四国連合居合道研究会
(その3)
               
               
大江正路先生に師事中最も注意された点

山  本  晴 介

 慶長の昔有名な土佐の国守長曽我部元親の家臣に鎌田左馬之丞辰家と云う無外流抜刀術の達人があつた、元親晩年の頃忌諱にふれた家来があって、幾度もこの者を討とうと思ったが中々の手練者でその隙がなく或日元親は鎌田を召して我れ近く種崎に参る程に舟中に於て彼を討てと命じて、一振りの銘刀を授けた。この日元親は舳に座し、鎌田は中程に某はトモで櫂をとつて、舟が種崎の岸に近づくや某が櫂を掉に取替えた僅かの隙に鎌田は裂帛の気合と共に、紫電一閃目にも留らず刀を鞘に納めたが、相手は更に動かず元親思はず「左馬之丞仕損じたり」と言葉が終るか終らぬうちに、二掉三掉さした彼は、舟がドンと岸に着いたとたんに真二つになつて水中に落ちた、元親の御感なゝめならずかの銘刀を「掉指」と名付けて鎌田に賜つたことが土佐の史伝に伝えられている、居合の真随は、抜手も見せず相手を倒すにある。

  菊花薫る今日文化の佳き日四国居合道連合会が結成されて第一回研究会が催されました事は、まことに御同慶の至りにたえません、これ偏に妹尾先生はじめ地元役員の方々がなみなみならぬ御努力の賜もので深甚の敬意を表します。大江先生もさぞや草葉の影で、お喜ぴの事と存じます。この意義ある本日の大会に私に課せられたお話は「大江先生に指示中最も注意された点」であります。

  私が先生に入門致しましたのは、大正の中頃で以来昭和二年に逝去される迄ずつと、御指導を戴きました、入門以来今日まで四十数年の歳月が流れています、この長い年月片時も忘れないのは、あの温容玉の如き御英姿と御指導御注意の数々であります。この内二、三申し上げて本日の責をふさぎたいと存じます。もとより浅学非才御了解に苦まれる点があろうとは存じますが、悪からず御了承をお願い申し上げます。

 居合の定義に就て先生は居合は刀の操法である。何時如何なる場合でも刀を抜いて瞬間に敵を倒し、国を守り身を守るのが目的である、これが双方刀を抜いて相対すると剣道になる我が土佐藩では昔より弓、馬、刀、槍の術と共に独立した武士が必須の武芸として藩外不出の下に取扱はれて来たものであるが世の移り変りと共に居合の意義が失われて見る居合、見せる居合となりつゝある事は是非も無いことであるがせめて業だけは昔のままで残し度いと仰せられました。

 総じて居合の最も大切な点は必殺の抜付斬付である、この巧拙によつて居合のほとんどが決るものである、それに抜付けから納刀まで別々の中にも糸を引いた様に一連のつながりが必要であると、更に先生は居合には角があつてはいけない、又角が無けれぱならないと注意されました、力の入れ詰で、角のある居合は固くてぎこちなく角の無いずんべら棒の居合は迫力がなくてなおいけない、まだ君達には充分納得出来ないが正しい居合を修業して居るうち自然に間、緩急を会得して完成されるのである、

 その正しい居合の修業について次の様に説明せられました。「先づ姿を正しく、自然体で、精神を臍下丹田に落付け吸気と共に鯉ロ柄に軽く両手をかけ、呼気と同時に切先三寸に全霊を込めて刀筋正しく刀が吸い込む様に抜付(斬付る)を敵が、かわすか、不充分と仮定して間髪を入れずに振冠つて斬倒し目的を達してゆうゆうと心静かに血振い納刀残心にと心掛けての修業が大切である、かくしてこそ業が大きくたんたんたる中に要めゝが決つて迫力のある立派な居合が完成される」と常に教えられました、なお修業段階の心得としての御注意に我が無雙直伝英信流は正坐(一名大森流)立膝、奥居合の三段階に別れている。

 正坐は当流に取入れられた基礎であるから初心者には特に格調正しく指導し、立膝、奥居合と順次早技にと心懸け、殊に奥居合は当流の至極(奥儀)で諸動作極めて迅速なるを要し自然体より抜付斬付血振納刀まで、目にも留らぬ早業で常に足音を立てないのが本則であると注意されました。私も随分永い修業ですが弟子は師の半芸にしかず、誠に申訳ない次第であります、時間の制約もありますのでこれで私のお話を終ります、失礼致しました。


