古代 尾張の地に登場する人物についての雑感

               1.はじめに
                  古代の氏族は、摩訶不思議な出自により混沌としております。日本書紀では、日本武尊。古事記
                 では、倭建命として東征説話が存在する事は、周知の事でありましょう。

                  この人物は、架空の人物であるとされておりますが、基になった実際の人物も居た事は、確かであ
                                      りましょう。一人なのか、複数の人物の史実をまとめたものであるかは判断できませんが、その一人
                 ではないかという人物は、5世紀の雄略天皇もその人でありましょうか。

                  「伊勢神宮で、倭姫から草薙の剣を渡されたのもこのヤマトタケルと記述される人物であった。この
                 ヤマトタケルと倭姫命( やまとひめのみこと:第11代垂仁 天皇の第四皇女) の関係は、日本武尊は、
                 倭姫命の甥王にあたるとか。この当時、甥、叔母と言えども、はっきりした関係ではなかったという。<と
                 すれば、こうしたヤマトタケルという名称のもとは、雄略天皇自身であったであろうし、その事例は、雄略
                 天皇より前の天皇の頃に行われた事柄ではありましょう。雄略天皇の事も含まれているのかもしれませ
                 んが・・。としても、何ら辻褄が合わない事はないと書記の筆者は、考えていたんでしょうか。・・筆者注> 
  
                  そして、この日本武尊の副将軍として従軍したのが、かの熱田台地を本貫とすることになろう尾張連
                 の祖である”建稲種命”(タケイナダネノミコト)であり、父は、乎止与命{オトヨ、ニニギノミコトの兄 天火明命
                 十世の孫}、 母 眞敷刀婢命{マシキトベ、尾張大印岐女子(おわりおおいなぎのむすめ)であるという。}
                 との子で、宮簀媛は妹。宮簀媛は、東征後、日本武尊と結ばれたと言う事になっているようであります。」
                 (以上の記述は、日本書紀によります。)

                  しかし、この尾張氏が、この地に来る前には、既に尾張には、「この尾張地域の支配者として、春日氏、
                及びその一族であります和邇部(わにべ)氏が、君臨しており、その本貫は、和邇良の地であったらしいと
                も記述されておりました。」(春日井市史 参照)その一族は、古くから君臨していたのでありましょう。
                                     この和邇良の地は、現 春日井市朝宮公園付近であるようで、かってこの地に和邇良神社があったという。
                戦国時代に、廃れていたこの神社と大光寺(和邇良神社の神宮寺)を上条の地に小坂氏が移築したという
                事のようであるようです。この朝宮公園は、八田川流域であり、早くから開拓された地域であった可能性が、
                高い地域であったのでしょう。
                        
                 更に、丹羽郡には、二宮村近辺を本貫とする丹羽縣君と言われる大荒田命が、存在していた。「この地か
                ら、二個の銅鐸が出土していた。」( 大口町史 昭和57年 P.102 参照 )とも記述されています。 あろ
                うことか、この大荒田命の娘と建稲種命は、婚籍関係であったとか。建稲種命と玉姫の子が、針綱(はりつな)
                神社(犬山市東丸の内)の祭神 尾治針名根連命ではないかと。(あくまで、ではないかという事です。)この
                氏族の古墳として、木曽川沿いの山裾に、東之宮古墳があるという。これは、4世紀末(最近では、初頭とも。)
                の築造であり、古東山道になっていく道筋上でもあるという。尾張の美濃側は、早くも4世紀頃には、王権の
                支配下にはいっていたのでしょう。現 名鉄各務原線が、木曽川を渡っている所が、その当時、古東山道の
                美濃側からの渡しであり、丹羽縣君は、その渡しの管理者でもあったのではないかと大胆に推測いたします。
                 
                 大和王権への貢納物の運搬道であり、兵士の移動道ともなったのではないか。この古東山道の先、信濃地
                域は、大和王権の支配地化は、古東海道筋より弱冠遅かったようで、手間がかかったようでもあります。、

                                     尾張の地での物部氏本流は、勿論、現 名古屋市北区・中区、春日井市味美・勝川地域に勢力を広げてい
                たのでしょう。

                「 物部氏の祖 ニギハヤヒは、『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種
                の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に
                移ったとされている。そして、天照が、使者を送って、国譲りをさせた話は、大国主命( 物部氏系 )であった。
                 また、『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は
                天孫(天照大神の系列)として両者を区別しているように思えます。とすれば、日本書紀と新撰姓氏録は、同
                一の見解でありましょうか。

