主に中部地方における東山道の経路についての覚書 

            1.はじめに
               古代の道は、主に朝廷の人々が、使う道であり、一般庶民が使っていたとは思えません。が、大化以後は
              雑徭等の為の行き来に使ったかと思われます。

               東山道として記述されているのは、多くは、延喜式(平安中期に編纂された格式)東山道 であるようです。
              この 東山道(東の山がちな国という意カ) は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国からなり、
              幹線路として駅家が設置されていたようです。道は、律令以前の現在の国という概念を持った使用であろうか。
              
               * 例証として先代旧事本紀 第十巻 国造本紀に現れる某道某国造という名称をあげてみえる。
                  例えば、美濃の場合
                   3つの国造名が記載されている。美濃前国造・美濃後国造・斐陀(ヒダ)国造。
                   古訓読みで、美濃前(ミノミチノクチ)国造とか、美濃後(ミノミチノシリ)国造と。正確には、美濃道前であるのか、
                                        美濃道後という記述が正しいのかも知れない。国造本紀が記述された頃は、「道」という政治的領域概念
                                        が薄れてきていたのかも知れない。遺制として古訓読みに残存する程度に・・。*

                 1)幹線路は近江勢多駅から陸奥国府を通って、胆沢城に至るルートである。
                 2)また支路として
                   ・出羽路―陸奥柴田郡から分岐し、出羽国府を通って秋田城に至るルート。
                   ・飛騨路―美濃から飛騨国府に至るルート。
                   ・北陸路―信濃から越後国府に至るルート。                

               上代駅伝の制度は、大化改新以後、漸次整備され、大宝令に至って詳しい規定が設けられた。奈良京都を
              中心に放射状に、山陽道を大路、東海道・東山道の二道を中路、その他の諸道や支道を小路とし、各道いず
              れも三十里(今の五里)に一駅をおくのを原則としたが事実上ほとんど原則に従っていないのは後年における
              駅家の改廃や再興と共に、駅制が実際的に運営されていたことを物語る。駅家の任務は、官吏のために人馬
              を継立て、宿食を供することにあった。大路の駅には二十匹、中路十匹、小路五匹の駅馬が常備されることに
              なっていたが、交通量を考えて国司がその数を増減することも出来た。駅は中央では兵部省が管轄し、地方で
              は国司が管轄していたという。

               この東山道は、いずれも山岳地帯を通る峻険な道で、冬期では危険かつ苦労が多い難路であったようです。
               「延喜式」巻第二十八「兵部省」「諸国駅伝馬」の条において各地に駅家が設定された事が記されているという。
              
                さらに「延喜式」には伝馬の規定が残っている。駅馬が中央と国府を結ぶのに対して伝馬はそれを受けて国
               庁から各郡家、あるいは郡家相互間の連絡に利用されたと考えられる。通常中路である東山道では各駅家に
               馬十匹が配置される規定となっているが、信州においては阿知駅には神坂峠の難路のために三十匹・錦織〜
               浦野間は保福寺峠の険路のために十五匹・長倉駅は碓氷越えのために十五匹と基準より多くなっている。こ
               の反対側の上野国坂本駅も十五匹となっていたという。

                この延喜式東山道の駅家の具体的位置の唯一の手掛りは「延喜式」記載の駅家名を示す地名のみだけで
               ある。
                駅家の位置を推定するにはある程度の想像的要素が必要になる。駅にはかならず飲用・生活用水・馬体を
               洗うために水が必要不可欠であるので水の存在、そして駅家を設置する程の平地を有すること。また、現存す
               る字名から推定するといった方法である。当然この東山道は国府へ通じる道であったので、国府の位置という
               のも重要になってくるという。

                さて、東山道の駅に指定された所では、一般の人々は、駅が設置されると駅戸・駅子に編成され、駅使の荷を
               負い、隣駅との間の送迎に従事させられた。駅子は徭役を免ぜられていたが、さらに駅馬の飼養、駅田耕作など
               の過重の課役を強いられ、多くの駅子が逃亡したという。八世紀を過ぎると、本来駅伝制には貨物輸送という機
               能はなかったが、剋外増乗・乱乗・駅乗範囲の拡大の他に貨物輸送の増大といったことが増え始め、律令東山
               道自体のシステムが矛盾と共に衰退していったようであるという。

