南北朝期 尾張軍 蜂屋・原についての雑感
1、はじめに
尾張近郊の諸市史には、南北朝期 南朝方に味方した尾張軍 蜂屋・原(園太暦 第4巻 P.265・294・308・327 参照)に
ついて丹羽郡の二宮宮司家 原大夫ではないかと推論されている。とすれば、蜂屋は、もしかすると尾張社の蜂屋大夫ではなかろう
か。春日井市史 通史 P.128には、「暦応2(1339)年 熱田大宮司が幡屋大夫(ハタヤタイフ)以下の神人をして篠木荘園内玉野郷
に押し入り、建武4(1337)年には、幡屋大夫政継は、柏井荘内15坪、山田郡内野田村、篠木荘内玉野郷の代官職(地頭的な下地
支配)を各半分安堵されていた。」という記述。幡屋と蜂屋似通っていると思うのは私だけでありましょうか。
南北朝期には、大縣社・尾張社は、共に南朝方に味方していた事は史実でありましょうから。推測以外の何ものでもありませんが・・・。
2.園太暦 第4巻 蜂屋・原についての記述
* 「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)
年に立木田
高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の一族がはい
ることになった。
1350( 観応元・正平5)
年に尊氏方の土岐一族と直義方が尾張黒田・美濃青野原で交戦、直義死後に東濃の土岐一族(蜂屋・原)
吉良満貞・石塔頼房は南朝方につき、熱田社の熱田昌能と結んで、土岐氏被官と尾張大山寺・熱田で戦った。この戦況を有利に
進めるために幕府は 1352
年に尾張・美濃・近江に半済令を発令した。この半済令によって尾張・美濃守護の土岐頼康は、尾張北
中部を勢力下においていく。」( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf
参照)と。*
園太暦 巻4 P.265 P.294には、次のように記載されていた。「文和2(1353)年4月10日 尾州合戦事」( P.265 参照 )
或いは、文和2(1353)年4月10日「今日於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代土岐家人等合戦、件當類原・蜂屋等云々.」( P.
294 参照 )と記述されていたのが、全文でありました。
( 果たして某市史では、 原・蜂屋と記述された原を原大夫であるとどのように証明されたのであろうか。別段、原については、具
体的な説明は、園太暦 巻4には、ありませんでした。・・・筆者注 )
上記記述以外にも、文和2(1353)年6月10日の条にも、「楠木・和田在彼勢、又石塔・吉良・率原・蜂屋等同發向、件輩皆自八幡出
カ、其勢彼是一萬余騎也、・・・」( P.308 参照 )或いは、文和2(1353)年7月9日条には、「濃州軍旅頗(スコブル)無其勢カ、自南方
被發向輩原・蜂屋・宇都宮・三川三郎等勢六七百騎巳下、・・・」(P.327 参照)という記述もあります。
文和2年前後数年は、北朝・南朝が、京都を占拠しては、交代し、流動的であった。そうした状況での、尾張軍(南朝方)の出動であっ
たかと。尾張でも戦い、京都近辺でも戦い、幕府(北朝方)対南朝方に分かれて、主導権争いをしていたのでしょう。確かに、原・蜂屋等
は、尾張地域の者でありましょうか。
3.多治見市史に於ける土岐一族の概観等から
詳しくは、拙稿 多治見市史から垣間見える美濃、東濃地域における土岐一族の動向についての要約
を参照されたい。
尾張軍 蜂屋・原 大夫に関わる部分のみ列記すれば、以下のようになります。
「清和天皇の孫 経基王(臣籍に下り 源経基 )ー満仲 −−−−−−−−−−−ー頼光*
平将門の乱を平定。藤原純友の乱でも 経基の長男 摂関家と結びつき 満仲の長男 美濃守を2度勤める。
活躍 その後 美濃守に任ぜられる。 美濃源氏の基礎を築く。美濃守 「御伽草子」 大江山の酒天童子を
退治した人物として登場。
頼信**
満仲の次男 源頼朝の祖となる人
物。美濃守 藤原道長に重用される
−満政 −−−−−忠重ーーーー定宗ーーーーー重宗
経基の次男 中央政府の官職
( 右兵衛尉 )