大江正路先生居合道指導要諦
 
森    繁   樹
 誠に貧弱な私が諸先生方を前にして居合適に関しお話を申し上げますことは、「せん越至極」でありますが折角の御指名でありますので御容赦を願いたいと存じます。

 冒頭から私自身のことを申し上げまして恐縮でありますが、話の順序としてこれ亦御了承願つておきます。

 私が大江先生について居合を習い初めたのが中学二年生の時でありました、中学二年生と申しましても今と違い特に私は晩学でありましたので当時十七才でありました。中学は高知県立第二中学校であり当時柔剣道は正課でありまして大江先生が専任の剣道教士をしておられました。有名な剣道の達人川崎善三郎先生が県立中学の巡回教師をしておられまして、日を定めてお見えになりました、行宗貞義先生は当中学の門衛をしておられまして時々道場で先生の居合を拝見することができました。

 中学の道場は立派な建物では無かつたのでありますが、床に長い見事な板を張つて釣床になつておりまして、床の上を走りますと、この床が波を打ちました、特に請流し虎走り等を演技しますと実に気持がよかつたのであります。

 学校には備付の居合刀が十数振もありました
 無雙直伝英信流第十八代穂岐山波雄先生と私は同級でありまして穂岐、穂岐と呼んで極く懇意にいたしまして卒業するまでこの道場で剣道居合道を御習いしましたが穂岐山先生は生れつき器用でありまして余り苦労されずに上達しました、その後私は東京に遊学し諸県を流浪いたしておりましたので夏冬の休暇を利用して帰省いたしました際に大江先生に御厄介をおかけして癖を直していただきました

 業を教える者は業に勝れていることが最も肝要でありますがそれだけでは足りないのでありまして、その外に人格、熱意、子弟愛、の三徳を備えている事が肝要であると思います。

 ところが私の見るところでは大江先生は正に勝れた業の外に人格、熱意子弟愛の三徳を兼ね備えていられたのであります、 特に先生は居合道の真価を認められ日本人の人格の陶治向上と心身の鍛錬のために広く居合道の普及を図り居合道を永く後世に伝える為のもゆるが如き熱意とあふれるが如き子弟愛を持つておられ然も晩年御歳を重ねられるに従つてその情熱が益々濃厚になつてまいつた様に思います、これが大江先生の指導精神であり指導要諦もこ々にあつたと信じます。

 先生が業に勝れていたことは今更申す迄もない事でありますが、先生は常に業は大きく立派にと諭されておりました、どんなにざわめいていた広い道場でありましても先生の居合が始まりますといつも満場叔として声なく迫力があつて剣が鋭く何とも形容のし難い気品の備わつた先生の業は実に道場にあふれ観衆をして驚嘆されたのであります。「斬せい」が終つてからの血振い納刀は正に名横綱の土俵入の観を呈したのであります。

 今に先生のそのお姿が目のあたり浮んで参ります
 これは私が穂岐山先生と共に大江先生をお訪ねした折の先生の直話でありましたが大正時代今上天皇が皇太子殿下であらせられた時高知に行啓があつた時のこと、記憶しておりますが大江先生が打太刀穂岐山先生が仕太刀で御前において真剣で居合の形を演ぜられた際、穂岐山先生が業を間違えて不意に鋭く斬り込んだそうでありますが、大江先生は身をかわしてきわどいところで受け留めたそうであります、これを見ていた侍従が感激して名人の業はさすがに違う大江先生が間髪を入れぬところで受け留めたのは人間業ではない本当に神業であると言つて称讃されたと苦笑しておられました。

 望ましいと思い努力しておりながら私共には到底出来ない事でありますが、形の場合の相手に対しても一人で抜く場合の仮想敵に対しましても定められた形を行いながら形に捕われず形を離れて敵の千変万化に応ずる余祐がなければ活きた居合はできないと思います。大江先生は真に業を自分のものとして身につけ、いつもこの境地にあられたからこの変化ができたのでありましよう。

 河野先生が最近歎異録を公にされて居合人を戒められておりますことに私は敬意を表しておりますが大江先生は当時英信流の技法が甚しくまちまちであることを欺かれまして所謂英信流の技法を広く深く研究され後世これを学ぶ者の為にその技法の調整に努力されたのであります。

