大山廃寺近くの白山山頂  尾張白山社を訪ねて

           1.はじめに
              平成25(2013)年4月22日(月) PM 4時頃 愛車に乗り込み、大山廃寺跡への山道を一気に登り、
             ちごの森駐車場へと向かった。その駐車場には、先客があり、車が、2台止めてあった。

              先日は、やっとの思いで、大山3号墳の所在地を見つけた。この古墳は、尾張白山社へ行くちごの森駐
             車場から数m位白山社へ向かう山道の左脇にあった。説明看板もなく、よく気をつけていても、見逃してし
             まいそうな感じがいたします。更にこの近くに4号墳もあるやに聞きますが、完全な古墳の状態で眠ってい
             るようです。すっかり山の一部となり、見つけられない状況でありましょう。

              今回は、古墳の探索ではなく、尾張白山社(白山神社)の由来を書いた看板があると聞き、その説明文
             を書き写しに行こうと思い立ったのです。

              山道には、所々に表示板が設置されており、尾張白山社へは、ちごの森駐車場から約200mである事
             が知れます。分岐する所にもその都度表示板があり、間違えることなく尾張白山社へ到達できました。

           2.尾張白山社を訪ねて
              駐車場から神社までは、200m。2〜3度のアップダウンを繰り返すと山頂の神社に到達できますが、
             山道は、岩盤の所もあり、危険と思われる箇所には、右や左に手摺になる鉄パイプが設置され、私も、
             下る時には、利用させてもらいました。

              山道のほぼ中間辺りに、3基の石碑と、地蔵2体が安置されており、石碑の一番大きいのは、御嶽神社
             と刻印されており、明治期に設置されたようです。その隣の一段下がった所に2基石碑があり、一基には、
             駒嶽開山 心明霊神 淑本霊神と並列して印刻されていましたが、いつの物なのかは、裏を確認しました
             が何も印刻されていませんでした。おそらく、明治よりも古い時期の物であろうと推測いたしました。残りの
             一基は、何やら印刻されているようですが、磨耗していて私には、判読出来ませんでした。

              最後の山道を登り終えると一気に視界が開け、山頂に着いたようです。そこには、南向きの尾張白山社
             が鎮座され、木製の鳥居も一番南にありました。この鳥居は、平成6年9月 奉納。メナード化粧品KKと
             書かれており、確かに伊勢湾台風によりこの神社、周りの木々共々、根こそぎ倒れたり、倒壊した為、再建
             されたようでありました。

              鳥居から南を眺めると、眼下には、大山、野口、桃花台等が一望でき、夜ともなれば、家々の灯火が輝い
             て見えましょう。確かに夜の展望の穴場スポットではありましょうか。

              白山社の西側には、少し北側が開けたスポットがあり、眼下には、入鹿池の全貌が目に入ってきました。

              散策を終え、来た山道を帰りかけようとした時、左手やや奥まった所に平らな場所があるように見え、道か
             らそれて、そちらへ行ってみると白山社の東側から平坦地は続いていて、そこには、一基の石碑が鎮座して
             いた。大きく八百萬神と印刻されていた。その前には、左右に一対の自然石の立ち石が、まるで、狛犬のか
             わりであるかのように置いてあると私には思えました。

              さて、この八百萬神と、白山社どちらが、より古い存在なのでありましょうか。この辺りは、後期弥生人の土器
             (パレス土器、無紋土器片)が発見されており、山裾の大山川の湿地帯では、水田稲作が行われていた可能性
             は高い。また、山々から流れ出る沢水も水田稲作には、利用出来えたのでありましょう。とすれば、八百萬神が、
             この地域の最初の神であろうか。こうした沢水を管理する者が、この地域の有力者へと進化していったのでしょ
             うか。

              白山社が、祭神 菊理媛命であり、陶工・金工と関わりがあるとすれば、後期弥生人より若干遅いのではと推
             測いたしますが、どうであろうか。

                               この白山社の境内には、白山社の由緒が書かれた看板がたてられております。

               小牧市の桃花台北側の山々のひとつ 白山山頂に建立されている白山神社の縁起由来であります。
               幸い小牧市 白山々頂の尾張白山社には、宮司さんがみえその方による由緒の看板が、白山社の右手側
              に設置されていた。必要な部分のみ抜書きしてみます。
              「 白山社之由緒
                 所在地 小牧市大字野口神尾前2877
                 境内  5270坪
                 御祭神 菊理媛命 伊邪那岐尊 日本武尊 大山祇命 大巳貴命 事代主命 八百萬神
                 創立   景行天皇42年と言い伝えられる。 ( 内々神社の創建は、社伝では、景行天皇41年とか。・・
                                              筆者注)
                              
                 尾張三ツ山の一つとして海抜237m 延喜式爾波郡23社の内 従三位 小口天神と称え奉り、国司
                を始め四方の崇拝篤く名山なり。元丹羽郡に属せしが、大永2(1522)年足利時代 春日部郡となり、
                篠木荘総社(内津妙見カ・・筆者注)を崇め33村より献馬す後、天保13年9月馬順に付き論争を生じ、
                献馬やむ。然れ共野口は、年々5頭宛例祭に献馬し来たれども、第二次世界大戦終局につけ、馬匹
                不足止む無く昭和26年より中止せり。
                                                            宮司  林 達也       」

