天文18年 信長の熱田八ヶ村宛の制札から垣間見られる熱田社についての覚書
−南北朝から室町期に於ける科野(シナノ)郷の領有を含む熱田社の動向 −
1.はじめに
瀬戸物について調べていますが、信長の頃については、瀬戸の地の大よそを概観しました。それ以前の
瀬戸については、まだまだ知らないことばかり、今回は、南北朝から室町中期頃の事柄を取り上げつつ、
16世紀頃の熱田社の動向を垣間見ようと思う。
それには、国道475号東海環状自動車道建設に伴う現 愛知県瀬戸市岩屋町・鳥原町を流下する水野
川流域の窯跡に関する調査報告がありました。平成11年頃からはじまり、平成13年には、更に3回ほど
調査され、その報告書が、中間発表という形で出された物を参考にして行いたい。参考までに、そのPDF
ファイルを記載しておきます。http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo04/0404ozawa.pdf
窯操業期間は、相当長きに渡っていたようで、鶯窯跡は藤沢編年では古瀬戸中期様式中IV期から後期
様式後III期といわれており中IV期は14世紀中葉あたりに位置づけられ後III期は1420年から1430年に編年
されており、約
80 年程の期間がある
その当時、当地は科野郷(シナノゴウ)と呼ばれ、江戸時代には、中品野村であったでありましょうか。
中世に於けるその科野郷に関する文書は、醍醐寺文書でありました。以下、その文書から読み取れる事
柄を列記していきます。
2.科野郷について
醍醐寺文書(大日本古文書 家わけ第19の15 東京大学出版会 2012年版)より明徳元(1390)・2
(1391)年の出来事であります。
明徳元年8月7日 土岐満貞(土岐伊予守)より戸蔵左近将監宛に「熱田座主職の事として、醍醐寺
座主宗助が任じられた。」と
明徳元年9月2日 室町幕府 斯波義将(左衛門佐)より土岐伊与守(土岐満貞)に「美濃守代官(三
国守護から任命された代官 土岐頼忠カ・・私の注)を退け、熱田社座主職・同座主
領を理性院宗助の雑掌に沙汰」と。
明徳2年5月日 熱田社座主領注文案に「一所科野(現 瀬戸市品野・・私の注)郷」の記載あり。
*
この科野郷を含め熱田社の神領は、尾張知多郡英比郷・尾張愛智郡大脇郷・土取
村(5反畠)・新密宗領所・蔵司田・寺家管領の7ヶ所
明徳2年5月12日 室町幕府 細川頼元(右京大夫)より土岐満貞(土岐伊与守)宛 「熱田座主領(7ヶ
所)を理性院雑掌に沙汰されるべく。」と。
*
三代将軍 義満治下の三国守護(伊勢・尾張・美濃国守護)土岐康行は、代々幕府の指
示に従わず支配地で違乱し、荘園主の領地を荒らしていた。
その康行の弟で京都へ土岐家から派遣され幕府と土岐家の連絡役をしていた人物の土岐
満貞でありましょう。
将軍は、この満貞の野心を利用して、尾張国守護に任命したようです。土岐家の内紛の勃
発の原因ともなりました。(詳しくは、多治見市史 通史 上 参照)
理性院とは、「醍醐寺の5つの塔頭の門跡寺院
(三宝院、金剛王院、理性院、無量寿院、報
恩院)のひとつであったようです。
室町期初期頃までは、醍醐寺の座主は、5つの塔頭の住職が交代で務めていたようで、満済
以降三宝院の住職が、代々醍醐寺の座主を勤めるようになったと。*
以上の記述から、明徳元(1390)年に熱田座主職に伴う座主領(科野郷)が、三国守護 土岐氏一族に押領され
ていった事に対する醍醐寺側からの反論で、醍醐寺座主(理性院)宗助に、この所領は安堵されたという一件であっ
たのでしょう。
*
「鎌倉後期には醍醐寺理性院頼助が熱田神宮寺座主職を兼帯しており、南北朝末期の明徳元年には醍醐寺座主