                 真清田神社 - 尾張国一の宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と社伝にいう。)
                また、 先代旧事本紀では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くし
                たま にぎはやひ の みこと)といい、ニギハヤヒは、アメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノ
                ホアカリ)と同一の神であるとしている。とすれば、両者の見解は、同一でありましょう。」以上の記述は、ウイキ
                ペデイア フリー百科事典 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92 
                最終更新 2012年11月4日 (日) 13:41 によります。とすれば、真清田神社は、尾張氏との繋がりであると言われて
                おりますが、物部氏との関係も視野にいれなければ、ならないのでしょうか。

                 物部氏と尾張氏の祖については、大きく二つの見解に分かれているようです。
                 先代旧事本紀や真清田神社(社伝)の立場であれば、尾張氏と物部氏は、祖は、同祖である。<おじ、おいの
                関係ではないかと推察いたします。・・筆者注> 崇神朝の頃(3世紀中前後頃)、尾張氏と物部氏は、枝分かれ
                したのでありましょうか。しかし、新修 名古屋市史の”律令以前の名古屋地方”という項目の記述者は、尾張氏の
                系図を、物部氏は、流用し、同祖のように変更しているとも記述されておりました。日の出の勢いの尾張氏の系図
                を、物部氏は、流用し、天孫系に自らの氏族の出自を操作したという。あれほどの大豪族の物部氏ですら、出自
                については、なりふり構わなくなるのでしょうか。それとも、物部氏は、どこにでもいた地方氏族でありましょうか。

                 参考までに、水野時二氏は、「尾張氏は、畿内、美濃、飛騨、越前、近江、丹波、因幡、播磨、備前、紀伊、
                伊予、豊後の地に広く分布していたと述べてみえる」(犬山市史 参照)と言う。これは、中部以西の地であり
                ましょう。この点についても、新修 名古屋市史の”律令以前の名古屋地方”という項目の記述者は、主に水運
                関係で、こうした氏族と繋がっていたから、各地の氏族は、尾張氏と同族であるという出自にしているのではな
                いかと説明をされておりました。これも、尾張氏という日の出の勢いの氏族の天孫系の出自に繋がる為の地方
                の豪族が考えるこの当時としては、当然の帰結かとも推察できます。
                 物部氏は、中部以東に名を残しているようであります。一説には、関東の鹿島神宮は、物部氏の氏神様で
                あったとか。それが、中臣氏の氏神様に代わったという事も聞き及んでおります。事実であるかは、不明。

                 <関東の鹿島神宮は、元々は常陸の多氏(おおのうじ 古くからの皇別氏族)が信仰していた鹿島の土着
                神(国つ神)で、海上交通の神として信仰されていた。さらに、祭祀を司る中臣氏が、鹿島を含む常総地方の
                出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が創建さ
                れると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神としたという。   

                 大和岩雄氏の考察によれば、{もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったの
                だが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという。}(『神社と古
                代王権祭祀』 参照) この多氏(凡氏とも記述。 おおし)の後裔には、尾張では、丹羽氏、小子部連が連なる
                と言う。>(ウイキペデイアフリー百科事典を参照されたい。)

                 この両氏族は、崇神朝頃、尾張氏は、丹波へ、物部氏は、尾張以東へと。そして、垂仁朝前後(3世紀中〜4
                世紀前半)に、尾張氏は、再移住し、尾張の地へ伊勢湾から上陸したのでは・・・。それが、オトヨノミコトではな
                かったかと。こうとれもしましょうか。物部氏と尾張氏が、おじおいの関係であれば。

                 両氏共、(旧事本紀、真清田神社 社伝の立場にたてば)同族系の氏族という事になり、大国主命系であり、
                スサノウに繋がる事になりましょう。更にいえば、新羅系の渡来人ともいえるのかと。新修 名古屋市史では、
                尾張氏・物部氏両氏系図等の考察を加えながら、同族系ではないと記述してみえます。
                 
                 日本書紀・新撰姓氏録の立場であれば、渡来人ではありますが、尾張氏と物部氏は、出自は違うと言う事
                になりましょうか。とすれば、名古屋市史の筆者は、こちらの立場ではありましょう。

               2.創建時期がおおよそ分かる春日部郡・丹羽郡の式内社について
                 <春日部郡>
                   ・ 尾張氏系
                    乎江(ヲエ)神社( 春日井市大留町溝口にある 神明社も、該当するのではないかという。高蔵寺町史
                             には「、この地は、乎止江村とあり、尾張氏の祖 乎止与命にちなむ名と考えられる。」と
                             いう記述もあり、定かではないが、関連がありはしないかという事のようでありましょう。こ
                             の地域は、庄内川右岸であり、神領より上流域にあたります。)
                    内々神社   (春日井市内津町。祭神 建稲種命は、尾張氏の始祖 天火明命の後裔。この神社は、
                             奥の院のことでありましょうか。江戸時代の往来は、現在の国道19号を使うのではなく、
                             大原へ抜ける山道が、多かったのでは。その途中に奥の院はあるようです。また、神社
                             の当初は、いわくら(石)ではなかったかと。とすれば、雄略朝より前とすれば、垂仁天皇
                             より前ではないでしょう。
                              <何せ東国遠征でありますし、焼津辺りまで行ったのではと考えられます。4世紀中以
                             降の事でしょうか。・・筆者注>)

