古代 美濃・尾張国 木曽川近辺の村国氏一族と各務氏について

              1.はじめに
                672年壬申に起こった天皇家の内紛(壬申の乱)で、大海人皇子側に付き戦功を上げた美濃国 村
               国男依と各務氏について、乱以前から乱後の動向についてまとめてみようと思いました。

                既に美濃国不破郡 相川(河川名)流域については、拙稿で部分的に述べては、いますが・・・。

              2.美濃国の村国氏と各務氏
               ・ 村国氏について
                岐阜県史 「壬申の乱に関係した美濃の地方豪族」では、文献上に、村国に関わる人名として、「大宝2
               (702)年御野国山方郡三井田里戸籍」の中に戸主五百木部君木枝の妻に村国奥連小龍売 が見え、「
               続日本紀」慶雲4(707)年4月条に、美濃国の人 村国連等志売の名が見られる。
                8世紀前半頃に、美濃国に村国連一族も、居住していたと思われます。本家は、畿内の村国郷に居住
               地を移したのでありましょうが・・。

                また、美濃国延喜式神名帳にも、美濃国各務郡には、村国神社が二座と村国真墨田神社が記載され、
               和名抄には、郷名で、村国郷が、三ヶ所みられる。
                 @ 美濃国各務郡 A 尾張国葉栗郡 B 大和国添下郡。

                @とAは、木曽川を挟んで両岸に相対して存在している。現在の各務原市の東部と、愛知県江南市村
               久野付近と想定されている。(愛知県史 参照)

                                @・Aでは、どちらが、村国氏の初発の居住地であったのであろうか。壬申の乱後、Aの尾張国葉栗郡
               現 愛知県江南市村久野付近に、氏寺と言うべき”音楽寺”を創建、瓦は、美濃国の美濃窯で焼成せられ
               た物を川運にて運んだと思われる。何故、美濃国に創建せず、尾張国に創建したのであろうか。
                広野川の流れの安全性が、美濃国より、この当時尾張国の方にあったとすれば、それまででありましょ
               うが・・・。そうでなければ、初発の居住地が、尾張国であったとする見解も成り立ちそうでありましょう。

                Bは、村国氏が、壬申の乱後連姓を賜り、中央貴族の末席に名を連ねるようになった頃に居住するよ
               うになった所であろうか。

                村国氏は、「壬申の乱以前では、無姓であり 村国小依と表記される。」とか。春日井市シンポジュウム 
               壬申の乱と東海 −大海人皇子から天武天皇へー 春日井市教育委員会 平成7年発刊 P.201にある。
                更に、村国氏の居住地域は、「美濃国各務郡東部の村国里を中心にして、尾張国葉栗郡北部に及ぶ小
               地域に基盤を持ち、大海人皇子の忠実な舎人として出仕し、在地には同族的な私兵集団を持ち、現在よ
               り北方を流れていた木曽川からは、現在の墨俣辺りに到達できる位置」に居住していたのではなかろうか
               と記述されていた。

                 拙稿でも、村国神社については、記述している。「岐阜県各務原市(かかみがはらし)の各務に村国神社
               があった。この神社の祭神は天火明命、石凝姥命、村国男依だという。『各務村史』に、町名「各務」は往古
               は「鏡」であったといい、村国男依が村国氏の太祖天火明命(海部・尾張連氏系カ・・筆者注)と鏡作りの祖神
               石凝姥命(いしこりどめ命 物部系とも言われてる方もあるようです。・・筆者注)を祀って創建した社に、そ
               の後 子孫が村国男依を合祀し村国神社と称したと記されている。
                古代において鏡も金属器であった。因みに石凝姥命は奈良県田原本町の「鏡作坐天照御魂神社」(かがみ
               つくりますあまてるみたま神社)に主祭神天照国照彦天火明命とともに祀られている人だという。
                詳しくは、 旧 美濃国 垂井 相川(河川名)以南の地の古代の概観 を参照されたい。
                この神社の性格は、村国氏の太祖が、天火明命である以上。村国氏は、尾張連系であろう。祖神としての石
               凝姥命は、尾張国の物部氏系と同系の祖であろうか。とすれば、相当古くから物部氏と尾張氏は、手を組んだ
               のでありましょうか。

               岐阜県図書館の蔵書に、「鵜沼の歴史」という著書がある。そこにも、村国氏の事柄が記述されている。
               目次のみ記載すれば、
               「第3編 古代・中世
               第4章 上代の鵜沼・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
                第1節 村国氏の興亡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
                  壬申の乱と村国男依・・・村国氏の郷里・・・村国真墨田神社と棟札
                  ・・・壬申の乱の行賞・・・村国連の展開・・・恵美押勝の乱と村国連           
                  氏・・・村国連氏の末路」となっている。