* 頼光ーーーー頼国ーーーーーー頼綱 **頼信の一番目の孫 義家・・広範な地域の武士団組織の棟梁
美濃守 頼国の長男 武勇天下一 荘園の寄進多し
摂関家の侍
国房 **頼信の二番目の孫 義綱・・院は、義綱を重用し一族の分裂を
頼国の次男 策す。11世紀後半 美濃守
散位(位だけあり、官職を持たない。)
この当時の本流は、国司在任中から自己の有利な立場を利用しながら、美濃国内に勢力の扶植を図り、領内の有力
名主や荘園領主との結びつきを強めていた。そして、更に国司の任務と明らかに対立する土着豪族的な、あるいは荘園
の荘官的な歩みを開始していたのであろう。これ以後、美濃源氏一族は、大きく三派に分かれていくのである。
・ 頼光の孫 頼綱の系統
( 満仲の子が、頼光。 )
頼綱の三男 国直 山県郡に住み 山県三郎と名乗る。その子孫は、飛騨瀬(肥田瀬)、粟野、上有知(こうずち)
”蜂屋、原”、落合、福島、清水、平野の諸氏に分かれていく。( 美濃市以東 )
・ 頼光の孫 国房の系統 ( 満仲の子が、頼光。 )
国房は、美濃七郎と名乗り、厚見郡鶉郷(岐阜市)に勢力を張っていたが、その子孫は、土岐郡に移り、土岐郡で
勢力の基礎を築く。土岐氏の祖となった。 ( 東濃地域 )
・ 満仲の弟 満政の系統
満政の曾孫 重宗(中央政府 右兵衛尉という官職についている。)は、佐渡源太とも八島冠者とも名乗り、安八
郡、方県郡、本巣郡に勢力を張り、その子孫は、”山田、葦敷(あじき)”、生津(なまづ)、小河高田、鏡、白川、小島
木田、開田の諸氏にわかれている。 ( 西濃地域 )」
” ”内の諸氏をどう把握すればよいのでありましょうか。確かに「蜂屋・原」「山田、葦敷(あじき 安食カ)」共に、ご先祖は、同一。
美濃国 山県郡或いは方県郡辺りに勢力を持ち、この氏族の本流は、美濃国 土岐郡そして後には、岐阜辺りに進出した一族で
ありましょう。
春日井市史P.134には、「安食荘には、荘官として安食氏がいたという。張州府誌には、安食二郎重頼なる者、安食荘の荘官
級の武士であったという。」また、尊卑分脈によれば、安食氏の系図は、「重遠の子に 河辺重直・葦敷二郎重頼があり、河辺重直
の弟 葦敷二郎重頼は、安食荘に土着し、荘官級豪族として勢力をたくわえ、兄である河辺重直は、庄内川を挟んだ安食荘とは対
称的な位置にあった山田荘の荘官として勢力を拡大していた。」という記述もみえ、山田荘は、庄内川の左岸側にも存在していたで
ありましょう。河辺某は、山田氏とも名乗っていたのでは・・・。
新修名古屋市史 第2巻 P.79には、「美濃国方県郡周辺から南下した源 重遠の子孫は、尾張東北部の丘陵地帯、山田郡あ
たりに本拠をおき、更に鎌倉初期に至って三河国足助方面まで勢力をは植していった。」という記述もあり、平安末期以降に美濃国
から尾張国へと南下したように推測出来る。
春日部郡林・阿賀良村が、鎌倉末期頃の円覚寺文書に出てくる。その阿賀良村には、白山社が現小牧市林地内の山裾に存在?
しているが、既に平安末期頃には創建されていたと推測され、その創建には、源 助良の御先祖様が関わっていたのではなかろうか
と。源 助良は、鎌倉末期頃の人物ではありますが、或いは南下した美濃国の源 重遠一族の末裔の可能性もありはしないかと。
阿賀良村は、大縣社領であり、二宮宮司は、原 大夫家であります。丹羽郡域で郡司として勢力を持ちえた良峯家の一族と捉えられ
ていますが、承久の乱以後、丹羽郡内の二宮領有について九条家と原家の間で領有権争いが起こっている。
( 詳しくは、拙稿 尾張国 二宮社(大縣神社)領 領有者の変遷について を参照されたい。)
その争いの原家の当事者は、永仁3(1295)年の関東下知状に登場する原 弥三郎高国なる人物。良峯家系図には出てこない。
かっての原 大夫家から代替わりした者なのかも知れません。仮に代替わりしたとすれば、鎌倉初期頃でありましょうか。
このように平安末期以降尾張国へは、美濃国の源一族が南下した事は史実でありましょう。美濃国土岐郡長瀬辺りには、平安末期
以降 長瀬領主 源 頼氏なる人物が突如登場する。土岐一族の系図には現れない人物であり、或いは、土岐家の傍流(方県郡辺り
の源氏一族)の可能性はないのであろうか。