中世 尾張国熱田社領についての覚書
1.はじめに
平安末 12世紀初頭頃 熱田社大宮司は、尾張氏から外戚 藤原氏に移譲されたかのようです。当然かっての大宮司であった
尾張氏一族は、権宮司として祝師・惣検校として存続している。
熱田社領は、大宮司・権宮司2家で家産的所領として分有されていた。
詳しい事は、上村喜久子著 「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 岩田書院 2012年版に譲り、ここでは、大宮司に関わる社領・
権宮司家に関わる所領を分別する事に限ろうと思います。
2.醍醐寺文書にみえる熱田座主領とそれ以外の所領
<1> 醍醐寺文書(大日本古文書 家わけ第19の15 東京大学出版会 2012年版)より明徳元(1390)・2(1391)年の出来事でありま
す。
明徳元年8月7日 土岐満貞(土岐伊予守)より戸蔵左近将監宛に「熱田座主職の事として、醍醐寺座主宗助が任じられた。」と
明徳元年9月2日 室町幕府 斯波義将(左衛門佐)より土岐伊与守(土岐満貞)に「美濃守代官(三国守護から任命された代官
土岐頼忠・・私の注)を退け、熱田社座主職・同座主領を理性院宗助の雑掌に沙汰」と。
明徳2年5月日 熱田社座主領注文案に「一所
科野(現 瀬戸市品野・・私の注)郷」の記載あり。
*
この科野郷を含め熱田社の神領は、尾張知多郡英比郷・尾張愛智郡大脇郷・土取村(5反畠)・新密宗領所
・蔵司田・寺家管領の7ヶ所が記載されていた。
明徳2年5月12日 室町幕府 細川頼元(右京大夫)より土岐満貞(土岐伊与守)宛 「熱田座主領(7ヶ所)を理性院雑掌に沙汰さ
れるべく。」と。
*
三代将軍 義満治下の三国守護(伊勢・尾張・美濃国守護)土岐康行は、代々幕府の指示に従わず支配地で
違乱し、荘園主の領地を荒らしていた。その康行の弟で京都へ土岐家から派遣され幕府と土岐家の連絡役をし
ていた人物の土岐満貞でありましょう。
将軍は、この満貞の野心を利用して、尾張国守護に任命したようです。土岐家の内紛の勃発の原因ともなりました。
(詳しくは、多治見市史 通史 上 参照)
理性院とは、「醍醐寺の5つの塔頭の門跡寺院
(三宝院、金剛王院、理性院、無量寿院、報恩院)のひとつであっ
たようです。
室町期初期頃までは、醍醐寺の座主は、5つの塔頭の住職が交代で務めていたようで、満済以降三宝院の住職が、
代々醍醐寺の座主を勤めるようになったと。*
以上の記述から、明徳元(1390)年に熱田座主職に伴う座主領(科野郷)が、三国守護 土岐氏一族に押領されていった事に対す
る醍醐寺側からの反論で、醍醐寺座主(理性院)宗助に、この所領は安堵されたという一件であったのでしょう。
上記にみえる熱田社座主領は、座主職に伴う所領でありますが、熱田社座主とは、大宮司・権宮司のどちらであろうか。
既に
「鎌倉後期には醍醐寺理性院頼助が熱田神宮寺座主職を兼帯しており、南北朝末期の明徳元年には醍醐寺座主(理性院)宗助
が熱田座主職に任ぜられており、鎌倉後期以降南北朝期には、醍醐寺による熱田社の座主兼帯が続いていた。」という記述があります。
( www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo04/0404ozawa.pdf
参照 )
この記述からは、座主とは、熱田神宮寺座主と取れそうであります。
確かに、明徳2年5月日 熱田社座主領注文案(大日本古文書 家わけ第19巻の15 東京大学出版会 2012年版)には、7ヶ所の座
主領として記載されている。(尾張知多郡英比郷・尾張愛智郡大脇郷・土取村(5反畠)・新密宗領所・蔵司田・寺家管領・科野郷の7ヶ所。)
注目したいのは、明徳2(1391)年の”寺家管領”なる記述。
そして、応永26(1419)年遷宮の際に大宮司 貞範を「社務」・大宮司の家司 健照を「社務管領」と記している事。社務は、「社家務」と