            2.延喜式(令制)東山道の経路  
               延喜式東山道以前(大化以前)の東山道を古東山道と呼ぶようであります。

               延喜式に記述されたルートは、不破の関(近江国)を過ぎて直ぐに不破駅、揖斐川沿いの大野駅、岐阜市街地の北
              に方県駅、各務駅、木曽川(鵜沼の渡し)を越えて、犬山へ、そこから山越えにて可児駅。土岐駅、大井駅、坂本駅。
               そして、神坂峠を越えて行ったようであります。
               上記の記述は、完全踏破 古代の道ー畿内・東海道・東山道・北陸道ー 吉川弘文館刊 2004年版によります。
           
               令制東山道の大野駅は、上記著書によれば、現 揖斐川と根尾川が合流する北側 大野町下磯を比定されている。
               そして、片県駅は、大野駅の東、現 長良川右岸寄り現 岐阜市長良とされていた。その後東山道は、対岸の日野
              へと日野の渡しを渡り、金華山と船伏山の間を一路鵜沼の渡しへと向かうと。

               木曽川は、令制東山道があった時には、犬山からもっと北側、現 名鉄各務原線が通っている辺りを流れていたので
              はないでしょうか。その名鉄線の北側(美濃側)には、古墳が、やたら多く、名鉄線より南には、ほとんど古墳が存在し
              ていないようで、その当時、河道であった流域と考えられるのではないかと推察いたします。天正期に木曽川の流路が
              変わって、現在の位置になったという。かって、この旧 木曽川流路は、かなり広い幅を持ち、広野川と呼ばれていた事
              は、下記国史の記述から知られる事ではあります。

               広野川の流路は、幾筋もの流れであったのか、主流路は、奈良時代以前では、現在よりもっと北側であり、現在の流
              路は、派流であった可能性が高い。

               その例証は、以下の記述を参照されたい。
              「続日本紀」神護景雲3(769)年9月8日壬申条に、尾張と美濃の境にある鵜沼川(流れる流域により、広野川とも、
              墨俣川とも、尾張河とも呼ばれていたようです。・・筆者注)が氾濫し、尾張国の葉栗・中嶋・海部三郡に及び、農民
              の田宅を浸水させるに至った。このままでは下流の国府・国分二寺も被害にあうとして、尾張国は中央政府に解工
              使の派遣を申請している。

               この当時の河川は、現代のような大規模な堤防を築造する事は不可能で、自然堤防を補修する事で河流を維持
              していたようで、台風・豪雨でたやすく氾濫し、分流を形成していた。氾濫の被害を美濃・尾張国のいずれが蒙るか
              は時々の状況によったようで、対立は激しかった。

               「続日本紀」宝亀6(775)年8月22日条には、伊勢・尾張・美濃三国を異常風雨が襲い、三ヶ国の被害は、百姓の
              漂没するもの三百余人、馬牛千余頭に及び、国分寺をはじめ諸寺では、破壊されたもの19基に至った。と記述され
              ていた。そして、9世紀後半頃になると流域の状態がかわり、美濃国側ではなく、尾張国側へと流れの本流がかわっ
              たようであります。その為の工事が行われ、美濃側の工事襲撃に繋がるという。(上記記述は、東海の古代@ 美濃・
              飛騨の古墳とその社会 八賀 晋編者 同成社 2001年7月発行 P.183からの抜粋であります。)

               9世紀後半の出来事は、以下の記述を参照。
                「貞観7(865)年の12月7日条(三代実録)に、尾張国と美濃国の国境を流れる 広野川 の中洲に土砂が
               堆積し、流路が尾張国側に変わった。その為尾張国側に、降雨のたびに大きな被害が出るようになり、河口を
               掘り開いて、昔の流れに戻す工事を太政官に申し出て、裁可された。
                ところが、翌年の7月9日・7月廿日・7月廿六日の条(三代実録)に、美濃国 各務郡大領 各務吉雄・厚見郡
               大領 各務吉宗等が、歩旗700余人を率いて工事中の所を襲撃。役夫 中嶋郡人 磯部逆麿(イソベサカマロ)等
               三人を射殺。
                この事件後も、人夫数百人を率いて工事の倉を壊し、河の水を尾張側へ流し、堀り開いた所へ砂石を運んで
               埋め、その後も百余騎を率いて河の側を見張った。」という。こうした反乱の首謀者であった為、無姓で記述され、
               勝(姓)が省かれただけであろうと。首謀者への懲罰は、うやむやにされ、国司の交代で終わったという。
        
