内々神社(うつつ神社)の奥の院(旧 妙見神社 現 巌屋神社)を訪ねて

            1.はじめに
               平成25(2013)年5月18日(土) 午前中、家から愛車に乗り、内々神社奥の院へ出かけた。
                                 内々神社は、式内社であり、古来より存在していた神社でありましょう。
                                
               江戸時代 下街道沿いの内々村(うつつむら)にあった内々神社と内津妙見寺は、中世の頃
              篠木33ヶ村の総社であり、湯立て神楽が奉納されていたと言う。

               明治以前には、内々神社の別当寺(神宮寺とも言う。)として見性寺があり、{ 元禄15(170
              2)年 吉見幸和編著の「妙見宮由緒書」によれば、「この内津の妙見様は、景行天皇41年、尾
              張連祖 建稲種命を奉祀したのに始まると言う。この命は、熱田神社にも祀られていますが、内
              々神社より9年遅いようです。この妙見様は、中世迄は、この地域一帯 篠木33ヶ村より村毎に
              毎年湯立神楽を当社に奉納してきたという。実際に使われた湯立釜が6個伝わっているという。
               また、雨乞いの際には、尾濃両国の村人等は、当社に祈願をかけるなど、この地域の精神的
              支柱であった。」 }とも記述されている。

               また、六国史にも、「この内々神社には、伊勢度会神主より奉納された大般若経が、神宮寺で
              あったであろう内津見性寺に伝存しているようで、これらは神仏習合思想の結果として、雨乞いと
              か呪術的祈祷の為、僧を招きこれを転読させたようであり、平安時代頃から盛行したことは、明ら
              か。」 と記述されているとか。

                                 参考までに、この妙見様の近くの内津峠を越えた美濃国の池田郷(現 多治見市池田町・多治
              見駅近辺を含む土岐川右岸側一帯、多治見市諏訪町・三ノ倉等を含む一帯)は、平安中期頃に
              は、池田御厨(伊勢神宮領)と呼ばれていたという。(多治見市史 参照)

               とすれば、この御厨では、諸国を巡る交易人が存在していたのではなかろうか。神宮への食料
              (にえ)を供給していたとも推測いたします。
               御厨内には現 庄内川の上流域が流れ、鮎等の魚類が豊富に獲れていたのでは・・。また、現
              愛知県の猿投地域系の須恵器職人を召集し、祭器等も貢納したとも推測できえましょうか。

               内々(うつつ)という地名は、関東遠征の副将軍格の尾張連の祖 建稲種命が、海で溺れ死んだ
              事を遠征帰りの陸路を行く大和王権の将軍が、この地で聞き、「うつつ哉、うつつ哉」と嘆き悲しん
              だ由来からきているといういわれがある所から付いたと言われているようです。六国史には、その
              ような事柄は、一切記述されておりませんので、所謂在地での伝承でありましょうか。明治以降に、
              俄かにこうした謂れが語られ始めたのではなかろうかと推測いたします。
               明治維新と何らかの関わりがあったからでしょうか。それまでは、ほとんどこうした謂れは、語ら
              れていなかったやに・・・。

               それが、景行天皇41年の頃の事として、真しやかに語り継がれたのでありましょうか。その発端
              は、{元禄15(1702)年 吉見幸和編著の「妙見宮由緒書」であり、「この内津の妙見様は、景行
              天皇41年、尾張連祖 建稲種命を奉祀したのに始まる。」}と言うことからではないでしょうか。

               しかし、遠征の復路であれば、陸路は、東山道であった筈。この内津は、かなり東山道からは、
              外れた道と言えなくはないかと。そして、面白い事に、すぐ近くの小牧市大山には、尾張白山社が、
              白山峰に建立されており、そこの社伝によれば、景行天皇42年の建立とか。偶然とはいえ、何か
              しら繋がりがある記述ではと推測できそうであり、何かしらの意図を感じざるを得ません。

               私が、推論した事を、完膚なきまでに論述されている記述を見出しました。そう、郷土誌かすがい 
              第76号 考証 春日井の日本武尊伝説 高橋敏明氏の論考(平成29年11月1日 発行)です。
              ( http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/1004413.html
                以下は、そこからの抜粋。 )

                                <平安時代「内津」だけであったのが、江戸時代の再発見以降、既存地名を材料に新たな話が
              付加されました。江戸時代特に後期、内津は妙見信仰一色の観を呈し、庶民は好運を自分の星
              に祈りました。そこに武神ともいえる建稲種命を受容する余地はありませんでした。