               村国氏が、中央貴族から失脚したのは、時の実力者 藤原仲麻呂(後の恵美押勝)側であったからであろう。
                            失脚したのは、恵美押勝の乱後でありましょう。男依の子は、無実であったとして官位は、戻されたようですが、
                            その孫の代では、官位は、与えられなかったとか。
                             在地では、男依の功績により与えられた功田は、破格の120戸であったようですが、三代までの相続が許され
              ていたようで、その後没収された可能性が高い。そうした事柄から、村国氏は、衰退していったのでしょうか。

             ・ 各務氏について
               村国氏失脚後は、在地の各務氏が、村国氏に代わって台頭した可能性は高い。
               大宝2(702)年の加毛郡半布里戸籍には、
               「中政戸務 従6位下 族 吉麻呂 中政戸 不破勝族 金麻呂」の記載があり。垂井に勢力を持った不破勝系
                            {壬申の乱で、活躍し、不破郡大領となた宮勝木実(ミヤスグリノコノミ)と同系の者カ}が、美濃国加毛郡へ来ていると
              いうことでしょう。

               同じく大宝2年 各務郡中里戸籍には、「小領務 正七位上 各牟勝小牧 主帳務 正七位下 勝牧夫」の記載
              あり。

               * 同じような事柄で、「御野国各牟郡 郡司少領 各務勝氏の名もみえる。」と言う。(東海の古代@ 美濃・飛騨
               の古墳とその社会 八賀 晋編者 同成社 2001年7月発行 P.182 参照) こちらも、正倉院文書 大宝2
               年 各務郡 中里戸籍に準拠しているのでしょう。*

               精和紀{在位は天安2年11月7日(858年12 月15日) 〜貞観18年11月29日(876年12月18日}には、「各務郡
                            大領 各務吉雄 厚見郡大領 各務吉宗」の記載。
               国史大系第27巻 類聚符宣抄には、「前出羽権大目 正六位上 各務勝利宗」の記載があるようです。
              (上記記述は、濃飛両国通史 旧版 P.74〜75 参照 しかし、国史大系27巻 類聚符宣抄1〜10巻内には、
                            前出羽権大目 正六位上 各務勝利宗は、未だ確認出来ないでいます。・・筆者注)

               この鵜沼の歴史 執筆者は、「各務氏を村国氏と違って在地に残り、各務郡を領有したのでは。」とさ
              れ、「各務氏は、後に各務氏と各務勝氏に分化した。」のではと捉えられているかのようです。

                              * ところが、前述の「各務氏は、後に各務氏と各務勝氏に分化した。」という見解とは違う記述が目にとまった。
               東海の古代@ 美濃・飛騨の古墳とその社会 八賀 晋編者 同成社 2001年7月発行 P.184〜185に
               載っていた。

                「貞観7(865)年の12月7日条(三代実録)に、尾張国と美濃国の国境を流れる 広野川 の中洲に土砂が
               堆積し、流露が尾張国側に変わった。その為尾張国側に、降雨のたびに大きな被害が出るようになり、河口を
               掘り開いて、昔の流れに戻す工事を太政官に申し出て、裁可された。
                ところが、翌年の7月9日・7月廿日・7月廿六日の条(三代実録)に、美濃国 各務郡大領 各務吉雄・厚見郡
               大領 各務吉宗等が、歩旗700余人を率いて工事中の所を襲撃。役夫 中嶋郡人 磯部逆麿(イソベサカマロ)等
               三人を射殺。
                この事件後も、人夫数百人を率いて工事の倉を壊し、河の水を尾張側へ流し、堀り開いた所へ砂石を運んで
               埋め、その後も百余騎を率いて河の側を見張った。」という。こうした反乱の首謀者であった為、無姓で記述され、
               勝(姓)が省かれただけであろうと。首謀者への懲罰は、うやむやにされ、国司の交代で終わったという。
                とすれば、各務氏は、分化しなかった事になりましょうか。*
                           
               また、濃飛両国通史の記載では、不破勝氏や各務氏を百済系の渡来人であると指摘され、また、「不破勝氏、各
              務勝氏、勝野氏(旧 鵜沼村南町に居住)は、垂井の南宮社に関わりがあり、各務勝氏は、南宮社の氏子であり、
              勝野氏は、南宮社を祀っていると。この氏族は、陶器作りに関わっていたとも。勝野氏は、陶器・金属に関わってい
              た。」(鵜沼の歴史 参照)とも記述されていた。

                              参考までに、奈良時代頃の広野川(現在の木曽川)について、記述しておく。
               「続日本紀」神護景雲3(769)年9月8日壬申条に、尾張と美濃の境にある鵜沼川(流れる流域により、広野川とも、
              墨俣川とも、尾張河とも呼ばれていたようです。・・筆者注)が氾濫し、尾張国の葉栗・中嶋・海部三郡に及び、農民
              の田宅を浸水させるに至った。このままでは下流の国府・国分二寺も被害にあうとして、尾張国は中央政府に解工
              使の派遣を申請している。

               この当時の河川は、現代のような大規模な堤防を築造する事は不可能で、自然堤防を補修する事で河流を維持
              していたようで、台風・豪雨でたやすく氾濫し、分流を形成していた。氾濫の被害を美濃・尾張国のいずれが蒙るか
              は時々の状況によったようで、対立は激しかった。

