中仙道 旧 赤坂宿 金生山近辺の散策
                             − 壬申の乱の天武天皇の祭地(湯沐邑)を訪ねて −

             1.はじめに
                桃花台近くの古代の製鉄跡地について知っていくと、現 美濃赤坂(中仙道 旧 赤坂宿)
               の低い山(金生山 標高300m弱)の赤鉄鉱を用いた古代の製鉄にも興味が湧いてきて、
               一度自分の目で確かめたくなりました。

                7・8世紀の事柄でありますから、ほとんどその痕跡は、現地には残ってはいないようです。
               その当時、大海人皇子(後の天武天皇)軍は、祭地であった”湯沐邑(ユノムラ)”{美濃大宝戸
               籍では、”味蜂間評(アジハチマノコオリ)”とか。現 安八郡・大垣市の大部分・揖斐郡南部の平坦
               地にまで及んでいたのではと推測されているとか。}の兵を頼りに、近江朝に反旗の狼煙をあ
               げ、金生山から採掘される鉄鉱石で、鉄を造り、武器を製造をしたという。

                この当時は、鉄を制するものは、天下を制する時代ではなかっただろうか。それ故、大海
               人皇子は、いち早く美濃出身の舎人 村国男依(ムラクニノオヨリ)を通じ、湯沐邑の長官 多臣
               品治(オオノオミホンジ)に、湯沐邑の兵で不破道{古東山道の不破の関(まだ関はなかったかと。
               )辺りを封鎖するように命じた。長官は、三日を経ずして三千の兵を動員し、不破の封鎖に
               成功。以後、美濃以東へは、近江朝の命令や情報は、行かなくなったという。また、近江軍
               の侵攻を防いだという。最終決着は、琵琶湖のほとり 瀬田辺りでついたと言う。

                今回の目的は、金生山の様子をこの目で確認したく、平成25(2013)年11月30日(土)
               の朝焼けの朝早く自宅を出、バスにて名鉄小牧駅へ、小牧線に乗り換え犬山経由各務原線
               にて、名鉄岐阜駅まで行きました。一旦名鉄の駅を離れ、徒歩にてJR東海道本線 岐阜駅
               に向かい、そこから大垣経由で美濃赤坂駅に行きました。所要時間 約3時間 交通費120
               0円(片道一人分)でありましたが、只、当方は、名鉄の株主優待乗車券を所持していましたの
               で、実質620円の片道分で、自宅から美濃赤坂駅まで行く事ができました。現地到着 10時
               50分頃でありました。

                目的の金生山は、JR美濃赤坂駅から徒歩で、25分少々かと。大垣からだと近鉄名阪バス
               の在来路線があり、”虚空蔵口(こくぞうくち)”というバス停で降りれば、20分弱かとは推測い
               たしました。健康の為JR大垣駅では、バスを利用しませんでした。

             2.美濃赤坂駅から
                大垣駅からは、乗換えで僅か二駅間のワンマン電車に乗りました。昼間は、2時間に一回
               大垣と美濃赤坂間を往復している電車でありました。

                乗るときも降りるときも、乗客が、外・中のドア開閉ボタンを押さないと開きません。自動開
               閉のドアではなく、乗るときも、決まったドアしか開きません。大垣駅以外は、無人駅である
               せいで、そのようになっており、運転手さんが、車掌も兼ねて、終点では、運転手さんが、最
               後に全てのドアを閉めて、運転手専用のドアから出て、急いで反対側へ走って行き、最後尾
               が運転席に早変わりのピストン輸送でありました。

                美濃赤坂駅は、昭和のレトロ木造駅舎であり、駅舎にくくり付けの濡れ縁的なベンチと、据
               え置き型の2つのベンチが向かい合うようにありました。

                江戸時代の街道の雰囲気を色濃く残す町並みが残り、矢橋家の広い敷地内には、板塀の
               家屋・門等古の名残りがたっぷりとあり、風情ある様子で、佇んでいました。

                金生山は、もう少し行くと見えてくる事を通りがかりのおばあさんにお聞きし、歩みを速めま
               した。江戸時代当時の店屋・旅篭・脇本陣跡地等を通り過ぎ、北側には、やや上り坂の斜面
               がみえてきました。その道沿いに近鉄名阪バス在来路線の”虚空蔵口(こくぞうくち)”というバ
               ス停がありました。

                その細い路地を登って行くと、両サイドに子安神社・秋葉さんが並んでいる。八幡神社も存
               在し、神社から寺等そこらかしこにある事が分かりました。(帰りは、二股の別の道を下ると、
               弘法寺更に下ると、八王子神社の参道いり口、観音寺・天理教の寺院も存在しておりました。)

