古代の水上・海上輸送に使われた舟・船についての覚書
1.はじめに
弥生期であろうか、私がはじめて水上の移動に使われた舟についての記述に出会ったのは、尾張国内の式内社
について調べていた時でありました。
佐織町史にその記載があることを知りました。
佐織町史には、「天保9年4月、満成寺裏のため池から45尺ばかりの鰹節型の大木が見つかり、堀出すと、楠の
木を以って、製作せし繰船であったという。」この諸桑村でみつかった船は、往時最も利用された交通機関であった
のであろうか。という一文であります。
この件について詳しくみてみると、江戸期末(天保期)に発見されたこの古船を見ようと多くの見物客が集まり、押
すな押すなの騒ぎ、果ては市(市場)もたったという。相当多くの人々が、見たという。その当時の様子を知らせる瓦
版(新聞)も現存しているとか。
詳しくは、http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/ja/tande_report/1993/ishida1993.pdf を参照されたい。
同上のpdfからは、出土した諸桑の古船は、およそ長さ60〜80尺(約18〜24m)、巾5〜7尺(約1.5〜2.1
m)という非常に大きな船で、閂(カンヌキ)式の複材刳船の構造を有していたと推測できると記述してある。
更に、この古船の出土地が、満成寺と鈴木家の田にかかっていた為、二分して所有していたとも。その古船の木片
は、現在も残存しているようで、名古屋大学で、C14年代測定がされたようです。材質は、楠の木カ。
A 鈴木家の木片の一つは、7〜9世紀頃に新旧の各材を利用して造られた船の物
B 鈴木家の別の木片からは、弥生中期頃に造られた船の物
C 満成寺1ヶ・鈴木家3ヶ合わせて4ヶの木片は、各々異なった船の木片であろうと。
2.縄文期の水上の移動
浅瀬は、徒渉(徒歩 カチ)でありましたでしょうが、水深のある所は、初歩的には筏(竹・丸太材の集合体)を利用
したのではないか。こうした筏は、材木舟とも言われ、中国 済州島・日本では対馬にあった。
「対馬の筏(材木舟)は、杉丸太を7本、角材にして組み、前後二箇所にカンヌキ穴を開け、樫の栓を貫通して連結、
舳先(ヘサキ)を少し尖らし、艫(トモ)に櫓(ロ)を備えて漕ぐ。済州島の物は、構造原理は同じで、角材は9本、太さも
長さも一回り大きい。」(海人たちの足跡 白水社版 P.226参照)
角材を使用している点 鉄器を利用出来るようになった頃の筏(材木舟)の残存であろうかと。
「更に筏舟と共に太古から造られたのが丸太を刳(ク)り抜いた丸太舟(刳舟)があった。舳(ヘサキ)を尖らせ、艫(ト
モ)を丸くした形。推進力はあるが、転覆し易い難点があった。
そこで安定性を求める舫(モヤイ)舟。舟を並べる。いわゆる2艘連結が考案されたという。
そして刳舟(クリブネ)は、更に大型化したという。材質は、かやの木が使用されたとも。石器で造るには柔軟で削り
やすく、杉の木のようには、裂けにくい利点があったという。」(同上 P.227〜230参照)
大型化は、縄文晩期から流通圏が拡大した事や海の道が長くなっていった事と関わっているのであろうと。
3.弥生時代の船
南北シテキが、本格的になった弥生時代の船の構造は、土器・青銅器に描かれた船の図文でしか知られないと。
「海人たちの足跡」の著者は、弥生期の船に近いのは、現在でも中国 華南の地で使用されている竜船の競漕(
ペーロン)と同様な物ではないかと想定されているようであります。
* ペーロン船の遺制を残す長崎のペーロン祭り 参照 ( http://pe-ron.kikita.net/history.htm
)
古代の遺物の土器・青銅器の図は、鳥取県淀江町出土の弥生中期の土器片から、或いは奈良県磯城郡田原本
町の唐古・鍵遺跡等の同じく弥生中期の土器に竜船型の船の図が。
壱岐勝本町のカラカミ遺跡からは、胴部に竜船風の船文の弥生後期の土器が。散見出来るという。
上記の弥生期の遺跡から見出された土器片の船図から即座にその当時の日本での船建造と捉えてよいもので
あろうか。交易をした大陸等の船である可能性もありはしないかと。危惧する。・・私の危惧。
そして、氏は、船の進歩は、筏舟ー>刳舟ー>複材刳船(半構造船)−>準構造船ー>構造船であろうと。
そして、氏は、複材構造船は、弥生時代には使用されていたと。
確かに、旧 佐織町で発見された天保9年の刳船は、閂(カンヌキ)式複合刳船の可能性が高い。弥生中期頃の船
でありましょう。
こうした伝統は、中世まで継承されていたのであろう、北陸若狭のトモブネ、能登には、ドブネと呼ばれた複材型
刳舟があり、鉄材を使用せず、木釘や木のカスガイで接合し、接合面に漆を塗って仕上げていたと。
こうして使用された木造船は、泥湿地等に洪水等で埋もれた物のみが、残存できたようで、大抵は、残りにくいよ
うだとも。
4.むすび
とすれば、愛知県旧佐織町諸桑から出土した古船は、閂式複材刳船と推測されるようで、C14年代測定の一つ
弥生中期の物であろうか。pdfでは、明確な事柄は述べられてはいなかったが・・・・。
ところで、諸桑の古船の閂(カンヌキ)は、何に使用されたのであろう。船を連結する為の穴跡ともとれましょうか。
これだけの大型複材刳船を連結すれば、海洋航行も可能であったかも知れない。河川では、連結部分を取り、単
体運用であったのであろうか。弥生中頃の事柄でありましょう。
鉄器による のこぎり・鉋(カンナ)・チョウナ等の諸道具が出揃う頃には、飛躍的な進歩が造船技術にも現れてきた
のでしょう。古墳時代からは、相当の準構造船が建造できたのではないかと。その事例として、氏は、下記のように
記述されていた。
「5世紀の宮崎県西都原古墳から出土した船型埴輪は、準構造船として知られている。」(同上 P.235〜236参
照)と。
そして、古墳時代後期には、鉄器による諸道具が普及(6世紀以降カ)し、構造船建造が可能になっていったのでは
ないかと。
セント君で有名になった京城の展示があった時、一角に遣唐使船の実物大の模型があった。この船が、構造船と
言われた船でありましょう。7世紀頃には、海上航行の船へと進化していったのでありましょう。
しかし、こうした構造船でも、海上の天候次第では難破の危険と隣り合わせの航海であった事は、周知の事柄では
ありましょう。