                   ・ 物部氏系
                    味まり(みまり)神社(名古屋市北区楠町味ま、祭神 宇麻志麻治命、物部氏の始祖、ニギハヤヒ命を父
                             に、その子も、祭神 味間見命である。当社の北東に二子山古墳があり、この地方では、
                             古くから宇麻志麻治命の墳墓であるとも伝えられているという。また、この古墳の上に、昔
                            、物部天神という祠があり、宇麻志麻治命が祀られていたという。
                              現在は、すぐ北側の白山神社古墳に鎮座する白山神社に合祀されているようで、以前
                             には、当社から二子山古墳へ神輿渡御が行われていたと伝えられているという。)
                    物部神社   (一説には、所在地 西春日井郡豊山町豊場字木戸。祭神 宇麻志麻遅命の八所神社
                             かと。宮司は、山県正英氏で、「古い伝承に拠りますと、神輿渡御が行われていたと言う。
                             それは、祭礼の前日に、神輿は、この八所神社から出て、当社より東南500m程の所
                             に富士社がありますが、この社へ渡御し一泊します。
                              富士社はお旅所となります。お旅所となる富士社は、青塚と呼ばれる円墳の墳上に鎮
                             座する社でもあります。加えてこの青塚古墳は、物部氏のお墓と聞いております。」と述
                             べられたという。)      
                    高牟(たかむ)神社(名古屋市守山区瀬古高見、名古屋市教育委員会の由緒を記した高札には、「当
                             社は、尾張物部氏の武器を納めた倉が神社になった」と記述。)

                   ・ 不明
                    伊多波刀(いたはと)神社(春日井市上田楽町の八幡宮に該当、この神社の語源は、志賀剛氏は、式内
                             社の研究第9巻 東海道の巻で、「語源は、イタハタ(伊多畑)」であり、「イタ」は、「ユタチ
                             (湯立)」の意であり、つまり、水の湧く畑がある所ではないかと。とすれば、ここは、熱田面
                             と同じ、一番高い段丘面でありましょう。)
                    外山(とやま)神社(小牧市北外山字南屋敷にあり、この境内と境外の境を明らかにする為、大正4年4月
                             作業中に、地中より銅鐸が出土したという。<初期弥生人の系統でありましょうか。この地
                             域は、五条川と大山川に挟まれた地域で、どちらかというと大山川流域であり、大山川の支
                             流 池田川の流域であったかと。・・筆者注>)

                 < 丹羽郡 >
                   ・ 尾張氏系
                     石作神社  (江南市石枕、祭神は、建真利根命で、天孫本紀には、石作連、桑内連、山辺県主の祖と
                             記述。
                             「姓氏録」には、「石作連、火明命の六世孫。建真利根命の後也。垂仁天皇の御世、天皇
                             の皇后の為に石棺を作り奉りて之を献ず。」とあり、石棺を作る氏族と考えられ、当時、尾
                             張国へ土師部と共に移住してきた相当の勢力を持った氏族、垂仁朝後の移住でしょうか。
                             とすれば、3世紀中以降になりましょうか。
                                                                 更に、この石作連は、火明命の六世孫、建真利根命を始祖とするようで、乎止与命とは、
                             同族の関係となりましょう。)
                     託美(たくみ)神社(二社あり、1社は、丹羽郡扶桑町高雄、もう1社は、一宮市西海道で、祭神は、大美
                             和津ね命(おおみわつくねのみこと)か。この祭神は、新撰姓氏録に「工部 同祖(火明命)
                             十世孫 大美和津ね命後也」とみえ、扶桑町史に「託美は、タクミであり、太田亮氏によれ
                             ば、この地に工部(たくみべ)があり、この部民が託美神社を奉斉したと、されている事を併
                             せ考えると、この祭神は、尾張氏の諸道具の製作や、水防土木等の仕事をしたものと考え
                             られる。工部の部族が、尾張の祖先を祭ったものである。
                              工部の部民はその氏族の必要とする、建築家具、あるいは武具等を作る事を専業とす
                             る部民で、平素は、それぞれの奉仕する氏族の生活に必要な食糧、衣服などの生産に従
                             事するものとされているが、尾北の地方では、水防は極めて重要であり、この部民が水防
                             の故に、おのれの奉仕する氏族の祖神を祭ったと考えることも可能である。」と記述さてい
                             た。尾張氏と同祖で、乎止与命の近親者がここの祭神でしょうか。)

