らは目を合わせる。
「私だって、いるし…私たちは家族みたいなものだろ?」
彼女の微笑が、彼の心をとかす。
「…うん…」
そして彼女の胸に顔をうずめた。すでに消えた、母親の記憶、それもきっとこんな感じだったはずだ、と祈るように。そしてこの時間が、永久に続くように…―
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あとがき
はい、シャニ編です。軍に入ったきっかけ的なものを描きたかったのと、シャニナタのテーマは母性かな、と。話の中に出てくるシャニより小さい子供ってのはニコルのつもりです〜。本当はシャニとニコルを兄弟にしようかと思ったんですけど、さすがにアレなのでやめました。一番最初に浮かんだ話で、コレをきっかけにドミニオンシリーズを書こうか、と。正式タイトルは「聖母」で、それを全体のタイトルにしようと思ったんですが、ナタルに失礼かしら、と。