               「続日本紀」宝亀6(775)年8月22日条には、伊勢・尾張・美濃三国を異常風雨が襲い、三ヶ国の被害は、百姓の
              漂没するもの三百余人、馬牛千余頭に及び、国分寺をはじめ諸寺では、破壊されたもの19基に至った。と記述され
              ていた。そして、9世紀後半頃になると流域の状態がかわり、美濃国側ではなく、尾張国側へと流れの本流がかわっ
              たようであります。その為の工事が行われ、美濃側の工事襲撃に繋がるという。(上記記述は、東海の古代@ 美濃・
              飛騨の古墳とその社会 八賀 晋編者 同成社 2001年7月発行 P.183からの抜粋であります。)

               しかし、各務氏等が、いつ頃から当地に居住するようになったかは、鵜沼の歴史では、述べられていない。
                             (只、歴史上 大きな出来事をみてみれば、白村江の戦(663年 百済滅ぶ。)に敗れる。百済人2000余人を東国に
              置く(666年)という史実。この百済人2000余人の一部が、美濃・尾張等へ来た事に関わりがあるのではなかろうか。
              ・・筆者注)
                            
               村国氏の氏寺である音楽寺(尾張国 木曽川近く 現江南市村久野辺り)の瓦等は、美濃窯で造られていた事は、
              埋蔵文化財センターの発掘報告書から知られる事ではあります。 創建は、7世紀中ごろと推定されている。 (詳しく
              は、発掘報告書を参照されたい。    http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo13/1302nagk.pdf  )
               尚、犬山市史 通史 上 P.196 には、この音楽寺の強固な基壇に地震跡がみられ、平安時代の早い時期に
              倒壊し、それ以後再建されていないとも記述されている。
               おそらく、この地震は、下記の地震ではなかろうか。
                                西暦       (和暦)            規模  被害などの概況
               887.7.24  (仁和3.6.30)      不明   美濃大地震   ( 出典 三代実録 )この地震は、東海・
                                          東南海・南海地震三連動が起こった地震の可能性が高い。平成の
                                          御世になって、東海・東南海地震が共に起こった事が津波の堆積
                                          物等で証明された。相当な被害が出たことでありましょう。

                               「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年10月発刊 P.19には、次のような記述もある。
               {宮勝木実への特授から約20年遡る持統5(691)年5月、百済からの渡来人 淳武微子(ジュンムミシ)が生涯を
              終え、壬申の功臣として直大参位(ジキダイサンイ 大宝律令では、正5位上に相当するが、実質的には、四位クラス
              の中級貴族の地位ではなかろうか。)を贈られている。と

               * 「東海の古代@ 美濃・飛騨の古墳とその社会」 八賀 晋編者 同成社 2001年7月発行では、「百済からの
               渡来人 淳武微子は、百済国人淳武止等(シト)の子孫」とも記載されている。

                               同書 P.191には、「淳武微子と宮勝木實とは、別人であるが、近い関係にあったと推測できる。」と記述されて
               いた。また、同書には、「村国男依の傘下に、宮勝氏が17騎を率いて加わった。」とも記載されており、共に壬申の
               乱(672年)時は、戦ったようであります。*

               『新選姓氏録』によると、不破勝氏は、「百済国人淳武止等(シト)之後也」とあるから、壬申の乱当時、百済系渡来人
              の淳武氏は、三野国不破郡に定着していた可能性が高いとみられる。}と。

               そして、前述の{大宝2(702)年の御野国加毛郡半布(ハニュウ)里(後の美濃国加茂郡埴生郷)戸籍には、「不破勝
              族 金麻呂」とあるようですから、淳武氏の不破勝賜姓は、7世紀最末期であろう。}とも記述されていた。

               この上記戸籍の不破勝族の者は、いつ頃からは、不明ですが、もしかすると壬申の乱前後頃からかも知れません
              が・・、美濃国加茂郡埴生郷に居住している。各務郡の各務氏とは、別系統の近い関係の者であったとも取れましょう
              か。

               更に、大宝2年 各務郡中里戸籍には、「小領務 正七位上 各牟勝小牧 主帳務 正七位下 勝牧夫」の記載があ
              る。小領 各務勝小牧の下に、主帳として 勝牧夫の記載。この末裔が、勝野氏に繋がる可能性はないのであろうか。

                              さて、インターネット上には、江南市在住の木曾義仲の末裔の方でしょうか、その方のHPが存在している。
               それによると、「江南市にも、村国神社と書かれた石柱がある。」といい、現在は、「熱田社」と呼ばれているとか。そ
              の方の家にあった古文書では、木曽氏の末裔は、江南の村久野に居住したようであるという。
                詳しくは、http://www.tcp-ip.or.jp/~syaraku/murakuni.htm を参照されたい。         

                         目次へ                               平成26年12月19日  脱稿
                                                             平成26年12月26日一部加筆