(理性院)宗助が熱田座主職に任ぜられており、鎌倉後期以降南北朝期には、醍醐寺による熱田社の座主兼帯が続
いていた。」( www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo04/0404ozawa.pdf
参照 )
この地の由来は、詳らかではありませんが、鎌倉末期頃には、熱田社と熱田神宮寺という二つの事柄があり、
熱田社は、神社。「熱田神宮寺は、熱田社の南門(海蔵門とも海上門とも言う。)のある南西にあった寺であると
いう。」(新修名古屋市史 第1巻 平成9年版 P.680〜681 参照) 「熱田神宮寺は、寛弘元(1004)年
前後頃には成立していた可能性が高い。」(前掲書 P.679〜680 参照)
醍醐寺文書には、熱田座主と記載されているようです。しかし、PDFファイルでは、熱田座主とは、熱田神宮寺
座主職という認識であるようです。
*
脱稿後 瀬戸市史 通史編 上(平成15年刊)を一読し、科野郷を含む熱田社に関わる社領は、”水野上
御厨”と記述される存在も含まれるのかも知れない。(瀬戸市史 資料編3 132号・137号文書 参照)
同文書には、水野上御厨は、正和3(1312)年以前に成立した別納地の一つであると。国衙が関わった争論
地であったようです。その当時の尾張国主は、柳原資明であり、その後 実弟が、醍醐寺三宝院の座主となって
おり、瀬戸の知行地を譲ったのであろうか。
平安期の熱田社に関わる事柄については、謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書
なる拙稿も参照されたい。平安末鎌倉初期頃の熱田社の千秋氏は、熱田社本流ではない、傍系の氏族でありまし
ょうし、承久の乱時には、この千秋氏は、上皇側に加担した可能性が高い。
*脱稿後、上村喜久子氏の「尾張の荘園・国衙領と熱田社」の中、「尾張三宮熱田領の形成と構造」を一読し、土
地集積に2.3の系統があった事が推測され、熱田大宮司は、神官等の任命権を有し、祝師の家産的神領は、独
立性の強いものであり、また、検校は、熱田神宮寺に関わる存在ではなかったろうか。検校家もまた家産的な神領
を維持していたと思われます。それ故、信長は、それぞれの家宛に制札を出したのでありましょう。
* 藤本元啓氏の「中世熱田社の権宮司家」なる論述からは、{権宮司家たる祝師 田島家、惣検校 馬場家は、
尾張員信(熱田大宮司)の長男が、田島家の祖、また次男が、馬場家の祖であり、12世紀初頭頃に分家した
という。三男の員職が大宮司となり、その娘の松御前が、尾張国目代となる藤原季兼に嫁ぎ、その子が、初代
藤原氏系の熱田大宮司となっていったと。
この尾張氏系の権宮司家 田島・馬場家は、それぞれ所領を有しており、両権宮司家の所領の内 料田につ
いては、大宮司の直接支配を受けない私領的性格を持ち、熱田社への社役を務めるもので、代々引き継がれ
ている。一円神領たる郷司職・名主職・末社禰宜職の給分は、大宮司の安堵を必要とした。
馬場家への所領安堵は、院・幕府であり、田島家の所領には、院・幕府の安堵例は、皆無という相違があると。*
更に新修名古屋市史 第2巻 P.714〜718に、「安食荘の事柄で、天喜元(1053)年以後 一旦安食荘は、
公領とされた時期があり、11世紀後半から始まる公領時代に、在庁官人や在地領主らが、未開地の開墾を請負い
中央の有力者や国衙と関わりのある有力神社に寄進した事によって散所所領が成立したとみてよいであろう。」と
中略「康治2(1143)年に再度安食荘園化がなった頃の検注帳案には、複雑な所領関係を含む荘園となっていた。
」と、また、醍醐寺領の荘園内の三分の二が醍醐寺に相当し、三分の一の部分の約4割分が、熱田社領化され、醍