               話を膨らませたのは、江戸時代は藩であり、明治以降は知識人で、昭和の戦後まで続きました
              が、地元民の口承は確認できません。伝説は一般的には口承ですが、この伝説は、少なくとも江
              戸時代以降は文字伝承であったということになります。>と。

               史実として、秀吉以前の天正期の内津には、人は住んでおらず、内津神社の神領域であったかと。
               『尾張徇行記』によれば、内津に人が住み始めたのは天正年間で、それまでは内々神社(当時は
              妙見宮)の神域でしたと。

               現存している内々神社拝殿・本殿<現本殿・幣殿(1810年)と拝殿(1813年)の棟札アリ>・裏庭は、
              秀吉の朝鮮征伐用の船の木材代が元手となって、建立されたようで、それ以前の旧 内々神社は、
              現 裏庭辺りにあり、旧 池等は、旧 社殿北側にあり、新旧 社殿が一時並立していたかのようで
              あります。
             (詳しくは、http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/1014885.html
              を参照されたい。)

            2.奥の院を訪ねて
               下街道沿いの内々神社西よりには、下街道の追分があり、その道は、現 国道19号線下を通り、
               渓谷沿いに奥の院へと続いており、下街道沿いにある内々の妙見様からは、約700m程離れて
               いるようです。更にこの道は、お隣の岐阜県多治見市大原へと続き、現在もある古渓山 永保寺
               へと続く道でもあるようです。

                鎌倉期では、こちらの永保寺北側の道が、土岐氏本流への道であったのかも知れません。土岐
               川右岸よりの道であります。

                この奥の院は、現在では、巌屋神社と銘々されているとか。旧 妙見神社とも言われていたよう
               ですが・・。
                道より少し奥まった所から参道があり、渓谷を石橋を渡り、山道を登って行く参道でありました。

                参道を少し行くと、狛犬があり、その後ろには、文化10年10月と刻印された常夜灯が二基建っ
               ていた。これ以後山裾の岩を削った幅の狭い急な階段等を上っていく道となり、大きな巌が現れ、
               巌は、中がくり貫かれて、そこへは、鉄筋でできた階段が設置されておりました。中には真新しい
               祠が、鎮座されていて、ここからは、土足禁止と書かれてあり、板張りになっておりました。
       
                この祠のある巌は、中腹位であり、参道は、二股になり、展望台へと続く山道と参道に分かれて
               いた。この参道も、祠のある所へ登る急な参道と、別の更に上へと続いていく坂となり、祠のある
               とても急な参道へと私は、登って行きました。もう一つの道のこれ以上の散策は、無理と判断し、
               中断して帰りました。

                登る時は、それほどの怖さはありませんでしたが、下る時、階段の幅の狭さと急な下りで、怖さ
               が先に来てしまいました。が、やっとの思いで、下りきりました。下の道では、砕石場の車でしょうか、
               時折移動をしており、神様もおちおちと鎮座出来ないのではなかろうかとさえ思えました。

                この奥の院の山々から、朝鮮征伐に行く秀吉軍の船の帆柱を切り出したという言い伝えもあり、
               このような所まで、時の為政者は、目を光らせ、利用していたのかと改めて、感心してしまいました。

                この内々神社の西側の道、多治見市大原へと抜ける道は、よく利用されていたのでしょうか。江戸
               時代の俳人 横井也有翁も、晩年この道を通って、奥の院へ参拝されたようであります。また、永保
               寺への参拝には、内津からどの道を通って行かれたのか、内津草(也有翁執筆の書)には、はっきり
               とはルートが記述されておらず、内津からすぐ現地の事に記述がとんでおります。

                尾張名所図会の内々神社の条にも、「社の上なる山に、奥の院といへるありて、当社開闢の地と
               いひならへる岩窟あり、其深さ二間ばかり、其中に小祠あり、是又建稲種命を祭る。(略)さて、ここ
               に至る道路は、大石をうがちて壇とし、甚だけはしくして登る事たやすからず。」云々とある。

                ( 確かに、「大石をうがちて壇とし、甚だけはしくして登る事たやすからず。」まさしく、その通りであ
                りました。・・・筆者注)

