丹羽郡 式内社 鳴海木丑(なるみてかし、或い はなるみちゅうと読む)神社を訪れて
1.鳴海てかし神社の所在地
所在地は、犬山市羽黒字成海郷であります。
事実、神社の東300m位の藪の中から、こんこんと水が湧き出ていたという。冷たくきれいで十分水
田を潤していたと。
この成海郷は、洪積台地でありながら、この辺りは、木曽川の伏流水の恵みで、穀倉地域として利用
できたと言う。
この場所は、名鉄小牧線より遥か西方であり、旧 41号線を犬山に向かって走り、蝉屋の交差点を左
折し、直進した池ノ向の交差点の北西寄りの所にこじんまりと佇んでいた。
現在では、伏流水は、枯渇したようで、汲み上げないと水は出てこない状況のようで、過去には、池は満
面と水をたたえていたでしょうが、干からびてしまい、内側にコンクリートで内池(うちいけ)が造られ、くみ上
げられたきれいな水は、その内池に貯められ、鯉が飼われ、かっての清い水の一端を垣間見ることが出
来るようになっていた。
周りは、まだ水田が残り、用水路も存在し、米作りは、営々と続けられているようでしたが、やはり宅地化
の波は、ひたひたと侵攻してきておりました。
洪積台地とは、現在の尾張丘陵に接して、熱田層(木曾御岳の噴火による軽石を含む礫層)と呼ぶ段丘
(その段丘の最上面を熱田面とも田楽面とも呼称)が存在している。この形成期は、市史によりまちまちでは
ありますが、5万年前とも、3万5000〜3万年前とも、言われております。そして、約10m下がって、小牧礫
層ができ、小牧面と呼ばれる段丘が出来たようで、一宮市史では、2万6000〜2万7000年前頃に形成さ
れたと記述されており、こうした地質は、最終の氷河期の時期であったという。
たいていこうした洪積台地は、水はけがよく、水田には向かず、畑作中心となり易いのですが、この犬山市
羽黒字成海郷は、木曽川の伏流水が、こんこんと湧き出る所であったのでしょう、水田化し得たようであります。
これは、この地区に住み着いた古代人の汗と涙と”うんこ”による黒色土の土地に生まれ変わった結果でもあ
りましょうか。
とすれば、木曽川派流地域のように大雨による洪水等の心配は無く、安定した生活が出来えたと言えましょう。
この地は、幼川の左岸側でありますが、遥かに川からは離れており、巾下川の水源域より遥かに北側であり、台
地上であり、現 国道41号線より遥かに東側に位置します。かっては、田楽面と小牧面という二つの台地は、高
低差が、10mあったようですが、なだらかにされたのかどこが境目であるのかは、現在では、私には判りません
でした。
伏流水も、あちこちの工場が、地下水を利用するようになったからでしょうか、こうした台地上で湧水として出現
していた所でさえ、湧き出る事をしなくなり、ポンプにて汲み上げないと利用できなくなってしまったようです。
2.鳴海てかし神社を訪れて
神社は、南向きであり、石垣が組まれた一段高い位置に創建されておりました。まわりは、木が茂り、古木もあ
り、一番大きな幹の古木でも200年位であると説明されておりました。進駐軍から贈呈された米松(アメリカ産の
松 日本産は、松葉が二本であるようですが、3〜4本もある松のようでした。)も、しっかり古木の仲間入りをして
おりました。
祭神は、山岬多良斯神(やまさきたらしのかみ)と言い、意味は、山からの水で十分潤す事が出来る高台である
という事を示す神であるという。いつからこの地に人が、住むようになったのかは判りませんが「、この辺りには、羽
黒古墳が存在している。」( 濃尾平野の歴史 二 古代の川と地名を探る 小池昭著 P.16 参照 )ようで、こうし
た一族が、開墾したやも知れません。
また、「巾下川最上流域には、弥生遺跡であります神明社遺跡(巾上地域)が存在し、」( 前掲書 P.9 参照 )
弥生時代には、この台地近くにまで、弥生人が進出してきたのでしょうか。
丹羽郡内であり、爾波縣君(大荒田命)が、この地域を支配したのであり、爾波縣君一族に取り込まれたのでしょ
うか。爾波縣君は、巾下川最上流域の左岸側に大規模な前方後円墳(青塚古墳)を造っています。
こうした事を肌で知る為、平成25(2013)年1月19日(土)午前中に愛車を走らせ、見て周りましたが、残念な
事に、地図を持たず、カーナビも付いておりませんでしたので、青塚古墳は、見つける事が出来ませんでした。近く
を何回か行ったり来たりしていただけでした。