醐寺は、畠地の桑の木1本当たり2朱を原則とする代糸を課すだけであった。」とも記述されている。*
平安末期の平氏政権では、熱田社は、源氏に組していた為、勢力を相当弱めた事と推察します。それが為、尾
張国においては、一宮・二宮とは違う別格の神社格であったようですが、この頃、三宮として確定したかと。
*
「その勢力も、平治元(1159)年以降急速に失くしていった可能性が高いと思われますし、熱田社は、それま
では、尾張国内では、一宮・二宮とは、別格の扱いであったというが、平治の乱以降は、三宮という事になって
いったとか。」(日本中世土地制度史の研究 網野善彦著 P.194
参照 それまでは、熱田社は、別格扱いで
あったようで、三宮の初見は、元久元年 1204年であるとか。)*
それ故、熱田社は、勢力の温存を図る為、独自の力だけではなく、畿内の有力寺院の傘下に入った可能性があ
りましょうか。また、この辺りの国衙領についても、文和3(1354)年頃、醍醐寺三宝院のものとなったと。
*上記 名古屋市史 P.727・8に、「熱田社大宮司は、後白河院政期に入ってから皇室に社領を寄進した可能姓
が高いと。鎌倉期以降は、上西門院領として伝領された。」と記述されていた。*
とすれば、この鶯窯が、科野郷内にあったとすれば、醍醐寺が鶯窯開業と生産に関わっていたであろうと上記P
DFファイルでは、結ばれておりました。が、実際の在地では熱田社一族がこの窯には絡んでいた可能性を推測し
ます。
3.天文18(1549)年頃の熱田社について
熱田社に関わる信長以前の事柄の上に、信長の熱田八ヶ村宛 制札が出されたものと位置づけられるのでしょ
う。
詳しくは、http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2161/1/AN00211590_90_27.pdf
弘前大学 教育学部研究紀要 2003年 P.27〜38 を参照されたい。
そのPDFファイルには、熱田社の事柄として{天文18(1549)年の熱田八ヶ村宛 信長制札は、谷口克己著「信
長の親衛隊」(中公新書 1994年版)からの引用で、熱田大宮司家 千秋氏は、南北朝の頃より武士として活躍し、
知多半島先端の波豆崎の城主として発展し、熱田大宮司にして小部隊指揮官として異例の馬回り役となったという。
(いわゆる織田氏の協力者であった。)
しかし、波豆崎城主は、暦応3(1340)年頃は、野田姓の季氏が、熱田大宮司ではなかったかと。千秋氏では無い
のでは・・。その後、京で活躍していた藤原傍系の千秋氏に、熱田の大宮司 野田氏は、取り込まれていったと思われ
ます。
この信長の頃には、千秋氏は、熱田社神主であり、広大な神領を支配して兵力を持つ者であり、その系譜は、荘園
領主であり、その広大な領地は、神領であり、古くから治外法権・守護不入権を有する伝統的特権を有していたという。
その点は、下記 付記 Aを参照されたい。
伝統的特権の一端は、沙石集 巻第1 (4) 「神明慈悲を貴給事」の六話に記述されているようで、熱田社は、承
久の乱が勃発した頃、当国の住人等は、この乱を恐れて社内に集まったという。人々は家財道具類まで持ち込み、社
内は非常に混乱した。神官は、この混乱を如何ともしがたく、遂に神のご宣託を仰ぐべく御神楽を奏し、諸人一同一心
に祈っている時、筆頭の禰宜に神が憑き、全ての者を受け入れるご宣託があったという。いわゆるアジールの機能を有
するようになったと。
信長は、弘治3(1557)年11月に熱田社 検校(ケンギョウとは、平安・鎌倉時代の寺院や荘園の事務の監督役カ)
馬場氏、祝師 田島氏宛てにも制札を出している。この検校・祝師もまた大宮司 千秋氏と共に熱田社の支配層を担
