壬申の乱に出てくる身毛君広(ムゲツノキミヒロ)について
1.はじめに
壬申の乱(672年)の端緒は、吉野にいた大海人皇子(後の天武天皇)の密命をうけた美濃出自の舎人(村国男
依・和珥部臣君手・身毛君広)三名であった。皇子の湯沐(ユノ 皇室の皇子に与えられていた食封)邑の地方官(湯
沐令 ユノウナガシ)多臣品治(オオシノオミホムジ)に”郡の兵を集め、不破の道を塞げ。”と。
村国男依については、拙稿 古代 美濃・尾張国 木曽川近辺の村国氏一族と各務氏について を参照されたい。
和珥部臣君手については、不詳。
身毛君広は、井上光貞著「壬申の乱」 P.470より、「大海人皇子に加勢した牟義(ムゲ)郡国造出自の者」であっ
た事が知られる。
2.牟義(ムゲ)郡国造の支配領域について
正確な事柄は判りかねますが、前田晴人著 「日本古代の道とちまた」 吉川弘文館 平成8年版には、「美濃は、
古くは斐陀(ヒダ)を含めていた。」可能性が高いよう記述されていた。
また、先代旧事本紀 第10巻 国造本紀では、既に斐陀は、美濃から分割された形で記載され、美濃は、更に2
分割され、三野前(ミノミチノクチ)と三野後(ミノミチノシリ)となったようであります。本紀は、平安初期には、成立したという。
ブリタニカ国際大百科事典には、美濃には、「牟義郡・三野前・三野後・本巣の国造と鴨・方の県主があったようだ。」
と記す。しかし、本紀には、三野前国造は、美濃国本巣郡の地と記され、三野後国造の地は、不詳と記されていた。
どこまでの事柄が事実であるかは、判りかねますが、本紀の記述を認めれば、美濃の2分割 前・後は、本巣と牟義
の二つであった可能性もありましょうか。
さて、牟義の国造の支配領域は、どこまでを含むのであったろうか。美濃市史 通史編上巻には、4世紀後半から5世
紀の古墳の存在からムゲツ国造の支配領域を「これらの古墳がある旧 山県郡(現 岐阜市北方)、旧 武儀郡域を中
心とした辺りを比定されている。」
また、壬申の乱以降に現 岐阜市関市池尻の地に、郡司 ムゲツ氏の氏寺「弥勒寺(白鳳時代の寺院)」が残された。
現在の武儀郡は、長良川支流 板取川流域とやや間を置いて 上之保村・武儀町でありますが、その間は、美濃市や関
市となっており、それらを含んだ地域であったのでありましょう。更に平安時代(855年)には、郡上郡が、牟義から分離
したかと。
とすれば、かなり広い領域であった可能性が高い。
3.ムゲツ氏とカモ氏
そして、牟義の南東側で接していたのが、加茂郡であり、あの正倉院に残る半布里戸籍(大宝2年 702年 御野国加
毛郡)は、加茂郡域でありました。
「その戸籍から各家の戸主姓をあげれば、
秦人(20戸)、カモ県主族(17戸)、神人(ミワビト 4戸)、カモ県造(3戸)、秦人部(2戸)、不破勝族(フワノスグリゾク
2戸)、物部(1戸)穂積部(1戸)、石部(イワベ 1戸)、守部(モリベ 1戸)以上。
渡来人が、何と44.5%であり、次いでカモ氏に関わる一族が続く。戸籍には、ムゲツを名乗る人名が散見され、その
家族関係を分類すると、
ムゲツを名乗る戸主の妻 4人(カモ県主系 3人 神人 1人) 戸主の弟の妻 3人(全員カモ県主系) 戸主の母(
やはりカモ県主系) 寄人 3人(各1人 カモ県主系・石部・神人) その他 7人。」(「濃飛古代史の謎」 尾関 章著
三一書房刊 1988年版 p。40 参照)
この家族構成から、カモ氏族とムゲツ氏族の間には、婚姻関係が存在している。このカモ氏族の本貫地は、どこであっ
たのであろうか。
岐阜史学 「古代ミノ国カモ県主の初源的勢力基盤について」 1969年 では、「4世紀後半の築造と思われる御隠
白山・御隠御嶽の両古墳、この地が、東濃地方で最も早く開け、そして、後期古墳までを含めて集中分布を示し、後々
まで有力な勢力が存在し続けていた。カモ県主(在地勢力)は、可児地方に存在していた。」のではないかと。
4.記紀等から知られるムゲツ氏について
・日本書紀 景行天皇27年条に
{秋8月に、熊襲亦反(ソム)きて、辺境を侵すこと止まず。(中略)ヤマトタケルを遣わして、熊襲を撃たしむ。(略)タケ
ル曰く「吾は、善く射む者を得(タマワ)りて、與(トモ)に行(マカ)らむと欲(オモ)ふ。それ何処に有りらむ。」或る者「美濃国
に善く射る者あり。弟彦公と曰ふ。」(中略)弟彦公を喚(メ)す。故(カレ)、弟彦公、便(タヨリ)に石占横立(イシウラヨコタチ)及
び尾張の田子稲置・乳近稲置(チヂカノイナギ)を率いて来れり。}なる記述がある。