                更に登って行くと、金生山神社なる石段と石の鳥居が見えてきましたので、一応そちらの階
               段を登っていきました。

                いつごろの創建かと常夜灯の設置年代を確かめましたが、磨耗していて読み取れません。
               しかたなく、地元の方らしい方が、みえましたので不躾にも「いつの創建かご存知でしょうか。」
               とお尋ねいたしますと、親切にその謂れを分かり易く解説いただけました。聞けば、地元の郷
               土史家の方であったようで、「私の書いた物がありましたら送りましょう。」とも言って頂け、図々
               しくお願いしてしまいました。お名前を聞きそびれてしまいました。失礼にも程がある慌てぶりで
               あります。ご親切に、12月13日(金)の午後、郵便受けに大きな封筒で、送って頂けました。

                聞けば、この金生山神社は、明治の廃仏毀釈の関わりで、もっと上にあったようですが、この
               下に降ろされた由。だから、本殿等は新しくみえました。その当時の神宮寺は、本来なら滅失し
               ている可能性が高い筈でありますが、ここはしっかり残っており、明星輪寺(地元では、こくぞう
               さんと親しみを込めて呼ばれているお寺さんのようです。)というようでありました。

             3.金生山の明星輪寺(別名 こくぞうさん)を訪ねて
                11月30日(土)の昼近くに登りきりました。この山道を登っている途中に、大きくU字型になっ
               た窪んだ部分がみえ、聞けば、もともと山であったようですが、しっかり掘り尽くされ、無くなって
               しまったとか。
                あの太平洋戦争中、軍により徹底的に採掘され、軍事用に利用されたかと。今では、全く、こ
               の地域からは、鉄鉱石は、採掘できない状況であるとか。しかし、両サイドの山はまだ残ってい
               て、現在も石灰石の採掘が行われているようで、今日も、工場の煙突からは、白煙が、立ち上
               っておりました。

                かっては、大理石も採掘されていたとか。
                しかし、金生山近辺で、粘土層が存在したのかどうか、古代において須恵器窯が、造られた
               のかどうか。おそらく無かったのではないだろうか。とすれば、製鉄窯も、そうした粘土層の存在
               抜きでは、考えられない事であり、良質の珪酸を多く含んだ粘土層があって、はじめて稼動しえ
               たのでありましょう。この金生山のある”湯沐邑”は、古代史を紐解けば、ここは、聖徳太子一
               家が、差配する祭地であったかと。蘇我氏に、一族皆忙殺されたようで、本来ならここは、蘇我
               氏が、伝領したい所ではあったかも知れません。只、この祭地の管理は、美濃系の豪族が、受
               け持っていたのでしょう。聖徳太子の皇子が、蘇我氏に攻め込まれた時、舎人である美濃出身
               のお付きの者は、皇子に「まずは、深草へお逃げなさい。そこで馬を借り、関東へ一旦落ち延
               びて下さい。」と耳打ちしたとかしないとか。皇子は、それを断り、最後は、一族諸共自害して果
               てたとか。この耳打ちは、美濃系の豪族の子息であり、美濃の地の者は、皇子に助成しますとい
               うメッセージであったのではなかろうか。皇子は、その断りに、それをすれば、争いになり、多くの
               民を巻き添えにする事となると言われ、自害を選ばれたやに。太子の「和をもって貴しとせよ。」
               を身を以って皇子は、苦肉の選択として実行されたのであろうか。

                それ故に、蘇我氏も、この祭地を奪う事は、出来なかったようで、朝廷の差配する所となり、後
               の天智天皇の皇太弟(大海人皇子)の養育領地として律令に基づいて、下し置かれたのでは・・。

                そして、おそらくこの祭地では、鉄鉱石は、採掘だけして、別の場所で、鉄にされていた可能性が、
               高い。琵琶湖の瀬田近辺とは、考えづらいので、垂井近辺にそうした製鉄跡地の可能性は無きにし
               もあらずか。或いは、杭瀬川(7・8世紀頃は、この川が、揖斐川本流であったかと。その支流として
               牧田川も流れ込んでいた筈。)等を利用した水運で、運ばれた可能性は高い。
                確かに、垂井の北方山裾には、古窯址の存在が知られる。古代、金生山近くには、杭瀬川が流れ、
               垂井から流下する相川は、その杭瀬川に合流していたと思われます。近世 赤坂宿東には、杭瀬川
               に川湊があり、その為赤坂より西にあった青墓宿は、寂れていったという。