                   ・ 爾波氏系
                     田縣神社  (小牧市田県町 祭神は、玉姫命、この地の開拓の祖 父 大荒田命の娘で、爾波県主
                             の祖、玉姫命は、尾張氏の祖 建稲種命と婚籍関係であると。建稲種命死後、後の子が、
                             丹羽氏と婚籍関係になったのでしょうか。)
                     爾波神社  (昔、木曾川派流の大江川 東南、天神の地に鎮座していたという。寛文6(1666)年に、
                             現在の一宮市丹羽町宮浦に遷座されたという。
                              祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀る。古事記神武天皇の条に、「神八井
                             耳命者意富臣、小子部連、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也」とある。丹羽臣は、丹羽の地を
                             本貫とし、現 一宮市大和町一帯に、嶋田臣は、現 名古屋市天白区島田の一帯に勢力を
                             伸ばした豪族と伝えられ、小子部連は、大海人皇子に付いて、壬申の乱に功があったと言
                             われるが、直後に自害して果てたという氏族)<皇別氏族である多氏の後裔に、小子部連、
                             尾張丹羽臣がいるとか。そうであれば、多氏も祖は、神八井耳命となりましょうか。・・筆者
                             注>
                     前利(さきと)神社(丹羽郡扶桑町斉藤、祭神は、爾波神社と同じであり、斉藤の地一帯を支配していた
                             のは、前刀連であり、丹羽臣とは、同族となったようで、丹羽臣の祖を氏神として、創祀し
                             たという。)
                     針綱(はりつな)神社(犬山市東丸の内、祭神は、尾治針名根連命で、この祭神の母が、田縣神社の祭
                             神 大荒田命の娘 玉姫であってもおかしくないと犬山市史P146には、記述されておりま
                             す。)
                     宅美(たくみ)神社{一宮市西大海道中山、祭神は、仲哀天皇(架空の人物カ)の弟 武田王であり、社
                             記によれば、「武田王の子孫代々丹羽建部(盾部であり、常備兵の意であるという。)の君
                             として、この地に住み、土地を墾き、産業を勧め、美術工芸の指導と守護をしてきた。と
                             記されているという。
                              この氏族が、丹羽縣主ではなかったかと一宮市史では、記述されております。}
                     大縣(おおあがた)神社(犬山市宮山、丹羽郡内では、唯一の大社であるようです。爾波氏、後の丹羽
                             氏の氏神であると言う。時期的には、創建は、かなり古いかと。「この二宮からは、銅鐸が
                             2個出土しているという。」”大口町史 P.102参照。”この地は、東北東に本宮山を望み、
                             裾野に創建されており、元々は、本宮山を背にした神社であったという。山からの沢水が、
                             五条川方向へ流れていた。コントロールし易い水であったのでしょう。この水で、稲作をし
                             ていたのでしょうか。)

                   ・ 不明
                     阿豆良(あずら)神社(一宮市丹陽町吾鬢郷内。垂仁朝の頃の創建と言い伝えられているという。)
                     鳴海木丑(なるみてかし)神社{犬山市羽黒字成海郷、祭神は、山岬多良斯神(やまさきたらしのかみ)
                               と言い、意味は、山からの水で十分潤す事が出来る高台であるという事を示す神であ
                               るという。)
                     虫鹿(むしか)神社(犬山市前原字東向屋敷、旧社地は、丹羽郡入鹿村にあり、江戸時代に入鹿池が
                               造られし時、池底に沈んだという。それ故、現在の地に入鹿村の住民と共に遷座され
                               たという。

                                この丹羽郡入鹿村は、継体天皇の子 安閑天皇在位中に、入鹿屯倉が置かれたそ
                               の屯倉に存在した村でありましょうか。
                                五条川源流域であり、奥入鹿地区には、十三塚古墳の存在が知られ、それ以外でも、
                               古墳が存在したという。江戸時代初期、入鹿池の築堤時、こうした古墳を壊し、石を取り
                               出し、堤に使用したという。その際、100余りの刀も出土したようで、堤に刀塚を造り、そ
                               の刀を納め、堤の守り神にしたという。

