大山寺・円福寺の地頭 円覚寺に対する苅田狼藉事件の一考察
1.はじめに
「建武3(1336)年、尾張国 篠木荘では、現 小牧市野口にあったという大山寺の住僧と、現 春日井市庄名町に
ある円福寺の住僧等が共謀し、鎌倉 円覚寺が地頭請けをしている田の苅田狼藉をしたと円覚寺より建武の新政で
創られた雑訴決断所に訴えられたようであり、尾張国衙に対し両寺の住僧を出頭させるよう命じている。」 という記述
が、春日井市史P.126には記載されています。
建武の新政時には、大山寺の住僧は、白山の円福寺の住僧と図り、苅田狼藉を働いておりましたことは、明らか。
しかし、この苅田狼藉は、小牧の草分け的史家 入谷哲夫氏によれば、真相はこうである。という論説で、JA尾張中
央広報誌 ふれあい 2010.9月号に「苅田狼藉作戦」と題し述べてみえます。それによると、地頭である円覚寺僧に、同
じ僧である白山の円福寺が、「寺田である土地の年貢を今年は、天変地異が多く、払えない。昨年は、何とか蓄えを叩
いて、年貢と我等の食い扶持をまかなったが、今年は、どうしようもない何とか。」と地頭の円覚寺に訴えたという。が、
円覚寺は、首を縦には振らぬという。
( 円覚寺の在地政所の担当者は、処断権を持ち得ぬ本山からの伝達機関に過ぎなかったようで、在地の側が要望を
仮に出したとしても到底受け入れられない方であったからでしょう。・・・筆者注)
この事を本山である大山寺へ、円福寺は訴えたという。本山でも、「泣く子と地頭には勝てぬ。」と浮かぬ顔であった
という。大山寺と円福寺は、一計を案じ、いっそ全て刈り取って今年は、収穫出来なかった事にしようと青田の苅田狼
藉に至ったという。これが、真相であると。両寺が共謀して行ったこの狼藉は、地頭の円覚寺により雑訴決断所へ訴
訟されたようであります。(この苅田狼藉の田地が、どこであったのか。円福寺の僧が談判した点から、現 春日井市
の円福寺近くの田であったかも知れないでしょう。・・・筆者注)
以上が、春日井市史・入谷氏の苅田狼藉一件についての概略ではあります。
2.苅田狼藉事件の一考察
当然、苅田狼藉は、問われましょうが、14世紀中ごろの尾張 篠木荘での出来事であり、地頭 円覚寺は、領国支配
を志す兆候はなく、あくまで荘園制下の地頭請での支配地の実入りのみに拘っていたのでしょう。
対する大山寺・円福寺は、荘園制下の名田を寺田として、自ら作付けしていたのか、請け作をさせていたのかは、史
料がありませんので、不明でありますが、何某かの田からの収取があったと思われます。或いは私出挙を行っていた
可能性を否定はできないのでは・・。
そして、一番大事なことは、鎌倉幕府作成の御成敗式目の条に、問題となっている次の条文があるという事でしょうか。
{ 結論から言いますと、苅田狼藉後の田に麦を作った場合、その麦には、地子は掛からないという条文があるという。
追加法 第430条 「諸国百姓苅取田稲之後、其跡蒔麦」という田麦について、「領主等」が、徴収すること「租税之法、
あに可然哉」として禁じた「撫民(ぶみん)法」とも言うべき法の存在があるという。
この「領主等」に該当する者は、本所・国司・領家に年貢を負担する存在として捉えられているという。(式目 618条)}
( 網野善彦著 「日本中世の百姓と職能民」 平凡社 2003年 参照 )
大山寺の座主は、博識であり、当然このような事柄をわきまえていた事ではあり、その上での苅田狼藉ではあったの
でしょう。
果たして、不作 故の暴挙であるのか、剰余物の留保を狙った行為であったかは、分りませんが、天変地異等による
果ての止むにやまれない行為を口実にした寺側の窮余の一策ではあったのでしょう。