                * 参考までに、下記のような論考を目にしました。
                 {この美濃国府脇には、大滝川が、流れ相川に合流している。私が見てみたいと思っている垂井
                の御旅神社は、近世頃の創建のようで、「美濃国府正殿の上に御旅神社が建てられており、歴史
                的な観点から美濃国府との関連性を考慮する必要がある。」
                (http://www.ginet.or.jp/tarui/public/pdf/pub25_2_01.pdf  参照)とも記されていた。御旅神社の現
                在地は、分かりますが、明らかに国府衰退以後の建立のようで、それ以前では、どこに神社は、存在
                していたのでありましょうか。

                 更に相川を下っていくと、大谷川が合流し、名神高速 養老ジャンクション東側で、相川は、杭瀬川
                に合流。その後養老大橋辺りでは、西から流下してくる牧田川と並走しながら、揖斐川とも並走し、杭
                瀬川は、いつしか牧田川と合流。海津町辺りで揖斐川に合流していた。

                 これは、現在の流下状況でありますから、古代では、杭瀬川が、流れている流路が、元揖斐川であっ
                たとか聞き及んでおります。天正期に木曽川が、大きく流れを変えたように、揖斐川もその頃大きく流れ
                を変え現在に至っていると推測します。}と。

                         古代における水上交通路及び陸路については、次のような記述もあるようです。
                 {列島の古代史4 人と物の移動 岩波書店 2005年版には、次のような論考があった。「河海の交通
                ー日本海交通を中心としてー」 松原弘宣著。 その中の 1 列島の水上交通 <地方の水上交通>に、
                美濃尾張三河川(揖斐・長良・木曾川)と伊勢湾交通なる項目があった。
                 「揖斐・長良・木曾川と伊勢湾交通は、東山道上の青墓(岐阜県大垣市赤坂町)−笠縫・中川(大垣市北
                部)−結ぶ(墨俣町)−墨俣渡ーたまの井・黒田(愛知県旧 木曽川町)−一の宮(一宮市)−下津(オリツ 
                稲沢市)−東海道上の萱津(海部郡甚目寺町)という美濃・尾張間陸路と揖斐・長良・木曾による三河川に
                よって形成されている。」と。更に「そこでの交易が水上交通を利用して行われた事は、『日本霊異記』中巻
                第4話 美濃国 方県(カタカタ)郡 現在の岐阜県本巣郡本巣町の辺りカ<小学館 新編 日本古典文学全
                集 10 1995年版より引用 しかし、平凡社1981年版では、各務原市古市場と注記してあるようです。> 
                に小川市(イチ)が在った事、そして、尾張国愛智郡片輪の里 現在の名古屋中区古渡町付近の女が、小川
                市(イチ)へハマグリを舟に積んで、出向く話等を例証にして記述されていた。詳しい事は、同氏の「日本古代
                水上交通史の研究」 吉川弘文館 参照されたい。}

                 古代の水上交通については、次のような記述もあります。「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島
                は、水路移動。
                 そして、三宅川を遡上し、稲沢国府に至る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 
                沖積平野の小地形と環境に記述されている。東海道(中路)からの支線であり、小路であったと思われます。
                 陸路であれば、駅には、馬が置かれた筈。水路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そう
                した記述はありませんからこの船は、私の推量であります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握ってい
                たのでしょう。
                 伊勢湾内と伊勢湾に流れ込んでいる大河への水運が、握られていったと推察できましょうか。

                 律令制度下では、駅路の規定はあるようですが、水路については、別段規定はないようです。水路の運用は、
                在地に任せられていた可能性が高いと思われます。「日本書紀には、5世紀以前に、既に尾張連氏は、尾張国
                に居たのであり、536年に、尾張国にある屯倉の穀(もみ)を尾張連によって現 博多港へ運ぶように蘇我稲目
                を通して命じさせたという事が記述されている。」事は、例証に為り得るのではなかろうか。

                 {律令国家が、水上交通の規定をするようになるのは、8世紀末〜9世紀初め頃の官物運漕規定(弘仁式)で
                あろうと。
                 運漕雑物功賃条が成立する以前である8世紀代の庸調物運京は、負担者自らが陸路・人担が原則。無規定
                であった庸調以外の官物(特には、春米・塩等の重量官物)の運京に、河川交通と海上交通(湖上交通を含む)
                が利用されていたと。

                 確かに、延喜式 「主税式正税帳条」には、「川船」規定が存在するようで、こうした点から国府と河川交通と
                の結びつきが想定されるという。}(前掲書 河海の交通 参照)記述もあります。

