中世に於ける 職能民についての覚書
1.はじめに
平安期ころから職能民は、出現するようになってきたのであろう。初発は、特権的な存在であり、畏敬されてもいた筈。
いつしか蔑まれた存在として。河原者(京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した)・庭者(比叡山延暦寺に隷属する
穴太(あのう)の職人達であった。枯山水(かれさんすい)と言われる水を用いず、石で滝を、白砂で水を表現する石組の庭園も、この石工(いしく)技
術と深く関わっていよう。)として。或いは、その居住地から、坂の者、散所の者ともよばれたという。従事する職種から犬神人とも言われ、商業
活動は、こうした神人が、初発は担っていたという。
ヨーロッパ等でも、カトリック信者は、商業活動には、従事せず、プロテスタント信者のみ商業活動に従事したという事を大学在学中に教えて貰
った事があり、職種によって忌み嫌う事は、日本だけではなさそうです。
2.差別観の醸造
南北朝の末期の頃、差別心の強い僧侶などが、”穢れがおおい”という意味の一見して特殊観を与える文字を特に選んだものであろうとも言う。
それらの穢民の職業を下記のように大別している。
@ 清掃、駕籠かきのような奉仕的雑役。
A 屋根葺き・壁塗り・井戸掘り・石垣造り・造園などの土木関係の仕事
B 鳥獣の処理、それに関連する皮革製造や鳥獣の肉や魚介の販売
C 染色・竹細工・履き物つくり、武具づくりなどの手工業
D 運輸・渡船・通信などの交通関係の仕事
E 検察・護衛・行刑などの下級の司法警察的な業務
F 雑芸能 ( 「被差別部落の歴史」 原田伴彦著 明石書店 2013年版 P.61.62 参照 )
上記の事柄は、応永12(1405)年 京の烏丸1条の邸を新築した時の山科教言(ノリトキ)卿で使役された人々の仕事をまとめたものであるよう
です。使役された人々は、熊法師・散所法師・川原穢多・川原之者と呼ばれた賤視された人々で、こうした者が、大工・左官・屋根ふき・掃除・呪術
に使役されていたと。
とすれば、穢民意識は、室町初期頃 南北朝期頃に明確になってきたのであろうか。僧侶を中心にして。古代からのケガレ感は、後の時代にも
残存していったようで、そのケガレ(穢れ)感を清める仕事が必要とされるようになっていったという。そうした清める仕事に従事する人は、汚い・人
の嫌がる事柄として上記列挙でもって僧侶を中心にして流布したという説でありましょうか。仏教では、殺生を忌み嫌う教えもあり、その延長上で
蔑む風潮があったのかも知れません。こうした職能民は、この当時の根幹産業(農業)から逸脱した下層職能民であったようです。
同様な記述は、http://etahinin.seesaa.net/
上にもありました。出展は、部分的に明記されていますが、当を得た記述であると思いました。記述
の出展を全て明記されると尚一層はっきりするのではなかろうか。この論述も上記「被差別部落の歴史」 原田伴彦著に準拠している可能性が高
いのでしょう。
3.中世の寺社
中世に於ける寺社は、かつての広大な所領(荘園)を武士に蚕食され、急速に衰退の一途をたどるのだが、それを補うために、商業や手工業に
関する市場の権利や、交通運輸の権益を手に入れようとして躍起になる。 ・・・それは寺社が、隷属する”えた”"非人””河原者”を、いっそう強力
に抱え込んで、支配権を確立するという動きに通じる。或いは、隷属する”えた”"非人””河原者”を神社では、神人(中世,京都祇園八坂神社に隷
属して,社領内の治安警察ならびに清掃などの雑役に従事した者。鴨の河原に近い祇園あたりに集居。日頃は弓弦や矢の製作,販売などを業と
し「弦召
(つるめそ)
」とも呼ばれた。)として囲い込んでいたのかも知れません。
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こうした状況を造り出したのは、主に畿内の有力寺院・神社であろうかと。建武の中興を成した後醍醐天皇も、こうした職能民を活用し、特に情
報収集に長けた行者(修験者)を使い、活用していたとか。山岳道に通じ、健脚で、各地に赴いて各地の情報を天皇方にもたらしたともいう。
御所内には、ふうたいのみすぼらしい者達が、闊歩していたともいう。
室町時代(1336〜1573)になると、足利幕府は、三代義満のころからすっかり貴族化し、いわゆる”北山文化"といわれるきわだった時期を迎え、更
に八代 義政の代には、武家的支配力と権威を失って、"東山文化"時代にはいる。幕府は、洛中・洛外をはじめ山城、近江などの支配地域の治安
維持や土木事業などにあたって、大幅に”河原者”を使った。という。権力者による隷属の強制があったのでありましょう。
近世の土木技術史の重要な部分をなす城郭建築の基礎となる石垣造りも、中世の”河原者"が生み出したものだし、その中心となったのは、比叡山
延暦寺に隷属する穴太(あのう)の職人達であった。枯山水(かれさんすい)と言われる水を用いず、石で滝を、白砂で水を表現する石組の庭園も、この石
工(いしく)技術と深く関わっていよう。
銀閣寺の庭を造ったのは”河原者"善阿弥とその子次郎三郎、孫の又四郎であった。また能楽を大成した観阿弥(かんあみ)、立花の台阿弥など、同朋
衆としても将軍にも近侍したのである。これらの人々は、賤視される屈辱を逆手にとり、一芸を磨き上げて、我が国の文化に大きく寄与した。
華麗な京染め、友禅も彼等が創り出したものである。( 「『破戒』と差別問題」 北小路 健 <新潮文庫 破戒 島崎藤村著の巻末> 参照 )と。
<一方では、蔑み、一方ではその力を活用する。人心操縦策であったかのようです。>
室町末期の応仁の乱は、世の中に大きな変化をもたらしたが、その一つに、これら”河原者"などと呼ばれた人々が、村をつくって一定の場所に居を
