壬申の乱で活躍した尾張連大隅について
1.はじめに
既に拙稿にて尾張連氏については、概観しているのですが、壬申の乱頃の尾張国での尾張連大隅は、律令体
制下では、国造格ではなく、中央から派遣された国守(この当時は、小子部さひち)の下の郡司格であったのでし
ょう。
しかし、まだまだ律令制の草創期であり、旧来の国造的な勢力を持ちえた存在として甘んじて郡司(郡家)的な
働きを受け入れていたと思われます。継体朝では、尾張連の本家筋は、畿内に居住したと思われますが、継体
天皇崩御後は、継体天皇の皇后(武烈天皇の娘)と蘇我氏に実権を握られ、衰退し、在地の一豪族としての地
位に甘んじなければならない状況になっていったのではと推測いたします。
そうした状況を日本書紀 宣化天皇紀条にみることができる。「日本書紀には、宣化天皇(継体天皇の息子であり
ます。)元(535)年 宣化元年は、536年であったかもしれませんが・・。朝鮮半島より来朝する使節の饗応と飢饉
に対処する為、九州は、那津(なのつと読み、福岡市博多港の古名)に官家(みやけと読み、大宰府の前身カ)を造
り、一部の皇室直轄領(屯倉)の穀(もみ)を大臣、大連らは、連等に命じて運び込ませよ。と命じられた。という詔」
が、記述されており、ここで、関係する文言は、「蘇我大臣稲目は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばし
むべし。」という一文のみで充分でありましょう。
尾張連氏は、既に尾張国に土着していて、尾張連本家は、畿内へ出仕していた可能性もありますが、皇室直轄領
(屯倉)の穀を運ぶように命じられたと解釈すべきでありましょう。
この日本書紀の記述は、5世紀以前、既に尾張連氏は、尾張国が本拠であり、536年に、尾張国にある屯倉の穀
(もみ)を尾張連(尾張連草香カその長子 凡カ・・筆者注)に現 博多港へ運ぶように蘇我稲目を通して命じさせたとい
う事で有りましょう。
参考までに、蘇我稲目とは、蘇我馬子ら4男3女の父ではあります。
また、尾張連氏に関わる系図が、インターネット上にもありますので、参照下さい。尾張連考なる記述であります。
( http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html 参照されたい。)
2.尾張国 尾張連について
新修名古屋市史では、尾張連氏の系図は、乎止与(尾張国造)ー建稲種辺りからが実在したのであり、それ以前
の系図は、尾張連草香以降の創作であると断言されていました。
*参考までに「新修 名古屋市史第1巻では、結論のみを記述すれば、尾張氏の系図には、オトヨ(11世)タケイナ
ダネ(12世)は、実在。それ以前の天皇家との繋がりは、尾張連氏が、継体天皇の外戚となって以降の内廷経験か
ら創り出された出自であると。当然 タケイナダネには、妹はいない。ミヤズヒメも創り出された人物であると。
尾張の物部氏の系図も、途中から尾張氏の系図を借用しており、物部氏は、当然 尾張氏と物部氏は、同族関係
にしてしまったという。」
尾張の物部氏は、衰退し、尾張氏は、日の出の勢いで有った為でしょうか。*
宣化天皇元(536)年頃には、尾張連氏は、伊勢湾を含む海運等を積極的に進めていたのでしょう。日本沿岸の
湊の豪族には、尾張氏と何等かの繋がりの系図を持つ一族が、多く存在しているという。
*
参考までに、水野時二氏は、「尾張氏は、畿内、美濃、飛騨、越前、近江、丹波、因幡、播磨、備前、紀伊、伊予、
豊後の地に広く分布していたと述べてみえる」(犬山市史 参照)*
上記 尾張の物部氏と同様に日の出の勢いの尾張氏の同族を装う事をいたしたのでありましょうか。海運関係等で
の繋がりを想起いたします。
尾張連氏は、尾張連草香なる人物、乎止与から数えて、6代目となりましょうか。尾張連大隅(生まれは不詳ですが、
没年には、諸説あるようで、天武5<676>年とも、大宝律令施行後とも・・筆者注)は、10代目と言えばいいのでしょう
か。
本家筋を尾張連草香とすれば、草香の子として凡(オオと読み、長子カ)・目子媛( 凡の妹 継体天皇となる前から
の正妻カ)であり、その目子の子は、二代に亘って天皇として即位したと書記は、伝えるが、朝鮮半島百済国滅亡の為