史実であるかは不明でありますが、何らかの史実が基になった記述とすれば、この熊襲は、どの辺りでありましょうか。
私が知る限りにおいては、熊襲は、南九州地域でありましょうし、蝦夷は、東北地域というのが、通説ではありましょう。
*大和王権草創期の出来事とすれば、かって木曽川の名前の由来を調査していた時、木曽川文庫の学芸員の方から、
一つの説ではありますが、アイヌ語が基になっているのでは・・・。と指摘された事があった。アイヌ語では、一音でも意味
があるようで、「キ」は、険しいだったかと。「ソ」は、激しい流れだったか。現 八百津辺りの木曽川の景観を想定されてい
たように思う。とすれば、かっては、蝦夷は、この辺りにも居住していた可能性はなかっただろうか。憶測以外の何もので
もありませんが・・・・。木曽川の「キ・ソ」は、蝦夷に関わる音が基底にあるのかも・・・。そう言えば、森 浩一氏の著書「
山野河海の列島史」 2004年版にも、蝦夷地区(主は、東北地域)には、蝦夷の地区名の残存が色濃いとも記述されて
いた。*
本居宣長著「古事記伝」等からは、弟彦公は、ムゲツ氏の祖 押黒弟日子王(オシグロノオトヒコオウ)とする説もあるとか。
「石占は、現 三重県桑名市付近の辺りの人であろう。」(濃飛古代史の謎 P.20 参照)と。
上記の書記の記述からは、当時美濃・伊勢・尾張は何らかの連携があった可能性を推測出来る。考古学では、3・4世
紀頃 特殊な土器圏(s字甕)を示す地域がある事は知られている。この土器の原料は、三重県の雲出川流域の物であ
ることは、科学的に調査された事柄ではありましょう。
文献と考古学の成果は、ほぼ符号するように思えますが・・・。
・ 雄略記にも舎人として「身毛君丈夫」が登場する。吉備へ派遣されている人物として。
・ 平城京出土木簡
「牟義猪養」の名が記載された木簡がある。その木簡の裏には、兵衛とあり、彼は、兵衛として出仕した事を示してい
る。律令制下 かっての国造であった氏族は、郡司としてその勢力を保持し、師弟を舎人・兵衛とする規定があった事
と符号する。
*
以上の記述からもムゲツ氏は、古くは、大和王権に服従し、軍兵の役割を果たしていたようにも取れそうです。県主は、
国造よりも早い。貢納関係ではなく、祭祀儀礼での服従を主とした関係でありましょう。それに加えて在地の豪族の娘との
王権に関わる皇族との婚姻関係で繋がりを強めていたともとれましょうか。そうした伝承が、記紀では、大うす(景行天皇
の長子)と美濃豪族の娘との婚姻として記述されているのでしょう。
また、カモ県主の本貫地が、可児であれば、東方の八百津は、私の知る限りでは、{「八百津町和鋼風土記」には、弥生
後期カの西畑遺跡(八百津町須賀)の鉄滓出土。同じく弥生後期カ六の坪遺跡(八百津町野上)の鉄滓出土。古墳時代カ
細めたたら(八百津町宮嶋)の鉄滓。という鉄に関わる遺跡が存在しているようです。
加茂郡域の現 美濃加茂市蜂屋町上蜂屋の尾崎遺跡は、古墳時代後期の鍛冶工房であったのでありましょう。羽口・
鉄滓が出土したという。(発掘された尾崎遺跡より)}(上記記述は、「尾張の鉄のにおい」 小木曾正明氏による記述から
抜粋いたしました。詳しくは、http://www2.ocn.ne.jp/~k-tatara/PDF-Files/1-6-Owarinotetsunonioi.pdf 参照)で
あり、県主の領域であった可能性は高いのでは・・・。
* 参考までに、 http://dmrc1.eps.nagoya-u.ac.jp/ja/tande_report/1997/yokoi1997.pdf 横井時秀・中村俊夫両
氏による「愛知県における古代製鉄と鉄器の時代」の文中に周辺地域における製鉄原料の所在地を調査されたという記
述があり、それによると、恵那市の木曽川畔で磁鉄鉱の採掘可能な鉱山跡を確認したという。
更に、「東海鋳物史稿」の文中にも、八百津丸山ダムの上流域の木曽川へ流れ込んでいる支流 旅足川流域にも存在
していたという記述があったかと。*
蛇足ではありますが、尾張国造の尾張氏は、丹羽郡の丹羽県主とは婚籍関係であり、丹羽郡域を領域に置く様になって
いる。美濃でも牟義と加茂は、尾張と同様になっていったと推測する。
歴史学では、和珥部臣君手については、不詳としておりますが、以上の事柄からみて大海人皇子の美濃の舎人である
和珥部臣君手の領有地は、消去法でいけば、本巣郡域の郡司ではなかろうか。所謂三野前国造を出自とする豪族であっ
た可能性が高いように思える。
大海人皇子は、既に密命を与えた時点で、美濃地域からの軍兵の徴集は、折込済みであったのでしょう。