雑訴決断所の裁可は、国衙から両寺の僧都の出頭を命じている事に鑑み、国衙も共に絡んだ事柄であったのでしょ
うか。建武の新政では、旧来の体制に戻す方向で在地も進んでいた折、国衙と寺側は、共謀したとも取れる事件であり
ましょうか。或いは、この当時、国衙に強い権限が後醍醐天皇による新政で委譲され、国衙は、その執行を委ねられた
のかも知れません。
おそらく、後者の見解が正解でありましょう。
真相は闇の中ではありますが、この両寺の行為は、決して暴挙ではなく、ある確信に満ちた行為ではあった筈であり
ましょう。
こうした事柄は、ここ大山寺・円福寺の一件のみではなく、この後、広く、室町幕府より守護宛に苅田狼藉取締りの権
限が、与えられている事から類推できる事であり、この当時のある種一般的な抵抗・抗争の表れであったとも取れましょ
う。
3.結び
その後、篠木荘も、美濃等の在地武士等の侵攻により、押領され、大山寺の経営は、一挙に苦しくなっていくのでし
ょう。
そうした事例をあげれば、以下のようになりましょうか。
{康安2(1362)年2月28日付の文書請取状に、「篠木荘内野口・石丸両郷、光録(土岐頼康)方より寺家に返付さ
るる渡し状正文一通」とある。}という小牧市史 P.101 に記述があり、これは、「観応2(1351年)〜嘉慶元(138
7年)までは、土岐右馬権頭 ( 美濃の豪族 土岐一族 土岐頼康。・・筆者注)」( 佐藤進一著 「室町幕府守護制度
の研究」上より抜粋 )が、尾張守護を歴任し、直ちに兵糧米徴発等に名を借りた一族及びその軍勢により荘園・国衙
領侵略が行われたのでしょう。しかし、この時は、こうした侵略からも、円覚寺は、両保(野口・石丸)を旧来のように維
持できたようであります。( 小牧市史 参照 )
参考までに、この三国守護(美濃・尾張・伊勢国)たる土岐頼康は、在住する美濃国において、年貢の押領等を重ね
ている事が知られます。
「14世紀中ごろ土岐頼康とその一族は、美濃国内に散在する寺社の年貢を押領し、寺社の訴えによって足利幕府は、
たびたび妨害停止の命令を出している。だが、その効果は疑わしく、土岐氏による領国支配が着々と進行していたので
あろう。」と。(多治見市史 参照)
「嘉慶2(1388)年にも、篠木・富田両荘へ、乱入し乱暴を働いている立河・糟屋・曽我・斉藤・嶋津・冨田・各務入道
・宇津木・古見弾正・同小弾正次郎・猿子弥四郎・神戸新右衛門入道・河村兵衛次郎・奥田得丸以下の輩を尾張守護
に嘉慶2(1388)年任命した土岐伊予守に足利将軍義満は、命じている。この両荘は、去々年(至徳3年、1386年)
寺家(鎌倉 円覚寺・・筆者注)に返付したが、国中物騒の間隙をぬって、また、これらの武士達が立帰り、乱暴してい
たと言う。」(春日井市史 通史 P.127 参照 )
この春日井市史の記述の元になった史料は、鎌倉市史 史料編 第2 P、320 297番史料の室町将軍家義満
御教書 嘉慶2年5月廿5日付の左衛門佐(花押)<史料には、斯波義将の記入あり。> 土岐伊与守殿<史料に
は、満貞カと記入されている。>宛文書でありましょう。
とすれば、篠木荘に隣接していた尾張国 春日部郡林・阿賀良村(二ノ宮領)にも乱入し、乱暴を働いていたと推測
出来るのではないかと・・・。真っ先に襲撃対象とされたのは、地域の中心的な箇所(神社や社の神宮寺)の武力を有
していたであろう部分ではなかっただろうか。
この後 以降 地頭であった円覚寺は、この地域の所領と引き換えに、鎌倉に近い地域の所領に重点を移し、存続
していくようであります。
今後は、中世末 この地域での中世の城郭を築いていく武士に焦点をあて、検討していきたいと思います。
平成25(2013)年6月18日 最終脱稿
平成25(2013)年8月27日 一部加筆