でも言い換えれそうであり、寺家とは言わない筈。やはり、熱田座主とは、神宮寺座主の事でありましょう。
@ 尾張知多郡英比郷(阿久比町カ)
文和2(1353)年7月21日 国衙領同郷北方を熱田大宮司 忠広 濫妨、年貢未進につき綸旨。(醍醐寺 三宝院文書)
*
藤本元啓氏の「中世熱田社の権宮司家」なる論述からは、{権宮司家たる祝師 田島家、惣検校 馬場家は、
尾張員信(熱田大宮司)の長男が、田島家の祖、また次男が、馬場家の祖であり、12世紀初頭頃に分家した
という。三男の員職が大宮司となり、その娘の松御前が、尾張国目代となる藤原季兼に嫁ぎ、その子が、初代
藤原氏系の熱田大宮司となっていったと。(尾張氏系大宮司が、長子ではなく、三男。そして、長子・次男は、分
家。尾張氏一族の何らかの配慮を感じる。・・私の推測)藤原氏系の初代大宮司は、京に住み、畿内で活動。
この尾張氏系の権宮司家 田島・馬場家は、それぞれ所領を有しており、両権宮司家の所領の内 料田につ
いては、大宮司の直接支配を受けない私領的性格を持ち、熱田社への社務を勤めるもので、代々引き継がれ
ている。一円神領たる郷司職・名主職・末社禰宜職の給分は、大宮司の安堵を必要とした。
馬場家への所領安堵は、院・幕府であり、田島家の所領には、院・幕府の安堵例は、皆無という相違がある。
そして、惣検校家である馬場家は、中途で断絶し、祝師家 田島家から養子を迎え、継続していっていると。*
とすれば、熱田大宮司が、醍醐寺?に関わる所領である知多郡英比郷北方を濫妨、院の綸旨が出たのであり
ましょう。院と醍醐寺は、密に繋がっているかのようです。
この当時(文和2年)の大宮司は、<波豆崎城主は、暦応3(1340)年頃は、野田姓の季氏が、熱田大宮司では
なかったかと。千秋氏では無いのでは・・。<南北朝内乱期以後、京で活躍していた藤原傍系の千秋氏に、熱田の大
宮司 野田氏は、取り込まれていったと思われます。>野田氏であったであろう。
羽豆神社(知多半島先端 師崎の山に創建されている神社)社伝によれば、「熱田大宮司攝津守親昌その猶子昌能
羽豆崎に城を築く神社修復(1322〜1355)」と。
文和3(1354)年 注進 権宮司家領 田畠 22町 (熱田神宮文書)
明徳2(1391)年5月 熱田座主領として安堵 醍醐寺理性院雑掌に沙汰。 (醍醐寺文書)
応永11(1404)年4月21日 土御門資家雑掌に沙汰。 (東山御文庫記録)
宝徳4(1452)年7月13日 仙洞御料所と見る。 (塩尻 43)
A 尾張愛智郡大脇郷(豊明町カ)
文保2(1318)年2月11日 熱田社領大腋郷古布矢梨子衾田を後鳥羽院御影堂料所となす。 (水無瀬神宮文書)
*
承久の乱で隠岐に流されそこで死去した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240
年)、
水無瀬信成・親成親子が後鳥羽院離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる
。*
文和3(1354)年 注進 権宮司家領 畠 10町300歩 (熱田神宮文書)
明徳2(1391)年5月 熱田座主領 (醍醐寺文書)
B 土取村
明徳2(1391)年5月 熱田座主領 畠 5反 (醍醐寺文書)
C 新密宗領(料カ)所 (推測の域を出ませんが・・、神楽を行う巫女料所カ)
明徳2(1391)年5月 熱田座主領 (醍醐寺文書)
D 蔵司田 (推測の域を出ませんが・・、平安期の名残りの職員令 蔵司<熱田社では、草薙の剣保管料カ)
明徳2(1391)年5月 熱田座主領 (醍醐寺文書)
E 寺家管領 (権宮司の惣検校家が管領する所領カ)
明徳2(1391)年5月 熱田座主領 (醍醐寺文書)
F 科野郷(瀬戸市品野町一帯カ) 〃
明徳2(1391)年5月 熱田座主領
<2> 熱田座主領?以外の社領
熱田座主領には入っていない?ようですが、「神社の社会経済史的研究」 小島鉦作著作集 第3巻 吉川弘文館 昭和62年版 P.97〜