移住してきた百済の王族貴族が持参した本国の史書を再編集した百済三書の一つ「百済本紀」では、継体天皇と同時
期に崩御という記載があるという。
畿内の本家筋は、そこで途絶えたのでしょうか。長子の凡氏についてのその後は、不詳。(凡氏については、太安万
侶の「古事記」には、”尾張連等の祖、凡氏の妹 目子媛”として記載あり。)
尾張連大隅は、新修名古屋市史では、尾張連氏の本家筋と記載されているようです。在地に残り、勢力を維持してい
たと思われます。そして、大隅の本拠地については、熱田社のある愛智郡と想定している。
その前に、壬申の乱(672年)時、大隅は、関が原辺りに別業(別荘)を持っていたとも言われ、その近くの野上には、
尾張氏と同祖の伊福部氏も存在しており、陸運・水運をも使い、幅広く交易に従事していた可能性を推測いたします。
交易をするには、平安期では、山海湖河等を自由に移動しなければならず、そうした身分は、後の神社等の神人が、
引き受けていたと網野善彦氏は、多くの著書で述べてみえることは、周知の事柄ではないかと。
とすれば、大隅は、既に系図からも推測できましょうが、熱田大宮司職となり、その子 稲置からは、代々宮司職
を引き継ぎ、平安期頃に、藤原不比等の末裔一族と尾張氏の娘が婚姻し、藤原氏に熱田大宮司職を譲ったようで
あります。大隅以前までの宮司職はどのようになっていたのでありましょうか。或いは、大隅が、熱田宮司の初代と
推測できましょうか。
熱田社の創建は、拙稿にも記してありますが、その部分を抜粋すれば、以下のようになります。
「草薙の剣 盗難事件が起こるようであります。
{日本書紀 天智天皇紀には668年(天智天皇7年)のこととして、「是歳。沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。而中路
風雨。荒迷而帰」(この年、僧道行が草薙剣を盗んだ。新羅に向かって逃げたが、その路の途中で風雨が荒れ、迷
って帰ってきた。)と記載されている。}ようであります。
盗んだ僧は、道行。捕われ、惨殺されたとも、知多半島の洞窟牢に幽閉されたとも聞く。実際は、牢に入れられた
が、天智天皇の病気快癒に寄与したと言う事で、許され、知多半島で寺を創建したという。
この草薙の剣盗難事件の本当の首謀者は、何と あの天智天皇その人であったとか、なかったとか。
そのように言われています。しかし、この話は、実話でなく、天武天皇が、強権を持って、尾張より取り上げたのが、
真相であるという。そうした事柄を隠蔽するために、1世代前の天智天皇に罪を着せたのが、史実であるようだという。
宮中に草薙の剣は、安置されたかと。その天武天皇が病に掛かられ、それが、草薙の剣の祟りであるとされ、直ち
に熱田の社に戻されたと言うことのようであります。それが、朱鳥元(686)年あるいは、天武15(686)年とも言う年
であり、その直後に、熱田神社制度が、確立され、草薙の剣を祀ったようであります。
それ以後は、草薙の剣は、熱田神宮に安置されているようであります 。」
朱鳥元(686)年あるいは、天武15(686)年頃に、熱田社は、確立した可能性が高い。三種の神器の一つ、「草薙
の剣」というお墨付きを与えられて。壬申の乱(672年)が起こってから既に14年程経過していたのでしょう。大隅或い
はその子 稲置から宮司職制度が確立していったと理解しても時代の辻褄は合うように思えますが・・・。
さて、壬申の乱以降の尾張国での尾張氏の動向は、郡司としての大領職についている場合が多いように思われま
す。
「壬申の乱では、尾張連一族は、こぞって大海人側に付いたようです。特にめざましい活躍者は、尾張連大隅・尾
張連馬身(マミ)でありましょうか。
その後八色の姓制{天武天皇が684年(天武13)に新たに制定}で、壬申の乱の活躍者には、宿禰姓が与えられ、
大宝2(702)年 尾治(張)連子麻呂・牛麻呂に宿禰姓を持統太上天皇の最後の行幸の尾張国で与えている。
しかし、大隅・馬身・子麻呂・牛麻呂等の尾張での本拠地は、明らかではないようです。
大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