                由緒書でありますから、本当の所はどのようでありましょうか。私が、知る限りでは丹羽郡の小口天神は、
               「小口神社 所在地は、丹羽郡大口町小口字城屋敷、古は小口天神とも言われ、祭神は、少名毘古那命
               (すくなびこなのみこと)で、この神は、大国主神と共に国を治められた神であるという。」ように理解していま
               した。
                丹羽郡の小口天神は、天神と付されていますから、天武朝の頃には、天孫系に付けられし名称である筈、
               しかし、祭神は、被征服者系の大国主系であるようです。かなりの混乱が、生じているようです。また、この
               白山社の前身が、小口天神である等と、どこからこのような事が言われるのでしょうか。この小口天神につ
               いては、下記 拙稿を参照下さい。

                拙稿 白山信仰と7・8世紀須恵器古窯跡地域との関連と大山寺との関わりについての覚書
                                    上記拙稿からの抜粋ですが、この白山神社に関わる由緒等は、「郡誌・村誌によれば、宝暦年中(1751〜
                64)の雷火及び明治32年(1899)の失火に因り、社殿宝物等を焼失したため社伝は明らかではないという。」
                ( 郷土誌かすがい 第37号 白山信仰6 参照 )
                 もし、社伝等が残っていたら、尾張白山社の創建についての言い伝えもはっきりしたでありましょうか。尾張
                白山社 宮司さんは、この神社の創建は、景行天皇42年( 4・5世紀頃 )の言い伝えと記述されてみえます
                が、白山信仰は、8世紀の始め頃に確立し、広まったのではなかろうか。それ以前にも白山信仰は、あったで
                ありましょうが・・。
                 (やはり、景行天皇の頃は、八百萬神ではなかったか。天武朝前後に現 野口の里にあった八幡社の処には、
                山田郡の小口天神が祭祀され、そして、その後に白山社が、進出して来たのではないかと。・・・筆者注)
               
                また、献馬の件は、篠木33ヶ村の「おまんと」 内津の妙見様と混同されているのかと錯覚さえ覚えました。

                確かに、尾張白山社の近くには、平安期、西の延暦寺、東の大山寺と言われるような天台宗のお寺が存
               在していた( 西暦1113〜1117年頃から約40年間位が、大山寺の全盛時代 )ようで、春日井市の白山
               町にある円福寺は、この大山のお寺の末寺(建武3年には、間違いなく末寺であった。・・筆者注)という関係
               にあったやに聞く。
                いつ頃より末寺関係になっていたのかは明らかではありませんが、この円福寺は、白山神社の別当となっ
               ているようであり、何やら大山のお寺もこの尾張白山社と何らかの繋がりがあったのではと推測できましょう
               か。

                ところが、鎌倉市史 資料編 2(吉川弘文館)のなかに、元享年間の春日部郡 林・阿賀良村の名主等の
               請書・名寄帳が存在する事は、周知の事柄でありましょう。

                その名寄帳の阿賀良村分には、この白山社に関わる事が記述されているのでは。その一部を抜粋してみ                                 
               れば、
                 元享2(1322)年と言えば、12年後には、建武の新政で、鎌倉幕府が倒される頃でありましょうか。鎌
                倉末期の頃の阿賀良村では、土地への既得権益が、移動しているようで、この地の在地構造の一端が
                垣間見れたと言えましょう。

      
                 ・ 除地分   不作田・・・・・・・・・・・・4反半20歩
                          池之内押領田・・・・・・1反90歩  ( 池之内が、押領した分なのでしょう。)
                          例損田・・・・・・・・・・・・8反70歩
                          三明神供御田・・・・・・5反
                          白山供御田・・・・・・・・3反 (平安末・鎌倉初期には、尾張白山社は存在していた事になりまし
                                            ょうか。)
                          観音寺田・・・・・・・・・・1反 ( このお寺は、もしかすると現 大泉寺の近くで江戸時代の絵図に
                                            観音堂なる地名のみ出てくる所ではないかと・・。)
                          長源寺修理田・・・・・・2反
                          長源寺田・・・・・・・・・・1反
                          里使免・・・・・・・・・・・・1反 ( 何やら国衙関係の使途免の残存でありましょうか。)

                 この春日部郡 林・阿賀良村は、一応開発者は、名主等の申し出によれば、「春日部郡司であるとか。」
                しかし、その後は、丹羽郡郡司 良峯家を経て、二ノ宮へ寄進されたのではなかろうか。平安末期から鎌倉
                初期頃の混沌とした時代での出来事ではありましょう。

                 11世紀中頃の末法思想の広がりにより、王権(朝廷)は、旧寺院側からの末法の世の克服が出来るのは
                寺院が、経済的に安定する事にあるという寺側の主張を受け入れ、王権の存立を考えていったようです。

                 在地では、受領(国司)による荘園の収公(没収)・新税の徴収等が進行し、その対抗として寺院側も、荘園
                領主化へと突き進んでいったのでしょう。院政期には、旧 寺院側の荘園が最高潮に達した事は歴史的な事
                実であります。

                 また、平安末期頃には、各地の一宮・二ノ宮が確定した時期であり、そうした神社にも各地の開発領主等か
                ら寄進がされていたという。その一環で春日部郡 林・阿賀良村も二宮(大縣神社)へ寄進されていったのでし
                ょう。

                 その地域の名寄帳に、白山社に関わる”白山供御田・・3反”なる給田(免田)が付与されており、その当時
                には、白山社が、存在していた証左となりましょうし、阿賀良村に、白山社に関わる供御人の存在を想定しう
                るのではないかと。しかし、白山修理田の存在が無い点を鑑み、社乃至祠等の粗末な構造物であったやも・
                ・・・と推測いたしますが、どうであろうか。

                 このような事を思い出しながら、下山いたしました。