今伊勢古墳群にある式内社 野見神社・酒見神社を訪れて
1.はじめに
現 一宮市にあります真清田(旧名 真墨田)神社より北側に存在する式内社であります。
この二つの式内社は、現 名鉄名古屋本線 一宮駅よりひと駅岐阜よりの今伊勢駅の東西にありま
す。どちらへも徒歩で、数分程度の所でありましょうか。
自宅を平成25(2013)年1月13日(日)朝8時少し前に出、名鉄バスにてJR春日井駅へ、中央
線にて、金山乗換え、名鉄 名古屋本線 岐阜行き特急にて名鉄一宮駅で、普通岐阜行きに乗り
換えひと駅先の今伊勢駅下車。無人駅でありました。約小一時間かかりましたし、片道交通費は、
1000円弱程かかりましたが、有意義な一日となりました。
書物では、こうした地域について理解したつもりでいましたが、行ってみて肌でこうした地域の実情
を知りえたのではないかと思いました。
2.式内社 野見神社を訪れて
名鉄 今伊勢駅の南西方向に在る事は、地図で調べておりましたので、地図を頼りに歩いて探しま
した。小池医院を左折して、次の辻を右折。数辻を通り過ぎた所に、こんもりとした林が見え、近づく
とやはり”野見神社”でした。
「所在地は、一宮市今伊勢町宮後、祭神は、野見宿禰命で、相撲の神様であり、土師氏の祖でもある
という。
おそらく、尾張氏によりこの地が開けた時、土師氏の一族が移住してきて祖神を祀ったのでしょう。」と
加藤 宏著「古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社」に記述されております。とすれば、雄略朝頃に創建
されたのでしょうか。
最初に迎えてくれたのは、”スダジイ”と呼ばれるブナ科シイ属で、一般的にはシイの木と呼ばれている
ようで、その古木(樹齢300年位と表記されておりました。)でありました。この樹木は、江戸時代になって、
100年程経てからここに植えられたのでしょうか。沖縄地域では、イタジイと呼ばれ、本州以西では、スダ
ジイと呼ばれる事が多いと。耐潮性が強く、海岸部にて巨木になる事が多いという。
参道は、南側にあり、約100m程度でしょうか。参道脇はすっかり民家が迫り、僅かに参道左手に
遊ぶ事のできる広場が残っておりました。
境内は、そこそこの広さであり、どちらも石組の土台の上に能舞台のような建物(拝殿)を備え、その後
ろに本殿がありました。
手水場は、参道右手側にあり、手水場の南側には、フェンスで囲まれ、地面は掘られたのでしょうか丸
い穴があいており、中央に石が積まれた小山があり、頂上に祠が安置されていました。よく見ると周りの
木の根元が、穴の底から丁度いい状態で、育っていましたので、もしかして、この穴の底が、本来の神社
跡の地面かと推察いたしました。
いつの頃か、洪水が起こり、この辺り一帯に濁流が流れ、木曾山中の風化した土砂が、大量に堆積した
大洪水の跡であったやもと・・。そう言えば、軒並みこの辺りの民家は、道路面より数十cm〜7・80cm
位土台を高くして建てられていましたのは、そうした事の影響かも知れないと思いました。(違うかもしれま
せんが・・・。筆者注、)
この神社の古い年代は、寛政年間の常夜灯でありましょうか。とすれば、天正の木曽川大洪水以前の遺
物は全て流失したか、埋もれてしまったかもしれないでしょう。この現 野見神社の下 地下1m以下には、
古墳等の遺跡等々も全て埋もれているのかも・・・。木曾川派流 古川・島川の氾濫域であったのでしょうか。
3.式内社 酒見神社を訪れて
御囲堤以前には、古代 木曾川派流であった古川のこの辺りの川幅は、100間(約180m巾)であったと
か。相当大きな川であったようであり、その古川へ島川と呼ぶ支流がこの酒見神社近くで合流し、蛇行を繰
り返し、津島を過ぎてから、旧 木曽川本流(佐屋川)へと流れ込んでいたのでしょう。明治の始め頃(デレー
ケによる木曾三川分流工事以前)までは、この古川の酒見神社上流域の和田橋まで、伊勢湾からの荷が上
がり、その橋辺りで、陸揚げされていたとも聞き及びました。
とすれば、濃尾平野内は、水運が、古代では、主の運送であり、交通手段であったのでしょう。主要交通で
あったのでしょう。確かに、この酒見神社の北側には、この辺りの盟主であったろう車塚古墳(別名 見当