「和銅2(709)年 外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・大隅直系 海部直祖カ
(私の注)
天平2(730)年頃
春日部郡大領 尾張宿禰人足(ヒトタリ)
参考までに、郷土誌かすがい 第4号内に 「春日部郡の豪族と古
寺址」と題して久永春男氏の論述があり、「春部郡を本貫としたこと
の確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡
であります勘籍(カンジャク){中巻 平成9年版 P.539 下段 参照}
に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下
尾張
連孫戸口
という記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の
位階である。という記述もある事を付け加えておきます。
* 勘籍とは、「8世紀初めに大宝律令や養老律令が制定されたことで完成した律令体制下、戸籍をさか
のぼって身元を確認する行政手続き。官人の登用や僧侶になる場合に実施され、確認ができれば課役
負担を免除された。犯罪で刑罰を受ける際にも行われた。10世紀半ばまで制度として存続したとされて
いる。」とか。*
天平6(734)年頃 海部郡(アマグン)郡領(?) 尾張連氏一族」
(以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )
8世紀半ば頃(聖武天皇治下)
中嶋郡大領 尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より
{
こうした事例は、時代は、下りますが、仁和元(885)年12月、春日部郡大領であった 尾張宿禰 弟広が二人の
息子の庸調等を前納する申請をし、許可されるという事にも現れている。
この弟広は、「編戸の民、肩をやすむるの地なく、骨肉の情、涙を収むるにたえず。」と言う位過酷でありましたが、
負担が重いとはいえ、郡司ともなれば、それを前納できる財力は有していたようであります。
神護景雲2(768)年に尾張国山田郡人 従六位下 小治田連薬等八人が、尾張宿禰 という姓(かばね)を得て
おり、弟広は、その後裔かとも記述されておりました。} (小牧市史 通史 P.72 参照)
でありますが、この尾張宿禰 弟広は、天平2(730)年頃の春日部郡大領 尾張宿禰人足(ヒトタリ)の末裔では、
なかろうか。(付記 律令制下では、同一郡内に一族の者を登用しない取り決めがあった可能性は高い。・・筆者注)
このような記述を読むに付け、尾張氏の系統は、本家筋が、累代続いていくのではなく、傍系へと代わりながら
代々尾張氏を名乗っていくのではないかと推察する事も出来ましょうか。まるで、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)の
物部氏の系譜と類似しているように思えてならない。
以上の推論から、尾張連大隅は、尾張連草香が本拠とした熱田台地を本拠にするようになった豪族ではなかっ
たかと。
愛智郡に本拠を置き、海運・水運・陸路等での交易も行い、利益を得、交易の重要拠点に、別業を持ち、在地の支
配権を有していた旧来の国造的郡司層の名残りを内在させていた一員であったのではなかろうか。
壬申の乱では、大隅は、大海人皇子の行宮やら軍資金の供与もしたとも伝わり、武人ではないかのような記述も
あります。尾張連系の村国男依は、実質の将軍として、大津宮へ侵攻し、大海人側の勝利に貢献した事は諸氏の
壬申の乱についての著書に詳しい。
それ故、壬申の乱では、尾張国守 小子部さひちは、中央の意向と尾張国在地郡司層(尾張連大隅・馬身)の板ば
さみにあい、結局自らの意思で、結末をつけたのでしょう。拙稿にも、そうした事柄については、記述しております。参
照されたい。 律令制に伴う 国府 成立時の悲劇− 尾張国府の成立を通して −
蛇足ではありますが、大海人皇子の乳母は、尾張国在住の凡海(大海)氏であることから大海人皇子と名づけら
れたという。尾張連氏の配下の一族であるというが、史実であるかは定かであろうか。