               以上の国史に記述された事柄から推測出来ましょうか。

                              現 境川が流れておりますが、「この境川が、令制東山道があった頃の旧 木曽川(当時広野川というやたら幅の広
              い河道を持つ流域)の流れの北端であり、本流筋でもあったのでしょう。」( 犬山市史 参照 )そして、この境川とい
              う名は、延喜式当時のいわずと知れた美濃と尾張の境を決めた河川でもあったのでしょう。とすれば、奈良時代以前
              は、尾張の範囲は、もっと美濃寄りにあったともいえましょうか。
 
               木曾川という名称は、江戸期になって始めて資料に登場するという。
               かっては、現 木曽川の流路もあったのでしょうが、本流は、もっと北側の旧流路を流れ、一部の流れが、現 流路を
              流れ、木曽川左岸には、その流れが、派流となって、1.2.3.4之枝川から8つ位はあったとか。木曾八流とも言われ
              ていました。そして、濃尾平野を流下していた。奈良時代前までは穏やかな流れであったという。それ以後本流の流れ
              が一部変わり、流量も、水量も多くなったようで、派流域では、洪水の危険にさらされる様になったという。尾張国分寺
              は、その派流域に建てられたようであり、現 稲沢市矢合付近の苗木畑内に礎石が残っていると言う。元慶8(886)年
               焼失したという。別の場所に国分寺は再建されたようですが、この寺も洪水と共に流失したと思われます。この木曾川
                            派流については、下記 拙稿をあわせて参照下さい。
                 (  縄文期・弥生期・古墳期に於ける 木曽川本流及び派流についての覚書 )

                        3.奈良・平安時代の東山道の道幅
              列島の古代史 4 人と物の移動 岩波書店 2005年版 「道と駅伝制」 中村太一氏の論述には、現在の発掘成果を
             ふまえた古代の道路のまとめが載っている。
              それによると、「奈良時代の駅路では、9〜12m、特に12m前後のケースが多い。平安時代の駅路やその他地方官道
             の場合は、6m前後ないしそれ以下であったという傾向を指摘することが出来る。」(道と駅伝制 P.19参照)と。

              更に、「畿外に於ける幅12m級の駅路網は、おそらく天智朝頃に建設され、それは少なくとも九州から関東地方にまで
             及んでいたと考えられる。」(前掲書 P.20参照)とも述べられています。

              同書では、「8世紀末〜9世紀初頭を境に道路の属性が大きく変化する。」と、「この変化以前を”前期駅路”、変化以後
                          を”後期駅路”と呼ぶとすれば、前期駅路は、幅11m前後で、国府等を真っ直ぐに目指す道、後期駅路は、幅6m前後で、
                          郡家等地域拠点も結ぶ道、と整理する事ができるだろう。」と。

              前掲書の筆者は、「後期駅路への変化は、前期駅路が崩れたものと理解出来なくもない。しかし、この一連の変革が
             同時期に行われている点などから、後期駅路もまた意図的・計画的に導入されたとみる方が正しい。」(前掲書 P.23
             参照)と述べられている。

              また、氏は、前期駅路については、河川には、橋を架けなかったと記述され、物流・人流への配慮より、幅10m強の
             直線道路となし、国家の威信の発露であったのではともされており、後期駅路からは、物流・人流への配慮、及び幅を
             狭める事により、経費上の対策等が計られ、実用的な傾向が見られるのではという見解であるようです。

              氏の見解は、現在までに発掘された駅路等の考古学的見地の入った事柄ではあります。残念ながら、この見解の元
             となった駅路の発掘は、九州・畿内・山陽道が多く、東山道・東海道といったその当時の主要駅路ではない発掘は、未
             完であり、まだまだ、文献による概説が、東山道・東海道では、主流ではありましょうか。
                            推定の粋を出ていない事柄ではありましょうか。

                                                            平成27(2015)年3月1日 脱稿

               付記
               令制東山道以前にあった東山道は、古東山道と現在呼称されているようですが、美濃・尾張地区に限って言えば、
              上記 完全踏破 古代の道 吉川弘文館刊 2004(平成16)年版にも、一部記載がされている。
               それによると、竹谷勝也氏による「美濃国西部における広域条里の再評価と計画道」(人文地理学会大会研究発表
              要旨 2003年)説で、近世中仙道赤坂宿から古東山道は、令制東山道が、北東へ行くのに対し、中仙道と同様に東
                           へまっすぐ進んでいたと記されている。
                              奈良時代以前では、現 杭瀬川が、かっては揖斐川本流であったとも言われ、赤坂宿には、昼飯古墳(美濃随一の
                            前方後円墳)が存在している。