107 熱田社領表覧(中世) には、権宮司家領の所領がありました。(年・所領の広さ・地域・出展等がはっきりしているものだけ抜粋)
(出展) (備考)
・ 愛智郡南高田郷(昭和区瑞穂町カ) 文和3(1354)年 田畠 48町6段大 熱田神宮文書 注進 権宮司家領
・ 同 北高田郷( 同上 ) 〃 畠 7町6段小 〃 〃
・ 同 作良郷
(南区桜田町カ ) 〃 田畠 25町6段小 〃 〃
・ 山田郡上中村郷(中村区 ) 〃 畠 22町8段 〃 〃
・ 〃 薦野郷 ( 〃 米野町) 〃 田畠 4町1段 〃 〃
・ 〃 岩基郷 ( 〃 岩塚町) 〃 畠 21町6段大 〃 〃
・ 〃 榎墓郷 (愛知郡日進町) 正中3(1326)年 畠 12町8段半 水無瀬神宮文書 後鳥羽院御影堂修理料
・ 〃 高戸郷 ( 〃 ) 文和3(1354)年 畠 3町4段 熱田神宮文書 注進 権宮司家領
・ 丹羽郡柴墓郷 (犬山市古知野) 〃 畠 25町3段大 〃 〃
・ 葉栗郡般若野郷 (葉栗郡 )
〃 畠 29町8段10部 〃 〃
・ 中島郡鈴置郷 (稲沢市矢合町カ)文和3(1354)年 畠 26町6段半 熱田神宮文書 注進 権宮司家領
〃 貞治6(1367)年 不明 妙興寺文書 熱田神領を萩園円光寺に
寄進。応安4(1371)年に
<円光寺については、下記 URLを参照 は、社家に色(銭)済10貫文
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7360160
> 納付。
応永(14世紀末)頃 熱田社家
違乱(妙興寺文書)
・ 丹羽郡カ尾塞郷 (犬山市カ )寛元3(1245)年 畠 1町5段 宝生院文書 尾張俊村カ 中島観音堂に寄進
(大須観音略縁起 参照) 熱田社へ毎年油・栗を進納。
*
中島観音堂は、建久年間(12世紀末〜13世紀初頭 鎌倉初期)に、尾張氏某の本願により建立。宝生院の前身の寺カ。
中島観音堂については、 http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_13F/13_60_3F/13_60_3_228.pdf を参照されたい。*
*
現 宝生院(通称 大須観音)は、かって現 岐阜県羽島市大須に創建された神仏習合の寺カであり、元享4年或いは正中
元年(1324年)に後醍醐天皇の勅願で岐阜県羽島市大須に北野天満宮が、創建されたのが始まりとされるようです。その
当時、尾張川(木曽川の別名カ)は、羽島市以北を流下し、墨俣に至っていた。墨俣付近では、墨俣川(木曽川の別名カ)と呼
ばれていたと思われます。*
・ 海部郡北国分郷 (海部郡 )延文4(1359)年 ? 5町4段小 妙興寺文書 熱田神領を大宮司方が、寄付。
・ 知多郡木田郷 (知多郡横須賀町)文和3(1354)年 田畠 21町半 熱田神宮文書
・ 知多郡大郷郷 (知多郡 ) 〃 田畠 33町8段小30歩 〃
・ 知多郡御幣田郷(〃 ) 〃 田畠 53町9段20歩 〃 別納地
・ ? 成武郷 (尾張国 ) 元亨3(1331)年 ? 3町6段 〃 神官かすなり相伝分安堵
・ 春日部郡安食荘(春日部郡 ) 康治2(1143)年 田 51町5段3畝 醍醐寺文書
畠 49町大
荒野 178町
・ 中島郡玉江荘 (中島郡 ) 文和3(1354)年 田畠 14町4段30歩 熱田神宮文書
熱田大宮司領カ
* http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7358686
参照 *
・ 〃 山口保 ( 〃 ) 永亨7(1435)年 畠 3段 妙興寺文書 山口保内熱田色成畠寄進
・ 〃 1乗寺保( 〃 ) 暦仁元(1238)年 ? 37町6段大 大国霊神社文書 庁宣 熱田神宮領
・ 丹羽郡上治御園(犬山市 ) 文和3(1354)年 畠 16町3段半 熱田神宮文書 注進 権宮司家領
・ 〃 八島御園( 〃 ) 〃 畠 12町小 〃 〃