3.むすび
継体天皇にしろ、在地豪族にしろ、畿内に存在する伴としての畿内豪族(現代的に言えば、キャリア層)に、在地豪
族(現代的に言えば、ノンキャリア層)は、太刀打ち出来ない現実が存在し、これだけの活躍にも関わらず、村国氏は、
中央貴族の末席が指定席という事に推移したようです。恐るべし畿内キャリア層と云うべきかもしれません。
付記
参考 「古代の謎 抹殺された史実 物部・葛城・尾張氏と東海のかかわり」 衣川真澄著 株式会社パレード版 2008年
氏は、歴史学者ではありませんが、エンジニアであり、システム思考・戦略思考なる手法にて、歴史学上では、未定の部分
に大胆な思考にて辻褄をあわせつつ、解読されているようです、
この記述を読まれた方は、あくまで参考所見として理解して頂きますように!!!。
・ 氏の推定される尾張氏系図
多多見(草香)−凡 −安野 −島 −甕辺
| | | |----------------------馬身
目子姫
真隅 高屋 小張王 | |----
大隅------ 乎己志
| | (推古と敏達天皇
| 手島女王 若子 稲主
継体天皇 山於 の間に出来た娘)
| | 宇志
稲置
|位奈部|
橘王 |
|ー
用明天皇の子
*
気になるのは、「大宝2(702)年 尾治(張)連子麻呂・牛麻呂に宿禰姓を持統太上天皇の最後の行幸の尾張
国で与えている。」という記述。馬身と位奈部橘王(女)は、甕辺と小張王の子であろうと言うこと。所謂聖徳太子一
族と繋がりのある手島女王を馬身は、娶っている関係にあるという。
大隅・若子・宇志は、その馬身と手島女王の子であろうと。字体に違いがありますが、大宝2(702)年に子麻呂・
牛麻呂共に持統太上天皇より宿禰の姓を与えられている。子麻呂ー>若子、牛麻呂ー>宇志と対応しているよう
に推測しうる。
尾張に来訪された持統太上天皇は、最後の力を振り絞り、後の災いを取り除くべく三河へと御幸をされた帰り道
と氏は述べてみえる。所謂三河に逃げている天智天皇の嫡子 大友皇子を亡き者とする御幸であると。
天武・持統両天皇は、壬申の乱時、小子部さひち(尾張国守)が、大海人皇子に2万人の兵を連れて参集した点
を高く評価していたが、実は、さひちと三河の豪族は、内々でどちらに転んでも良いように密約をしていた可能性を
さひちが、壬申の乱後自殺をして以後疑念を抱いていた可能性をもっていたのでは・・・。と
大隅も実際には、疑われていた可能性が高い。三河で、大友皇子を亡き者にしての凱旋帰りの尾張国御幸であり、
尾張氏への疑いも晴れ、宿禰授与となったと。既に大隅には、宿禰姓は、与えられていたという。
以上は、上記 氏の推測ではありますが、日本書紀との記述とも整合性があり、拝聴すべき論述ではありましょう
か。*
・ 尾張馬身について
日本書紀には、記述が無く、続日本紀 天平宝字2(758)年4月19日条に馬身は、登場する。
「はじめ尾張連馬身は、壬申の年の功で小錦下になったが、まだ姓を賜わらないうちにその身が早く亡くなった。これ
によって馬身の子孫に等しく宿禰の姓を賜う。」と。とすれば、馬身は、684年以前に死去されたのでしょう。
よって馬身は、八色の姓(684年)が制定される以前に死去していることから、宿禰姓を賜ったのは、尾張大隅である。
続日本紀 持統天皇10(696)年5月8日条には、「大隅に直広シの位と水田40町を与えた。」と。
氏は、壬申の乱(672年)の時、尾張氏の当主は、馬身であり、大隅は、若君であった。馬身は、尾張の本拠に居り、大
隅は、美濃国の野上にあった別業(別荘)に居たとされている。
更に、同氏は、美濃国野上に尾張大隅が居住していたのは、尾張国へ鉄製農具等を大量に作る為琵琶湖西岸の鉄穴(
カンナ 所謂鉄鉱石を掘り出す鉱山)近くで製鉄に従事する三尾氏(息長氏の傘下カ)の鉄挺(原料鉄)で、不破辺りで鍛冶
をさせていた可能性を推測されている。その神社が、南宮社(前身は、仲山金山神社)を祭る集団であったのではと。
野上に居住する伊福部氏は、尾張氏と同族であり、おそらく鍛冶に長けた一族であったのでしょう。伊富岐神社は、その
伊福部氏が祭る社であった。
平成27(2015)年10月24日 脱稿
平成29(2017)年8月15日 一部訂正・加筆