                                爾波氏との直接の繋がりは、無さそうに思います。あれば、大縣神社の祭神を分祀し
                               た筈でありましょうから。しかし、この地は、丹羽郡内であり、間接的には、支配してい
                               た地域では、なかろうか。しかも、大和王権の直轄地として、屯倉とされてしまい、爾波
                               氏にすれば、その経済的損失は、大きかったのではないか。その損失を補充すべく、
                               隣の美濃国へ五条川源流域の山を越え、現 多治見市の高社山裾野に、大縣神社の
                               祭神を分祀したとも推測出来る。
                
                  * 弥生時代は、紀元前3世紀(異論があろうと思います。)頃をはじめとする。しかし、岡山県では、4500年
                   前頃の稲のプラントオパールが発見されており、稲作が行われていたようです。これは、縄文晩期に相当し
                   ます。そして、紀元3世紀頃を以って古墳時代へと切り替わっていくという。

                    尾張での弥生前期の遺跡は、五条川中流域の現 清洲 朝日遺跡でありましょう。大規模な前期弥生集
                   落が、形成され、後期には、縮小化傾向となり、分村化していったようであります。濃尾平野(木曽川左岸
                   側)では、木曽川派流が、幾重にも流れ、網の目状に流下していたようで、自然堤防上に住居を造り、後
                   背湿地での水田稲作を行っていたと思われます。当然、農耕具は、木製であり、湿地状の地域でしか使用
                   は可能でなかったかと。湿地は、さほど広くは無い為、大規模化はでき得ない状態であったのでは。小さな
                   集団での農耕で、あったと思われます。尾張での弥生前期集落は、稲作のみでなく、海岸に近く、採集・狩
                   猟も併用されていたようですし、環濠集落でもあったという。とすれば、こうした地域の住民は、渡来した越人
                   関係の者でしょうか。

                    春日部・丹羽郡内での定住が古い地域は、犬山市二宮、小牧市外山、春日井市高蔵寺、神領、清洲市
                   辺りでしょうか。現在の五条川中流域、庄内川右岸中流域ではありますが、海岸線は相当現在より内側の
                   方であったかと。氏族では、大荒田命が、古く、大縣神社のある二ノ宮からは、銅鐸が、2個出土したようで、
                   初期弥生人の系譜を想起します。銅鐸は、畿内でも出土しますが、それは、国譲りの大国主命(物部系)の
                   氏族とのからみではないかと考えます。
                    その後、物部氏系が、移住。庄内川中流域(名古屋市北区、春日井市味美・勝川辺り)へ。そして、尾張氏
                   の祖 乎止与命も移住。その他の有力氏族は、宗形氏(稲沢市国府宮付近)、大三輪命氏(本貫地は、不
                   明)でありましょうか。

               2.雄略天皇と尾張氏
                                        田縣神社、祭神は、尾張氏に縁のある 建稲種命{京都府 丹波の海部氏系図(唯一系図が国宝になって
                 いる。)にも登場し、その系図によれば、この人物は、あろうことかスサノウその人であるとも。)の妃で玉姫命。
                この玉姫命の父が、大荒田命であるという。
                神話の世界というより、出自については、摩訶不思議がまかり通るのでありましょうか。
                こうした逸話は、尾張氏と丹羽郡の爾波(にわ)氏との婚籍関係を示唆しているとも言えましょうか。
               
                別の解釈として、「建稲種命・宮津媛という方は、東海に稲をもたらした弥生の神話的英雄御夫妻の話
                である。おそらく伊勢の野暮野(のぼの)で亡くなったのだろう。伊吹山で毒気に当てられたという話、これ
                も神話的である。宮津媛との話も、おそらく建稲種命の話だろう。」(  古田武彦講演会 1997年10月
                26日 於:名古屋 桜華会館二階 歴史ビッグバンと草薙剣 の講演内容
                   詳しくは、http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jkiki/jkiki2.html を参照されたい。 )という事を言われ
                る方もあり、これが、事実であろうと解説される。が、はたしてどうでしょうか。

                 この尾張には、春日部(春部)郡という郡名が、あります。春日部(春部)郡の名称は、「雄略天皇の皇女
                春日大娘の所領としての御名代部があった事に由来していよう。」(春日井市史 P.107 参照)と記述さ
                れています。この皇女を産んだのは、雄略天皇の妃:和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の
                女)で、畿内の豪族の娘であるとか。

                 しかし、よくよく尾張は、春日井市といい、春日が付いてまわっているようで、既述いたしましたが、「尾張
                氏が来る前は、尾張には、春日氏という土着の氏族が居て、和邇部氏もいたという。物部氏系の氏族であっ
                たといわれる。」(春日井市史 参照)ようであります。何やら、春日氏は、春日臣と、和邇部氏は、和珥臣
                と関係が、ありはしないだろうか。これも、地方氏族の出自詐称でありましょうか。推測以外の何物でもあ
                りませんが・・・・。