占めるという姿が急速に目立っていくことがある。それに時代とともに商業圏が広がっていき、商人集団の往来がしげくなり、寺社や権門に隷属してい
た商工業者が次第に独立して行って、自ずから社会的地位を高めるという傾向もあった。このことは、賤民的商工業にたずさわっていた人びとにも、当
然あてはまって行くわけである。相対的な独立・社会的地位の高まりが広範囲に広がっていったのでありましょう。
応仁の乱から戦国時代にかけて、下克上の風潮に乗って、中下層のところから大名と成ったり、家臣団に編入されたり、また地主となったものが多か
ったように、賤しまれてきた人びとの上にも解放の時が恵まれたのである。
(略) 社会の上下の秩序と価値観が、大きく変わった時代である。したがって戦国期、いわゆる下克上の社会では、かなりの人びとが脱賤の道を
歩んだことは確かである。 (略) 皮田、穢多の身分は中世に成立しており、彼らを含む中世社会にいた被差別民の一部が、近世社会の中で、領
主権力(貿易品の遮断もあり、武具の皮の必要から)の必要によって身分支配によって把握され、一定の編成を受けて皮田、穢多身分が固定されて
きた、とする学説が行われるようになってきた。
すなわち、戦国期かなりの人びとが脱賤の道を歩んだが、しかし全般的に見れば、中世賤民は解体したのではなく、その根幹部分(特に穢多身分の
人びと)が存続し、近世社会に定着したとする立場である。
しかし、こうした見解は、研究者によって意見が分かれるところだ。身分の移動や変化は、かなりのものがあったと思われるが、それまでの生活を捨
てて新しい道に足を踏み入れることは、大変な困難を伴ったはずで、多くの場合、飢えが待っていたし、また、惣村(総寄り合いを以てする自治体として
の村)にしろ、商工業の座にしろ、きわめて排他的であったから、そういう世界に入り込むことは至難のことであったろう。と。
( 「『破戒』と差別問題」 北小路 健氏 参照)
北小路 健氏もまた、原田伴彦著「被差別部落の歴史」に準拠されていると読み取れます。
付記
ここからは、私の私見でありますが、現在言われている部落と呼ばれる身分制が、インドのカースト制度のようになったのは、江戸時代からであろう
と推測する。
それ以前では、社会通念上言葉としては、存在していたし、それに伴う差として存在していたと思われますが、流動的であり、きっちり固定はされては
いない状況下であったのではなかろうか。
現代でも、社長と社員では、差はあると一般的には認識されているのですから・・・。経済上の身分である所から発生する社会的身分としてなのですが。
あくまで、会社内の社会的身分である筈ですが、会社から離れても、それなりに評価されている。固定されない筈ですが・・。
しかし、現代のように経済が停滞してくるとそうした身分は、固定され易いのも事実。貧困の差は、歴然としていますから。
そして、社会通念上の差は、結婚期には、突如として表面化してくる可能性があるのも事実でありましょう。
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平安末期から特殊職能民として存在し、社会的自立をした特殊職能民(武士も含む)は、自立しえたのでありましょうが、非人・エタの形成期には、検
非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の解体処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などを排他的
特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者や障害者の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。
また芸能に従事する者の中には白拍子{シラビョウシ 平安末期の頃から、後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、
貴族社会で活躍した。静御前(源義経の愛人カ)もその一人であったかと。}もおり、芸能史の一翼を担ってきた。しかし、この時点では、主に特権階級で
もあった筈でありましょう。
こんな一文もあります。「『延喜式』には猪鹿の肉を天皇に供する規定があったが、仏教の殺生禁止の決まりから肉食を穢れたものと見なす風がひろまり、
屠者を蔑視する風もひろまった。彼らは京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者である。下鴨神社が河原の近
くにあったので、その穢れのおよぶことをさけるために『延喜式』には付近に濫僧屠者の居住することを禁じた。濫僧とは、非人法師で、国司のきびしい誅求
にたえかね、地方民が出家して公民籍から離脱したものである。三善清行は「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べた(意見封事)ほどで、その一部
が京都に来て、屠者とともに河原者になった。当時は両者の区別があったが、のちに同一視され、餌取法師、エタとよばれた。その職業には都市清掃もあり、
浄人(きよめ)ともよばれた。『塵袋』には、キヨメをエタといい、もとは餌取で濫僧ともよばれ、旃陀羅{センダラ インドの四種姓(バルナ)以外の最下層の身分 狩
猟・屠殺等を業とした者の呼び名}のことであるとあり、『壒囊鈔』には、河原者をエッタというとある。
彼らはまたその居住地から、坂の者、散所の者ともよばれた。なかでも京都の清水坂の坂の者が有名であった。清水坂の坂の者は祇園感受院に属して
犬神人とよばれ、延喜寺僧兵出兵のさいなどその先手をつとめた。各部落には長がいて、その村落の警護にあたり住民から報酬を受けた。これを長吏法
師といった。長吏にはなわばりがあり、寛元年間、清水坂の長吏と奈良坂の長吏とがいさかいを起こしたことがある。」(http://etahinin.seesaa.net/
より
引用)