                先の横井也有翁の著書「鶉衣」の中の「内津草」の条には、この参拝の様子が記述されていました。
               現代訳にして記述すれば、{この日妙見宮に参拝した。家からはごく近い。なお奥の院に参ろうというと
               「この上もない険しい道であろう。老人の足ではなかなかそこまで行けないだろうから、おやめになった
               らどうですか。」と人々が言う。しかし、こざとへんに元で一字と籍が、車が行けなくなったら帰ったよう
               に行けなくなったらやめようと笑って登った。左右に大きな杉などが枝をさしかわして日の光ももれない。
               細い道の苔がなめらかで、石が高い。右の方に天狗岩という世にもまれな大きな岩が突き立っている。

                * 中央の天狗岩は高くそびえ、影向石となしている。影向石は神が降臨する石で、磐座(いわくら)(岩倉
                 )ともいわれます。磐座信仰は日本古来の自然を崇拝する原始信仰であるようです。*
               
               大きいのでただ一つの山と見られるのである。このような奇怪な岩は、他の国にもほとんどないという
               ことである。
                     這いのぼる蔦もなやむや天狗岩      也有

               と詠んで進んだ、* ここからが参道の事のようです。*次第に道が険しく、岩をはいのぼり木の根にすが
                                 って、七町ばかり登って少し足場の平らなところに休む。( 確かにありました。今は、四方をコンクリート
               で囲まれてはいますが・・。)ここで、遠くを見上げると神々しい拝殿が見えいる。そこまでは十間ばかり、
               殊に危ない坂がある。( その当時は、大石をうがちて、段となした道であったでありましょうか。現在は、
               鉄筋で出来た階段が設置されています。階段の幅はやや狭く、しっかりと足をかけないと滑りそうで、下
               る時の方が怖かった。)社の本殿はなお奥まったところにおいでになるそうで、これまで登っただけでも、
               私には大変な仕事であった。今はもうこれ以上登る事は無駄である、ここで頭を下げ、拝んで帰ることに
               した。
               ここでは、
                     杉深しかたじけなさに袖の露        也有
               と詠んだ。
          
               ほんとにこの国にこのような神社があるとも知らなかった。若い人々は、わざわざでも、参詣すべき霊地
               であろう。}と。

                残念ではありますが、私は、現 国道19号線より愛車で、奥の院へ直接向かった為でしょうか、天狗岩
               なる大岩を見つける事は、出来ませんでしたが、奥の院の参道から奥の院の祠までは、也有翁の記述
               に近い状況であったかと。確かに休まれた平らな所もありました。そこからは、急な鉄骨造りの階段を登
               って私が、行き着いた所が、建稲種命を祭る祠でありましょう。この祠の創建が、景行天皇41年という伝
               承でありましょうか。

                とすれば、実際大和王権の将軍が通ったであろう道は、この大原経由の道ではなかったのか。東山道
               からは現 可児市から、離れ、現 多治見市への道 旧 今渡街道(現 国道248号線)を南下し、大原
               経由で、内津へ抜けてきたのではないだろうか。このように推測するのであります。通過が事実であれば
               ですが・・・・。

                何故、わざわざ犬山より手前の可児市から東山道を離れて、南下したのかは、不明でありますが・・・。
               犬山から南下すれば、建稲種命の奥さんの実家でもあり、歓待されたのでありましょうに・・。
                参考までに、この辺りの内津から西尾(さいお)、明知、神屋(古老は、かぎやと呼称)を大和王権の将軍
               が、通ったという伝承があり、ここからもしかすると、大草経由野口そして、味岡から大曽根、熱田へと向わ
               れたやも知れません。伝承が、事実であればですが・・・。

                その結果、尾張白山社(小牧市野口、大山)の創建が、景行天皇42年という伝承(聊か眉唾物の域を出な
               いのでは・・。筆者注)になっているのではないかと推測できるのであります。ここを通るのに、何故一年を要
               したのであろうか。或いは、内津を景行天皇41年末頃とすれば、すぐ年が明けて景行天皇42年であったかも
               知れませんが・・・・。

                或いは、丹羽氏・尾張氏による建稲種命の死による報復を考えての長逗留であったのであろうか。
                このような事を思いつつ(空白の4世紀 確かに関東への遠征はあったでありましょうが・・・。大王銘の太
               刀も発見されていますから。)、奥の院の散策を終えました。

                こうした謂れは、この地域の民間伝承の類であったのでしょうか。明治維新をきっかけに、大々的に流布され
               たのではなかろうかと考えます。

                                                            2013年12月29日 最終脱稿
                                                            2018年12月19日 一部加筆