伊雑宮散策
1.はじめに
伊雑宮は、今でこそ伊勢神宮(内宮・外宮)より名が知られてはいませんが、現在でも伊勢神宮の別宮として今に至っているようです。
江戸時代には、伊勢神宮と同格的・いや格上的な存在として各地に御師を送り、布教活動等に余念がなかったという。
2.伊雑宮散策
平成30年11月17日(土)余りの暖かさと天気の良さに、鳥羽1泊旅行に出かけた。突然の計画でしたが、幸い宿も取れ、出かけました。
行き先は、近鉄志摩線の上之郷駅(普通電車しか止まらない無人駅)。そこから歩いて数分の所にある伊雑宮(イザワノミヤ)。
駅で降りたのは、私たちだけ。ワンマン電車で、切符は、運転手さんに渡しました。
こんもりとした森の中に伊雑宮はありました。内宮・外宮は、人も多く境内も広いのですが、ここは、それ程広いとは思えませんでしたが、森の中は、
原生林であるようで、「巾着楠(キンチャククスノキ)」やら「勾玉池」があるという。しかし、一般は立ち入り不可であるようで見る事は出来なかった。
古い井戸やら夫婦杉は、見る事ができましたし、お田植神事の神田もみてきました。このお田植に関わるのが、御鍬社カ。札所の係の方に御鍬社
の事をお聞きしましたが、全くご存じ無く、御鍬社に関わる書き物も全く存在していないとのことでした。江戸期の寛文事件で、全て没収乃至は、焼却
されたのだろうか。詳しい事は、伝わっていないかのようでした。
3.御鍬社について
私の生まれ故郷に御鍬神社とかかれた石板が、御鍬山にある。御鍬社という小祠
ではないようで、何故ここにあるのか伝承等は、不明。
また、『角川日本地名大辞典・三重県』には、尾張・三河・遠江地方に多い御鍬社という小祠はこの伊雑宮の祭神イザワトミノミコトを
祀る。近世、伊雑宮の御師たちがこの神の名を以て宣布した結果と思われる。」
「近世の初め、伊雑皇大神宮を僭称し内外両宮と並べて伊勢三宮とし、その中でも伊雑宮が本宮であるという文書を作って遷宮の再興を上訴
した寛文事件があった。この時宮人40余人徒党、住所立ち退きの罪に問われたというから、当時は伊勢の両宮と同様に御師の活躍も盛んで
あったことが分かる。しかし、事件後は内人・物忌は正式には1人も補任されることなく、地元において私称の禰宜10人・神楽人15人等
が奉仕して明治に至った。」と。
愛知県岡崎市にも御鍬神社がある。詳しくは、http://www.jinja-net.jp/okuwa-jinjya3282/ を参照されたい。
その神社の由緒書には、「志摩国磯部に伊勢の別宮、伊雑宮あり。天照大御神を祀る。御鍬さまの信仰は神宮の御田植初め神事より出たもの
で、その時に使う忌鍬(イミクワ・・地鎮祭で使用される鍬のような物)を諸国に祀り、農の豊穣を祈った。明和4年(1767)頃が最も盛んであ
った。この地名針崎は墾崎(はりさき)で矢作川に臨んだ開拓地である。」と。
上記の事例から、御鍬神社(御鍬社)の元を辿れば、伊勢神宮の別宮 伊雑宮(イザワノミヤ)にたどり着きそうな可能性が高い。
更に、付け加えれば、古くからある村ではなく、江戸時代の初め(18世紀頃カ)頃の新たに人が住むようになった地域に勧請された場合もあ
ったのではなかろうか。