                 律令国家による水上交通の規定が無い時でも、既に何等かの水上交通は、あったようで、遥か縄文時代で
                さえ、舟(丸太舟)による交易は、不定期でありましょうが、存在していたのは事実でありますから。*
               
                             話を元に戻します。       
                 また、そうして造られた武器は、武器庫に保管された可能性が高く、その武器庫は、湯沐邑に置かれていた
                のではなかろうか。その武器庫の事も実質皇太弟(大海人皇子)の知るところであったと思われます。
                
                詳しい事は、赤坂宿近くには、古代に、美濃国府も存在していますから、その辺りにあったやも。               
                もう少し暖かくなったら、そうした事柄等を踏まえて、垂井辺りを散策しようと思っています。

                話を元に戻しまして、この寺の周囲は、紅葉の真っ盛りで、真っ赤でありました。
                マイナーな観光地なのでしょうか、観光客も少なく、私達を入れても両手に収まってしまう位の
               人数でありました。しかし、その分静かで、落ち着いて紅葉狩を楽しめるスポットかと。
                道沿いには、イチョウの古木があり、銀杏の実が落ちており、やや独特な匂いが、漂っていま
               した。地元の方なのでしょうか、しゃがんで拾い集めてみえました。

                このお寺さんは、金生山の東側山頂近くに創建されているようで、由緒書には、持統天皇の
               勅願にて朱鷺元(686)年だったかに創建されたかと。であれば、壬申の乱の相当後であり、
               天武天皇が、崩御された直後の建立ではなかろうか。大海人皇子の因縁の地であるからでし
               ょうか。しかし、この地にあったでしょうに、金生山神社へは、壬申の乱時、時の皇子は、戦勝
               祈願をされなかったのでしょうか。そういった謂れは、お聞きしませんでしたが・・・。

                                   『不破郡史』下巻(昭和二年刊)所引「南宮神社説」によれば、「社伝古記等を按ずるに、天武
               天皇元年(壬申)六月、天皇野上行宮に坐して軍を将し給ふや、當社に戦捷を祈らせ給ひ、御即
               位の後、行宮の宮殿を當社に寄せ総ひぬ。」と記載されているとか。「野上は伊富岐神社の南に
               近接する地であるから、伊福部氏の本居に近く、この地に尾張氏(大隈)の別業が存在しても不
               審とすべきではない。」とする説を載せているようです。
                所で、野上の伊福部氏は、尾張国の尾張連氏とは、同族のようで共に天火明(にぎはやひ)尊
               の後と伝う氏族とか。野上にいた豪族のようで、伊富岐神社を氏神にしている氏族のようです。

                昭和44年刊行の『垂井町史』通史編で、注目すべきは、野上の伊福部氏を製鐵(鍛造)職業部
               とみる説を載せていること。
                {即ち、前川明久氏は、樋口清之博士等のごとく、伊福を「息吹」と解し、製錬用の高熱をうるた
               めの送風装置(踏鞴)と結びつけ、「美濃における伊福部の分布地域の立地條件をみると……い
               わゆるイブキオロシの吹く地域で……伊福部の名稱は、この風を利用し熔解炉の火を高熱にす
               るため吹きいれることから拠ったのではなかろうか。……大場盤雄氏によれぱ、滋賀縣坂田郡伊
               吹村金山付近(現 滋賀県坂田郡伊吹町)に露天掘の…石鐵採堀址が発見され、その付近に鐵
               滓・フイゴ.火口などをともなう古墳時代の製鐵所址をも発見したという記載もあるとか。

                <この近くには、息長氏の陵も存在し、この古墳時代の製鉄は、息長氏との関わりを想起する。
               この息長氏から出た継体天皇は、尾張連氏の娘を、妃にしているし、尾張連氏とも深い繋がりを
               持っていた筈。・・・筆者注>

                美濃の伊福部は伊吹山の産鐵(のみならず他地方産の鐵も含めて)を原料として武器の鍛造
               にあたっていたのではなかろうか。」(「壬申の乱と湯沐邑」『日本歴史』第二三〇號)}と推測して
               おられるようであります。
                この記述を読んで、少し、糸がほぐれてきた感じが致しました。

                話を元に戻しまして、本来の参道と自家用車も乗り込めるような車道がアスファルト舗装され
               ていました。低い山なのですが、金生山神社から上の道は、徒歩であれば、心臓破りの急坂で
               あり、そうした急坂が、2回ほど出てきて、山頂の境内に到達しました。駅から途中お話をして登
               りましたので、ほぼ40分位かかりました。

                明星輪寺の境内の参道は、水平で、ほぼ300m位続いています。その最終ヵ所に南大門が、
               建てられ、両側には、金剛力士像が立っております。東大寺南大門にそっくり。やや縮小版で
               はありましたが・・・。

