一刀流に『打たれて修行する』という事あり。右は全く打たれて稽古になるというにあらず、出来難き業をいろいろと成せば、その業熟達せぬうちは人に打たれ突かれして始終勝負に悪しきものなり。斯く勤め難き所を勤め勤めして稽古せねば、業の美妙に至ることなく上手巧者の場に進む事難し。故に打たれて修行すというなり。
余の門人に白井通という人あり。この通、殊の外達者にてその日の出席人假令20人30人ありても大抵二通りは稽古せし人なり。兎角斯様にてなくては人の上に立つ事は難しきものなり。中庸に曰うあり、『人一度すれば己これを百度す。人十度すれば己これを千度す』というところなり。
稽古前食事はなるたけ減少すべし。余以前相撲稽古に行きたる節、力士等の食事をする様子を見るに先ず中椀に薄き粥二杯より多くは食せず。人目を忍んで多く食せし者は相撲稽古始まりて息合い早く弱り、なかなか人並みの稽古出来かぬものなり。剣術もこれと同じ事にて身体自由ならず且つ稽古数多く出来ぬものなり。
天神真揚流柔術の開祖、磯又右衛門氏は寒稽古中は塾生へは粥を食する事も禁ぜられたり。唯水2〜3升の中へ白米1〜2合ばかり入れ重湯というものにして、それを一椀ずつ食する事にて二椀とは食する事はならぬ定めなり。其れにて4時間余りも柔術は勿論組討の修行数十度を為す事ゆえ、最初の中は身体疲労を覚ゆれれども斯くせねば大いに腹部を傷なう由。常々教諭せりとぞ。
三段の稽古と言う事あり。大抵三段の間合いの意に同じ。但し我より上達の人にかかりては、とても及ばぬ事ゆえスタスタと打ち突きかかるにも構わず十分に業を尽くし、必至に働きて修行する事専一なり。
稽古中息を入れる内にはよく人の稽古に目をつけ善き業を為したる時には感じ我も斯くの如き業を為すべし、斯様なる事を為すべしと心掛くべき事なり。如何様なる初心の者にも時によりては善き業あるものゆえ善く気をつけて人の業を盗み取り修行する事専要なり。
平日の稽古に我より下を遣う事甚だ悪く、兎角自分より上手なる者を選らみて修行すべし。但し業を為す為には下手にて稽古するを善しとす。
剣術に左足を踏み据えるは甚だ悪しき事なり。身体自由ならずして器用の働き意ならぬものなり。若し斯様の人あらば、試みるべし。極めて不器用ものなり。これを撞木足(シュモクアシ)という。甚だ嫌う足踏みなり。若し門人の内この癖あらば早く教諭すべし。この足踏み癖つきては容易に直らぬものなり。初心の内少しも早く直すを善しとす。
同流稽古中に選り嫌い致す者あり。斯様の者にはとても剣術の上達は難しきものなり。決して左様のことなく相手難しく難剣なるもの又は、向こう達者にて自分の手に合い兼ねる者は他の者よりは数掛け一日中に二度も三度も繰り返し繰り返し勉め勉めて稽古すべし。後には甚だ遣いよく成るものなり。故に選り嫌いは稽古上達の大害と知るべき事なり。
目当ては成るべく大きく付くべし。諺に『棒ほど願って、針ほど叶う』と言う事あり。兎角目当ては甚だ大事なり。先ず古の名人達人と呼ばれたる人を目当てに致し又当時の上手達者なる者を目当てにしてそれを打ちこみ打ちすえ日本全国の剣家を打ち従え天下の一人剣聖とよばるる様に心掛けて修行する事肝要なり。
稽古に誂え(あつらえ)をして遣うと言う事あり。右は人の稽古を見てこの人は斯様の所に得意あり、彼は斯くする癖のあると言う事をよくよく見覚えておき其の人と立ち会う時は其の得手を外し、或いは受け又は切り落として全勝を得るようにすべし。よく気をつけて見覚えおくを善しとす。
余年来門人を試しみるに手の内固き者多くは不器用にて器用の者少なきものなり。先ず太刀の持ち様は第一小指を少しくしめ、第二紅さし指は軽く、第三中指は猶軽く、第四指は添え指というて添ゆるばかりなり。斯様に無くては敵に強くは当たらぬものなり。
余、塾生の様子を見るに何れも一向の修行慾というものなき模様なり。余の修行中には大いに其の慾ありし故、今日に至って諸子に稽古心得がたの噺を致すように成りたることなり。兎角芸道は慾というものありて宜しきことなり。
平日の稽古には業を種々致して何一つ出来ぬと言う事なきように手練すべし。捨てて業を色々致し其の上負くるとも是非に及ばず右の如く何程負けるとも少しも構わずに修行せねば業の美妙に至ることなく上手名人の場に進む事難し。相撲なども業を色々致して負けるとも決して恥ずべき事にあらず忌むべき事にもあらず。剣道にも斯くの如く業を種々に致して負くるとも決して弱きにあらず又恥ぢ忌むべきにあらず。
竹刀を持ちて立ち合えば直ぐに切先にて何処を責め、出れば突くか打つぞ、という気を持ちてつかわねばならぬ事なり。兎角切先いらつく様にきかねば向こうは少しも恐れぬものなり。
当流に『稽古中気は大納言の如く、業は小物中間の如くすべし』というあり。甚だ面白き意味あり、勘考すべし。
以上