山古墳、目久井古墳)が残っております。直ぐ下流域には、現 一宮市 名鉄一宮駅の近くに 尾張一ノ宮で
あります真清田神社(式内社)が、古川左岸側にありますし、さらに南側には、尾張国府(国衙)のあった現
稲沢市が、存在しています。この稲沢の地には、あの天武朝のきっかけを作った初代尾張国守(国司)小子
部(わかこべ)連さひちを祭る浅井神社(式内社カ)が存在しているという。
「濃尾平野の歴史 二 古代の川と地名を探る」著者 小池 昭氏は、その著書P.78、79に真清田神社の
祭神の歴史をつぶさに調べられ、下記のように記されています。
室町期の真清田神社古縁起、大日本一宮記、真清深桃集、神祇宝典、天野信影の本国神明帳集説等々
において、さまざまな神の名が出ており、新編一宮市史は、この神社の祭神は、壬申の乱の功臣 神麻加
牟陀君であり、三輪氏と同族であり、真清田神社古縁起の竜神信仰は、大三輪の神(大巳貴命)が、蛇と関
係あるとの事で、根底で繋がっているという見解であるようです。
地元郷土史の旧 一宮市史では、崇神天皇の時、尾張の祖神 天火明命を奉祀したもので、(中略)後、大
化の改新後、国造政治を廃して、国司政治に改めてから、諸国に一ノ宮を定め、多くは大巳貴命を祭神とした
政策を勧め、更には尾張一宮では、三輪氏が栄えていたので、祖神が変更されたのであろうと・・・。
こうした記述を読むにつけ、神社の祭神は、さまざまである時は、紆余曲折があったとしか取れず、本当は、
どうであるのかは、はっきりしないとしか言いようがありません。最初から尾張氏と関連付ける事もないのでは、
ないかと推察してもよさそうであります。この近くの神社は、古墳上に神社を築造しているようで、継続しておら
ず、断絶があって、その後神社を建てた一族が入ったとも考えられる地でもありましょうか。
話を元に戻しまして、酒見神社の所在地は、一宮市今伊勢町本神戸、祭神は、天照大神、酒弥豆男・女命
(さけみつお、さけみつめのみこと)の二名であります。
崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神が、同床共殿であり、神威を畏れ、天照を大和の笠縫邑(かさぬいむ
ら)に、倭大国を大和の市磯邑(いちしきむら)にそれぞれ祀らせたという。当社は、延喜式以前は、酒見御厨
(伊勢神宮領)であり、伊勢神宮へ白酒(しろき)と黒酒(くろき)を貢献していたという。代々、伊勢神宮からこの
地へ造酒司(さけつかさ)が派遣され、お神酒を造らせていたという。この本殿の西には、磐船(いわふね)が2
個あり、お神酒を絞る為に使用されていたという謂れがあるようです。
この神社の地は、雄略天皇の皇女 倭姫が、天照大神と共に、伊勢神宮に落ち着くまでは、居を転々と替え、
ここに滞在されたとかという事のようで、その倭姫の謂れを伝える石碑が、神社向かって左手に鎮座されてい
ました。
この神社に残る元々の参道は、神社の北西にあったのではないかと。新しい参道は、北側に昭和の御代に造ら
れたのでしょうか。石の鳥居と共に整備されていました。
摂社も多く、天王社は、二つもあり、秋葉権現もありました。酒を絞った酒石も残っていました。そして、その酒
のもとになる地下水を汲む井戸(栄水の井)も残存していましたが、しっかり石盤で蓋がされ、見えないようにさ
れていました。
この神社は、伊勢神宮の元伊勢であり、その伊勢神宮に奉納する酒を造った酒人を祭る神社であり、創建は、
天武朝より前には下らないのではないかと・・。
奉納した酒は、二種類(白・黒酒)であったとか。白酒は、いわゆる”どぶろく”にごり酒であったでしょうが、黒
酒とは、いかなる酒であるのか、見当もつきませんでしたが、日本海シンポジュウウム 日本海沿岸諸民族の
食文化と日本 味噌・醤油・酒の来た道 森 浩一編 小学館刊 昭和62年版 P.226に記述されていた。
それによると、{「黒貴(クロキ 黒酒)」とは、木灰を加えた酒」であるようです。造り方の一例として、米1石2斗
8升6合で麹を作り、これに7斗1升4合の飯と水 5斗、そして灰3升を加えて造る。と
更に付け加えて日本には、この黒貴のように灰を酒に加える「灰持酒(アクモチザケ)」は、今日でも伝わっており、
熊本県の「赤酒(アカザケ)」・鹿児島県の「地酒(ジシュ)」は、「灰持酒」であるとか。