                そして、やや曲がりくねった道を進んでいった所に、お寺さんはありました。左手側には大き
               な梵鐘の釣鐘堂、釣鐘堂の横の階段を登ると上には公園があるようでした。この寺より上に、
               金生山神社は、かって建立されていたとかお聞きしましたので、この公園がそうであったので
               あろうか。聞き漏らしました。

                残念な事に、金生山の製鉄に関わる遺跡等は、見つかっていないようでかっての”湯沐邑”
               の名残りも分かりかねましたが、僅かに湯沐邑は、郷土史家の方からは、金生山よりも南側
               であったともお聞きし、揖斐川も、現在よりもっと金生山に近い所(現在の杭瀬川)を流下して
               いたとも示唆された。天正時代以前の大洪水で、流れが相当変わったともお聞きした次第です。
               (後日、そのような事を記述した資料も同封して頂き、”湯沐邑”の範囲が、何となく分かった気
               が致しましたし、古東山道の街道の経路図の書かれた地図もあり、大変参考になりました。)

                帰途は、駅まで20分もかからず、美濃赤坂駅舎で、30分近く待ち、ワンマン電車にて大垣
               駅まで帰り、行きと逆の経路を通り帰着いたしました。午後4時前にはわが家に着きました。

                久しぶりの山登りであり、心臓破りの急な坂道を登りきった後遺症でしょうか。大腿部の筋肉
               が、悲鳴をあげていました。今日は、お風呂でしっかり揉んで疲労を取り除かねば・・・。

                                   次回は、垂井にある南宮大社近辺を散策したいとは考えております。経路は、東海道本線を
               利用し、岐阜駅から大垣まで、快速。大垣で乗り換え米原行き快速電車にて、垂井へ。という
               経路になりましょうか。これからは寒くなるばかり、もう少し暖かくなったら出かけようと思います。


                < 付記 > 
                とあるHP上で、製鉄神について概略を述べてみえました。その一つであります、南宮大社。
                ・ 金山彦―イザナミの子―南宮大社(岐阜)−黄金山神社(宮城・金崋山)   ・・・ 私の住
                   んでいる近くには、松原神社(春日井市東山町)内に、摂社として南宮社があり、製鉄神と
                   崇められているとか。

                    {この松原神社には、江戸時代中期と思われる縁起書が残っているという。その文中に、
                   「有小鍛冶者造釼。截其利無能及也。一旦稲荷山之取埴土。以覺堪鎔刃敷爲埴土。來往
                   旦拜神矣。世人不諳此理徒爲金工之守神」とあるようです。
                    この解説文は、〔若い鍛練工がいた。刀剣を作る事が得意で、その鋭さは比類ない程で
                   あった。(彼が)稲荷山の粘土を見て、大へん剣を作るのに適していると感じ、この粘土の
                   良さを指摘して、この地の稲荷神を崇拝した。世間の人はこの由来も知らないでただ金工
                   の守護神として祭っている}と記してあるようです。

                    この事は、{中世になって稲荷信仰が普及。その結果当神社にも稲荷神社が合祀され、
                   「高牟稲荷大明神」などと呼ばれ信仰を集めた。}という。先にあった高牟明神は、現 春
                   日井市松本町にあったという本国帳春日部郡従三位松原天神なる神社ではないかと、こ
                   の松本町にあったという松原天神は、いつしかその所在が知られなくなったと。この高牟
                   稲荷大明神と言われるようになった地は、字名を高牟と言うようで、かっての松原天神を
                   貰い受けた(カ)時、名を高牟天神として祭ったのかも知れません。推測ではありますが・・。

                    この松原神社に続く北方の丘陵地には、6世紀頃の須恵器窯跡(下原古窯址)が存在し
                   ていた事を付け加えておきます。

                    松本町の近くの大泉寺新田にあった大泉寺は、いつの頃か小牧市池之内町に曳き移っ
                   たという謂れもあり、もしかすると、この松原神社も、そうした経緯があるのではとも推測い
                   たしましたが、どうでありましょうか。

                    こうした松本町・大泉寺新田地域は、往古 古墳時代前期の古墳が次々に造営された
                   地域であり、古墳造営も、時代が過ぎて行くにつれ、縮小傾向にあったかと。そして、衰
                   退していった可能性は、高い。
                    栄えていた豪族の衰退と同時にかっての氏神であった神社・寺院等は、廃れ、いつしか
                   移築された可能性もあったやも知れません。あくまで伝承の部類の事柄ではありましょうか。