               「日本古代の道とちまた」を著された前川晴人氏は、令制以前 国造制下 美濃地域は、政治的領域として大和王権
              は、美濃道(政治的領域)として把握し、美濃道にも、かっては、1道1国造制があったかのような記述もある。
               とすれば、赤坂宿の古墳は、その地域の最大の支配勢力の標しともとれましょうか。尾張氏による熱田 断夫山古墳
              に対比出来得る古墳ではなかろうか。
                 
               「尾張は、1道1国造制のまま存続したようですが、美濃道は、結局3国造へと分割され、斐陀・美濃前・美濃後国造
              になったと旧事本紀 国造本紀には、記述されている。」(拙稿 律令制以前の行政区分についての覚書 参照)

               国造本紀には、美濃前国造は、美濃国本巣郡の地であったかのように記述されている。美濃後国造は、地域不詳と。
               壬申の乱時、「大海人皇子に加勢した牟義(ムゲ)郡国造出自の身毛君広(ムゲツノキミヒロ)。」(井上光貞著 壬申の乱
               P.470 参照)がいる。現在の長良川支流板取川流域から長良川中流域 関市近辺を支配していた地方豪族でしょ
               うか。この辺り一帯が、美濃後国造領域であったのであろうか。本紀の記述を認めればですが・・・。村国男依は、壬
               申の乱前後は、各務原一帯の豪族でありましょう。

                また、「一説には、村国氏を蘇我倉山田石川麻呂の一族系統と示唆される方もあるようです。蘇我倉山田氏は、蘇我
               一族であるようで、長い苗字は、蘇我・・父の族名 倉・・父の母系族名 山田・・石川麻呂の母系の族名とか。大化の
               改新以降の 石川麻呂は、右大臣 中臣鎌足は、内大臣であったようです。蘇我入鹿は、石川麻呂とは従兄弟関係で
               あったとか。」( 上記見解は、http://akon.sakura.ne.jp/jinja/isikawa.html 参照 )
        
                とすれば、山田氏が、この辺りの在地の豪族であった可能性が高く、確かに境川南側一帯は、広大な低地であり、そ
               こは、各務山の北側に当たり、苧ヶ瀬(オガセ)池は、各務山の南東辺りと為る。苧ヶ瀬池から境川方向へ車で向かえば、
               現在は、各務山東斜面をおがせ街道は通っていますが、旧道は、山斜面の最下部を迂回しながら進んでいた。低地で
               あり、斜面上を通った道と直ぐに繋がっていた。何らかの流路とも推測出来そうです。壬申の乱を契機として村国氏は、
               尾張国 尾張連大隅と連携し、在地に尾張氏系の祭神を祀ったのではなかろうか。

                蛇足ではありますが、村国氏の故郷は、やはり、尾張国側の現 江南市村久野であったのではなかろうか。そうでな
               ければ、村国氏が関わった音楽寺創建地を村久野の地にする必要も無かったのではなかろうか。
                或いは、尾張国側の現 江南市村久野辺りは、「飛鳥時代には、木曽川派流域でありますが、本流は、現在より北側
               を流れ、穏やかな流れであった。」(一宮市史 通史 参照)とも記されており、危険度が少なかった可能性が高い事に
               よるのかも知れません。

                その後、村国氏の領域へ、関ヶ原近くの垂井に本拠を置く不破系一族の傍系 各務氏が、村国氏衰退後は、この辺
               りまで進出して来た可能性が高い。それが、三代実録の9世紀頃の各務氏の記述でありましょうか・・・。
                                尚、付記すれば666年 百済人2000余人を東国に置くなる史実。美濃国垂井・各務原一帯に存在している不破氏・
               各務氏等は、この頃移住してきた氏族ではなかろうか。
                最古の戸籍が残る美濃国の戸籍の分析では、ある地域には、全住民の半数近くが渡来人であったという記述もあるよ
               うです。詳しくは、拙稿 壬申の乱に出てくる身毛君広(ムゲツノキミヒロ)について を参照されたい。
               
                                                              平成27(2015)年3月7日   記載
                                                              平成27(2015)年10月27日 加筆