・ 〃公賀三刀墓御園(〃 ) 〃 畠 25町7段半 〃 〃
・ 中島郡田宮御園(中島郡 ) 〃 畠 24町 〃 〃
・ 知多郡乙河御厨(半田市乙川町) 〃 田畠 44町3段小10歩 〃
・ 春日部郡柏井荘(春日井市柏井町)建武4(1337)年 ? 15坪 守屋文書 大宮司以下幡(蜂カ)屋大夫政継
知行
・ 山田郡野田村 (春日井市神領近辺カ) 〃 ? 〃 〃
・ 春日部郡玉野郷 (春日井市玉野町) 〃 篠木荘内玉野郷半分知行 春日井市史 〃
*
建武4(1337)年には、この玉野郷は、半分熱田神宮が、代官として入部する事が認められたとか。」( 春日井市史
P.128 参照) 「幡屋大夫とは、熱田大宮司家の神人で、土岐一族の傍系カ」(新修名古屋市史 第2巻 P146参照)
暦応2(1339)年 熱田大宮司
玉野郷に濫妨。(円覚寺文書)
・ 中島郡長谷村 (中島郡 ) 延慶2(1309)年 ? 長谷村を秀宣に譲与 妙興寺文書 尾張宣俊相伝地を譲与
・ 愛智郡東条小船津里(愛智郡 ) 承久元(1219)年 ? 6町5段 栗田文書 神宮寺薬師講田・法華経料田
・ 〃 牛跡里 (愛智郡) 寿永年中 ? 1町 〃 大宮八剣宮大般若経料田
・ 中島郡千騎名 (中島郡 ) 暦仁元(1238)年 ? 41町3段 大国霊神社文書 庁宣 熱田宮中門同回廊等修
理料
・ 愛智郡秋貞名 (愛智郡 ) 明徳4(1393)年 ? 栗田文書 右衛門佐源朝臣 修理料所と
して寄進。
・ ? 上納戸 (尾張国 ) 文保2(1318)年 ? 水無瀬神宮文書 後鳥羽院御影堂修理料所
・ 愛智郡字連一色(愛智郡下一色町)文和3(1354)年 田畠 32町4段20歩 熱田神宮文書 権宮司家領
・ 〃 一切経田(愛智郡 ) 〃 田畠 29町1段60歩 〃 〃
・ 中島郡内散在 嘉慶2(1388)年 田畠 13町8段大 妙興寺文書 熱田大宮司 野田太郎寄進
貞和5(1349)年 ? 〃 熱田大宮司 範重 報恩寺
に寄進。
記載しませんでしたが、上記社領表覧には、別納地として多々記載されております。
上記の熱田社領は、大部分が権宮司家領であり、大宮司に関わる所領(大宮司家領)は、別に存在しているのかも知れませんが、ここでは、多くはない。
所領の中で古いのは、康治2(1143)年で、安食荘内に存在している。次に古い所領は、鎌倉初期頃の料田であり、国免田でありましょう。大部分の所領
は、南北朝〜室町期にその存在が知られる。
相伝地(開発所領)としては、尾張宣俊(中島郡長谷村 14世紀初頭)・尾張俊村カ(丹羽郡カ尾塞郷 12世紀末〜13世紀中頃 出典 愛知学院大学教養
学部紀要 第60巻第3号 大須観音略縁起 P.219 参照)が散見される。
ここには記載されてはいませんが、天福元(1233)年の尾張俊氏{重枝・次郎丸名は、元は二つの名(名田畠三十余町)}の相伝地もあり、大縣社に寄進
している。
権宮司家の2家は、分離独立しているようで、相互補完的に存立しているかのようで、国免田たる料田は、この当時、大宮司家の支配を受けない権宮司家
の所領であり、家産的所領であるかのようです。<2>の所領中、権宮司家領は、祝師家の所領であるのか、惣検校家の所領であるかは不明であります。
熱田社の社領表覧からでは、大宮司・権宮司2家の所領は、渾然としており、はっきりとは区別し難く、上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」の中、
「尾張三宮熱田領の形成と構造」では、「土地集積に2.3の系統があった事が推測され、熱田大宮司は、神官等の任命権を有し、祝師の家産的神領は、独
立性の強いものであり、また、検校は、熱田神宮寺に関わる存在ではなかったろうか。検校家もまた家産的な神領を維持していたと思われます。」と記述され
たのでありましょう。
熱田社の土地集積は、神戸制の崩壊後であり、それ程古い時代からではない事は確かであります。