 先生は剣の法則に違うものは勿論断呼として排撃されたのでありますが先生は包容性が豊でありまして基準として示される技法も細かい末端まで全ての弟子にいつまでも青写真的に押しつけるのではなく剣の法則に適つた特に優れた個性があればこれを活用して仲ばすようにとの御配慮が伺われました。

 立膝の早抜は騎兵やシ重兵等乗馬隊の抜刀法のために特に編成されたものであつて先生の所謂番外は私達が中学時代に工夫しておられました

 尚先生は形を重要視され相当厳しい態度で伝授されました先生は弟子に対して数々の欠点を一時に指摘することを避け先づ最も大きな欠点を選んで指摘しそれができる様になると順々に次に大きな欠点を指摘して指導されました。

 大江先生の人格、熱意、子弟愛に関する実話についてはこの外に申し上げたい事が多くありますが時問がありませんので失礼させていただきます、折角割当いただきましたテーマにふさわしい御話ができませんでしたことを主催者に御詫ぴします。
御静聴まことに有難う存じました。



無雙直伝英信流居合道の谷村派と下村派について
     
居合道範士 山本宅治守誠
 

 主題に関して微力ながら聊か所信を申し述べて見ます。
皆様が御承知の通り英信流第十一代大黒元衛門清勝先生の時代に此の流儀が二派に分流しました。

 正統第十二代林益之丞政誠、第十三代依田萬蔵敬勝、第十四代林弥太夫政敬、第十五代谷村亀之丞自雄と伝統が続いて居ります処第十一代より派生したる別派が第十二代に松吉貞助久盛、第十三代山川久蔵幸雅、第十四代下村茂市定と続き以後別派を下村派、正統派を谷村派と呼んでおります。不肖私が居合を始めたのは正統十七代大江正路先生の時代であります。 大江先生は既に皆様御存知の様に英信流居合道の一大改革をせられた先生で初めには下村派を学ばれ、後に谷村派を学ばれたと聞いて居ります。その結果大江先生独特の居合を案出せられ其の技術が大好評を博し、広く日本全国に伝つたのであります。改革の主なるものは旧来の大森流を正座と改め、英信長谷川流を立膝と改称、又旧形十一本を七本に改定、別に連続早抜と連続片手早抜と番外三本等を制定せられました。

 大江先生の主たる門下生に穂岐山波雄、中西岩樹の両先生があり、其外幾多の門下生がありましたが、不幸にもその大半の先生が早世され、その後当流儀の業が次第に変りつゝあるように見受けられました。

 その理由と致しましては前述のように当流には別派があつて何れも劣らぬ技法なるが故に正統派、別派の区別なく両派の業を混合して抜き初めたのが一大原因と思います。

 抑も土佐では大江先生の門下生が主として多く、下村派の指導者先生が逝去されてから後はあまり見受けなかつたのであります。顧るに唯東京におられた中山博道範士が下村派の土佐の細川義昌先生の御指導を受けられ、御研究せられた技術を京都武徳大会や関西方面での御演技を見学研究していた程度でありました。

 所が下村派の行宗貞義先生の門下生に曽田虎彦先生があり久し振りに県外から御帰高されましたが谷村派の穂岐山、中西両先生をも凌ぐ程の妙技を持つて居られました。

 当時土佐で有名な熱心な武道家竹村静夫先生が曽田先生の見事な居合に感心し、早速乞ふて先生の御指導を受けられ茲に従前に研究していた谷村派の業と混合した業を演武し、曽田先生と共に下村派として一般に御指導せられました。

 穂岐山先生御逝去後、下村派が非常に盛になつて参りました処不幸にも曽田、竹村両先生相次いで御逝去され又谷村派の大江先生門下生も早世せられ、その為土佐の一部では両派の区別なき又両派入交つた演技をする様になつたのが両派混合の主たる原因であります。           
 吾々は御師大江先生の御意志を守り谷村派、下村派両派の差異ある技術を区別して説明し、大江先生の技法を積極的に指導、現在土佐でも未だ両派技法を入交ヘて演武される方があります。不肖老生が両派の技術を研究して見ますと、大江先生の居合は体育と云う点に重きを置かれ又腹で抜いて腹で斬つて腹で納めると云う大切な此の腹造りに誠に相応しい居合と察します。
一方下村派は谷村派の技術より一層小細に動作を付けて其の為め業が忙しく腹造りに苦痛する点が非常に異なる点であります。
 以上大略を述ペて道の為御参考と致します。