                 (  http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-2.htm 参照 「大和朝廷の動揺」 その1という表題がつ
                いております。 )URLに下記の内容の既述がありました。

                 「ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されていて、どちらもヤマト
               タケルノミコト
と読ませる。
                 一方、雄略天皇は『古事記』で大泊瀬幼武、『日本書紀』では大長谷若建命となっていて、オオハツセ
               ワカタケル
と読む。
                 また、熊本の江田船山古墳から出土した鉄刀や、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、雄略天
                皇のことを表す獲加多支鹵大王(ワカタケル)という銘文がある。ヤマトタケルとワカタケルという名前は
                確かに似ている。
                 でも、これだけだと「タケルという名前が共通しているだけじゃないか」と言う人もいるだろう。
                 そこで、『宋書』と『常陸国風土記』に注目してみる。
                 まず、『宋書』に記述されている「倭王武」という表記なんだけど、ここから「王」の字を除くと「倭武」となり、
                ヤマトタケルと読むことが出来る。
                 一方の『常陸国風土記』、この書物の中ではヤマトタケルのことを「倭武天皇」と表記している。」でありま
                した。

                *  上記既述から、ヤマトタケルは、雄略天皇の名前から取り、その前の天皇の頃の東征であり、4世紀中
                 以降である可能性が、非常に高い。雄略天皇は、中国の皇帝に、上奏文(478年)を届けており、その内
                 容も、「我が祖先、日本国内のみならず、朝鮮半島までにも戦いに行っている。」という内容であり、それを
                 裏付けるかのように
                 熊本と埼玉( 鉄剣の「辛亥年」は、471年か。)より文字が彫られた鉄剣が、出土し、雄略天皇の名が記さ
                 れている事が判明している。おそらく、雄略天皇自らも遠征していたのではないでしょうか。

                  話を尾張に戻し、この天皇(雄略天皇ではない、その前の天皇)は、東国征討には、何としても船の操作
                 に堪能な尾張氏の力が、必要不可欠と考えられたのでしょう。伊勢国から東国へは、陸路よりも海路の方
                 が、安全で、早く、多くの兵を率いる事ができたからでありましょう。この当時、戦に率いられる兵士の数は、
                 200〜多くて500人位でなかったかと。
                  景行天皇が、皇太子であった時、朝鮮の小国より兵の救援依頼があり、動員した兵の数は、200余人程
                 (一族郎党人数)であったとか。

                  しかし、その当時、尾張氏の協力が得られるのかは、不透明であり、天皇も脇から固めながら、尾張氏が、
                 拒否出来ないように事を進めたかもしれません。

                  屈辱的な形で、尾張氏は、天皇に従わざるをえなかったというのが、史実でなかったか。日本書紀では、                   
                 尾張氏の祖 ”建稲種命”(タケイナダネノミコト)を副将軍として従軍させたという。そして、遠征後、海路より帰途
                 の途中、建稲種命は、水死したと言う事になっております。

                  遠征した天皇は、陸路を通り、かっての下街道ではなく、この当時から、大原経由の山道が一般的ではなか
                 ったかと、現 春日井市内津町 内津妙見様奥の院辺りで、建稲種命が亡くなった事を知り、「うつつかな。」と
                 嘆かれ、そして、その地に内津神社(奥の院カ)が、造営されたのではないかと。

                  尾張氏にすれば、有力な一員を失ったのであり、一大事ではあったでありましょう。しかも、建稲種命は、丹
                 羽縣の大荒田命の娘 玉姫の入り婿であるかの如き既述もあり、尾張氏にしてみれば、この婚姻を通して、在
                 地に根を下ろし、この勢力の力を借りながら、勢力拡大を目論んだかも知れません。爾波氏にとっても、一大
                 事ではあったでしょう。                                                      
                  既に、遠征に出る前から、尾張氏と爾波(にわ)氏との間には、婚姻関係が出来ていたと推測でき得ましよう
                 か。この大荒田命の系列は、その後どのように推移していったのでしょう。あまり登場せず、代わって尾張では
                 丹羽氏が、この丹羽郡では登場する事になるようであります。

                  丹波の海部氏系図には、建稲種命の名もあり、この建稲種命は、あろうことか スサノウでもあるという。
                 このスサノウ一族は、天照一族に、国譲りを迫られ、息子達が、いいと言えば、譲ろうと言って、最後は出
                 雲に引きこもったというようであります。しかし、実際は、出雲だけでなく、、丹波へも行き、そこも安住の地
                 ではなく、尾張まできたのでしょうか。まだ、この辺りは、垂仁朝頃(3世紀末頃)は、大和王権が、関わらな
                 い地域ではあった筈。とすれば、草薙の剣は、もともと出雲で、スサノウが手に入れた刀であり、この尾張
                 の地にあっても、不思議でもないし、むしろ正当な事柄ではありましたでしょう。

                  そうした事は、大和王権は、承知の事であったのではないでしょうか。時の天智天皇は、尾張の地にある
                 草薙の剣が、その当時私書であった日本書紀(原本は、どこにあるのか不明ですが、写本として残っている
                 物が、現在では有るのみとは聞き及んでおりますが・・・。筆者注)に書かれている三種の神器の一つであり、
                 それが、手元に無い事が、何とも我慢がならなかったのでしょう。
                 
                  平安時代までは、まだ、日本書紀は、それほど世に出回ってはいない書物のようであり、王権内でのみ
                 知られていた事ではありましたでしょうから。また、畿内の中央豪族は、知っていた事ではありましょうが・・・。

                  その為でしょう。草薙の剣 盗難事件が起こるようであります。 
                  {日本書紀 天智天皇紀には668年(天智天皇7年)のこととして、「是歳。沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。
                 而中路風雨。荒迷而帰」(この年、僧道行が草薙剣を盗んだ。新羅に向かって逃げたが、その路の途中
                 で風雨が荒れ、迷って帰ってきた。)と記載されている。}ようであります。

                  盗んだ僧は、道行。捕われ、惨殺されたとも、知多半島の洞窟牢に幽閉されたとも聞く。実際は、牢に
                 入れられたが、天智天皇の病気快癒に寄与したと言う事で、許され、知多半島で寺を創建したという。

                  この草薙の剣盗難事件の本当の首謀者は、何と あの天智天皇その人であったとか、なかったとか。
                 そのように言われています。しかし、この話は、実話でなく、天武天皇が、強権を持って、尾張より取り上
                 げたのが、真相であるという。そうした事柄を隠蔽するために、1世代前の天智天皇に罪を着せたのが、
                 史実であるようだという。

                  宮中に草薙の剣は、安置されたかと。その天武天皇が病に掛かられ、それが、草薙の剣の祟りである
                 とされ、直ちに熱田の社に戻されたと言うことのようであります。それが、朱鳥元(686)年あるいは、天武
                 15(686)年とも言う年であり、その直後に、熱田神社制度が、確立され、草薙の剣を祀ったようであります。 
                  それ以後は、草薙の剣は、熱田神宮に安置されているようであります                  

                  太田亮氏は、尾張氏は、美濃より尾張にきたとされています。何を根拠にそのように記述されているの
                 でしょうか。氏の論考を調べ、そのように記述されている部分の探求が、今後の課題となりましょうか。
                  おそらくは、本居宣長著「古事記伝」の記述が、ベースにあるのでしょう。新修 名古屋市史には、この
                 古事記伝の記述の元も、尾張連氏のオトヨノミコト以前の系図から判断されたものとされていました。
                  名古屋市史では、オトヨノミコト以前の系図は、畿内の内廷関係から創作されたものと判断されており、
                 本来の系図は、オトヨ以降が、最初の系図であろうとされております。

                  大胆な推測でしかありませんが、ヒントは、「建稲種命(タケイナダネノミコト)の父は、乎止与命{オトヨ、ニニギ
                 ノミコトの兄 天火明命十世の孫}、母は、眞敷刀婢命{マシキトベ、尾張大印岐女子(おわりおおいなぎの
                 むすめ)であるという。}そして、宮簀媛は妹。」でありましょうか。これは、母の名から、間敷屯倉の前身の
                 地域を暗示しているようにも感じる。間敷屯倉の所在地は、三説あるようです。この当時は、まだまだ母権
                 制社会であり、入り婿婚であったのでしょうか。丹波にいた尾張氏(乎止与命)は、垂仁朝の頃、丹波を出、
                 尾張に移住、どのようなルートで、移動したのかは、私は、よくは、分かりません。海人族である以上、海上
                 移動であったのではないかと。そして、在地で勢力を持っていた豪族の娘(眞敷刀婢命)の入り婿となって、
                 力を得、在地豪族は、その出自の良さを獲得するという利点が双方にあったのでしょうか。その子、建稲種
                 命も、丹羽郡の在地豪族の娘 玉姫の入り婿になったのでは、本家は、その後どのようになっていったので
                 しょうか。宮簀媛は、もともとの尾張氏の系図には、出てこないという。熱田台地での尾張連草香は、いった
                 いどのような人物の後裔なのでしょうか。尾張連等の祖、凡連とは。この凡連なる氏族が、オトヨ、タケイナダ
                 ネにとって代わった氏族であり、薄い婚籍氏族であったかもしれません。雑学・雑文の類でありますので、弱
                 冠大胆な推測を交えております。