大江正路先生の特技を忍んで
   
無隻直伝英信流正統十九代
  
福 井 春  政
   
 不肖私は明治三十五年頃より武徳会高知支部に於て柔道を学んで居りましたがその傍、恩師大江正路先生から剣道の御指導も受けて居りました。大江先生の剣道は実に軽妙、敏捷にして而も大きな技を持つて居られました。

 次いで居合道の御指導を受けることになりましたが、次第に熟錬するに及ぴ先生の持たれる居合道の精神、技術共に誠に偉大なものであることが判つて参り心を打たれました。大江先生の居合道技法は総てが特技であり、課題の如く「特技を忍んで」と云うことになると全部を想い起して挙げなけれぱなりません。一ロに申せば先生の居合は「雄大」の一語に尽きるのであります又私共未熟者の身で先生の「特技」を云々する等は誠に「鳥こ」がましいことであつて厳に謹まなければならぬ事と思います。唯偉大な先生の居合の中で特にその雄大さに「こうこつ」とする抜として奥居合袖摺返、受流正座、奥居合)などがありまして倒底他の追従を(後世の)許さないものがあり、先生なき今日でも瞼に焼き付けられて居ります。

 先生より親しく御指導を受けた私共と致しましては、只々先生の教えを守り余生を以て今後共深く深く、掘り返ヘして更に研究し忠実にその技法を伝ヘ又「広く世に普及せよ」との御意志を実現して大恩の萬分の一にても報じ度いと念願して居ります。



      
発会式並に第一回研究会柊了後の総許について
  
 本日御参加御演武の皆様には平素の熱烈な修錬の成呆を遺憾なく発揮せられまして本日の大会が盛会裡に終了致しましたことは誠に御同慶の至りであります。
   
 演技につきましては各位の長所、短所もありますが、それぞれ、御熱心な先生方の御指導に従い錬達されたものでありまして心から敬意を表する次第であります(批判の限りではない)大江先生の技法中前に述べました特に雄大であつた技及御注意を受けたものゝ中で本日御演技を拝見して特に気の付いた点を及ぱずながら恩師の「真似」をして演じ御参考に供し度いと思います。
   
  説明を付して演技を行いたる技法、その他の要約
一、受流 (特に雄大な大江先生の技)
   相手の剣を受流す際、上体が非常に柔軟であつて刀先を左肩の後方にて半円を描きながら受け流す場合の柔軟さが独特でありました。

二、袖摺返 (特に雄大な大江先生の技)
   一旦出した右足を左足に引き付けつゝ両腕を前に組む際の身体の動きは、あたかも大浪が打ち寄せ来るが如く体を後に退き更にその浪が退き去る如く体を低くして前方に進む(郡   集の中へ割り込んで行く想定)動作は実に神技とも云うべきでありました。

 以上は文字の表現では極めて不充分且つ不完全であり、或は表現不充分のため誤解を受ける虞れもある故大会後の演技の説明を想起され度し。

三、惣留
   この抜の想定には種々ありますが大江先生は常に階段や坂道等を降りる場合、下より昇り来る相手を上から斬る・・・と云う想定でよく演技されました。
   従つて斬撃の場合腰を左に捻つて左半身となり、右前に刀先を低く斬り付け(右足を一歩降りて斬るの意)最終の斬撃が終つた時左半身を右にねじつて正面に向き直り血振、納刀するのであります。 

四、信 夫
   相手に自己の位置を欺き知らしめ次に右斜ヘ向き左足を右足に継ぎ足して斬り下ろした方を本日の演武者の中に見かけましたが、本来継ぎ足でなく左、右と踏み込み右足を踏み出すと同時に斬り下ろすのであります。

五、行 違
   前方敵へ柄当の後、後向に廻転する場合は体を沈める心持にて刀を抜きながら廻るのであります。

 以上本日の御演技を拝見して、大江先生の技法の雄大さと又先生より受けた御指導、御注意の点より見て幾分相違ある技を行つて居られる方をお見受けしましたので特に御参考迄に申上ました。

 元来技法の説明は文章を以てすることの困難、及表現不充分なることを具さに承知して居り、このためにも古来「ロ伝」により伝承する方法が採られて居りますのは至極尤もな事であります。

 右の文章による不充分な表現の為誤解を受けてはと恐れて居りますが大会終了後の総評の際の演技説明を想起されて御参考に供し得れば幸と存じます。


       
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