               3.継体天皇と尾張氏
                  目子比売については、日本書紀、古事記共に記述がありますが、記述内容が、微妙に違っております。
                   「 また尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女(古事記)
                   尾張連草香の娘・目子媛という、またの名は色部(日本書紀)」以上でありました。
                  
                  凡連(おおしのむらじ)の妹という関係が、古事記の伝える間柄。尾張連草香の娘という間柄をいう日本
                 書紀。どのように理解すればいいのでしょうか。

                  これらは、双方とも事実であるとすれば、尾張連草香も”凡連系”という視点でみれば、凡連は、草香の
                 息子であり、見事に辻褄はあうのではないでしょうか。

                  目子媛は、継体天皇が、まだ越前の王であった頃の正妻であったという事を言われる方もあり、確かに
                 継体天皇は、直ぐには大和には、入っていない事から何らかの障害があったのでしょう。皇后は、武烈天
                 皇の妹(皇女)で、継体は、入り婿、後の欽明天皇を儲けているようであります。越前の王であった頃から
                 尾張氏の一族は、既に伊勢湾だけでなく、日本海にも進出していたのでありましょうか。
                                                                                
                  とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の
                 実名と証明されたものもある。

                  『百済本紀』は、安閑天皇が即位したとされる西暦531年「日本の天皇と太子、皇子が共に薨去
                 た」と伝えているのです。531年は継体帝の没年ではありますが、記紀は、その後を安閑(531〜535)、
                 宣化(535〜539)と年長の異母兄弟が先に皇位を継ぎ、手白髪命の子・欽明につなげたのだと記して
                 います。いずれの記述を信じるべきなのか判断に迷うところですが、継体天皇が畿内の豪族間の協力無
                 しには大和に入れなかったこと、そして何より大王家の娘である手白髪命への婿入りの形で皇位を継承
                 した事情を重くみれば、欽明を差し置いて尾張連の血を引く男子二人に跡を継がせたとは考えにくい、と
                 いうのが正直なところです。また、六世紀の初頭とは政治権力の構造も大きく変化していました。それは、
                 大伴氏に代わって台頭した蘇我氏の勢力の伸張なのです。尾張氏の影響力は、宣化天皇の娘・石姫か
                 ら敏達天皇へと繋がりはしましたが、欽明と蘇我氏の娘たちとの間で構築された「新しく大きな閨閥」には、
                 とても及ぶべくもありませんでした。

                  それが、「蘇我大臣稲目は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし。」と記述された53
                 5か6年の事柄の意味なのでしょう。逆にみれば、尾張の屯倉は、尾張氏が、管理権を有していたとも取
                 れましょう。

                 ・ 事実、6世紀初頭頃、大和王権のなかでは、路線対立があったという。  ( 福井県史 通史より )
                     大伴金村(親 百済派)         対   物部あら鹿火・勾大兄皇子(目子姫の子)(親 新羅派)
                      中央の豪族の大部分              中央豪族の一人
                      百済からの要請で、任那4県割譲               |
                      その結果 五経博士等献上さる               |
                           |                        地方豪族の利害代表
                        畿内の生産力が向上
                                    
                           *   任那4県割譲は、失政であったと大伴氏は、問われ、その後 失脚。 

                 ・ 537年 筑紫の磐井の乱
                    大和朝廷は、新羅に破られた南加羅等を取り戻す為、近江毛野を九州に派遣。九州で、6万人徴用
                   を行おうとしたのであろうか。

                    磐井と毛野は、畿内で舎人として同期の間柄。磐井は、新羅・高句麗とは、通商相手であり、派遣兵
                   の徴用もあり、反旗を翻し、反乱を起こした。朝廷は、物部あら鹿火を送り、1年掛けて反乱を鎮圧した
                   という。

                    この結果、北九州一帯は、大和朝廷の実質支配地域となった。この地には、5世紀前後頃、秦王国とも
                   呼ぶべき地域一帯が、出来ていたのでありましょう。旧 邪馬台国の生き残りの国々は、更に 南方へ退
                   いていったようであります。しかし、天智天皇御世、決定的な敗北(白村江の戦い)を朝鮮半島で受け、以
                   後北九州地域での対外防衛と、国内での統制に主眼が置かれるようになっていったと思われます。

                    継体朝の在地統治は、屯倉を通しての部民としての直接人民支配と、在地豪族を国造として、曲部と                
                   しての間接統治の二重支配体制を取っていたのでしょう。