っていたようです。
参考までに、検校宛 信長制札を掲示しておきます。熱田神宮文書から
「 敵味方預ケ物、俵物並神田、為何闕所之儀候共、不可有異見候、門外江使入之事、
竹木所望、郷質取立候事、末代不可有相違者也、仍如件、
霜月廿七日 上総介
熱田検校殿 信長(花押) 」以上です。
また、熱田社の御師の系譜を持っていたであろう後の東・西加藤家は、質営業で財をなしたようで、後 信長の命で、
鎌倉街道であった古渡から鳴海を通る海岸線の街道を常時通行可能なように干拓整備したのが、加藤図書介であった。
その実施は、桶狭間の戦いの後であったという。
塩の干満により通れない不便な街道であった事は、中世の紀行文からも読み取れる。(例えば、十六夜日記・春の深
山路・海道記を参照)両加藤家は、その当時の熱田の商人であり、交易の実権を握った者であった。
*
加藤図書介の先祖は、笠寺付近を本拠とした商人という記述が、新修名古屋市史 第2巻 平成10年版 P.284
にある。加藤氏の祖 加藤宗繁は、延徳元(1489)年の寄進状を笠寺へ渡したのでしょう。内容は、国人領主 水野
彦右衛門宛の公方年貢(600文)は、除く、下地2反分の加地子得分(1貫200文)を笠寺へ寄進したのでありましょう。
この国人領主 水野氏は、智多郡緒川(現 知多郡東浦町)に本拠を置く者であったという。こうした土地は、買得した
土地でありましょう。*
「信長の父 信秀の頃には、既に熱田の門前町は栄え、この加藤家は、商業・交通・運輸の実権を握っており、質屋を営
み、信秀も保護しているようで、那古野(ナゴヤ)に本拠を移し、更に南下して古渡城を築いて熱田を掌握しようとしていた。」
(愛知県の歴史 山川出版社 昭和45年版 P.101 参照)という記述からも確認できましょう。。
この加藤図書介の一族の賀藤佐助に宛てた、「大瀬古の余五郎跡職の座の事」なる信長の買得安堵状から、この大瀬
古には、その当時商工業者の座があった事が知られ、また熱田社の南門の鳥居脇では、「市(イチ)」が立っていた。歳市
のようで、毎年12月25日〜大晦日まで開催されていたという。織物市ではなかろうか。
また、現 熱田区木之挽町にかけての海岸沿いには、魚市場が立った。現在の大瀬子公園のある所に市が立っていたと
いう。現在は、その案内看板があるだけでありますが・・・。
信長が清洲城を本拠にしていた頃には、熱田には、問屋が数軒あり、年中1日朝・夕2回魚市が開かれていたし、この魚
市場の魚は、清洲へ運ばれていた。
熱田の中心地は、神戸町であり、宿町を原点にして発展したのであろうと。宿町には、輸送に携わる者達も居を構えて
いたのでありましょう。そうした所の実権を握っていたのが、東・西加藤家であった。
所で、熱田八ヶ村とは、どの地域であろうか。詳細は、詳らかではないようですが、推測ではありますが、神戸・宿・市場
中瀬・洲賀あたりか。そして、東脇・大瀬古近辺であろうかとも述べられておりました。
付記
@ 建武の新政後も、かなり流動的ではありましたが、引き続いて地頭職を得ていた鎌倉円覚寺の管轄していた篠木荘
内の玉野郷へ、「熱田神宮宮司以下、幡屋大夫以下神人(神宮に仕える非農耕民)が、玉野郷へ押し入り、乱暴狼藉
をしていた。その後、古来の例に倣って、建武4(1337)年には、この玉野郷は、半分熱田神宮が、代官として入部す
る事が認められたとか。」( 春日井市史 P.128 参照 ) 14世紀頃の出来事ではありましょう。
私も、当初は、旧来の領域の取り戻しと推測しておりましたが、山鹿の郷であり、何故だろうと思っておりました。
こうしてみてくると、交易に関わる絹糸・絹織物の産地としての玉野郷の取り込みとすれば、合点がいきましょうか。
A 熱田大宮司 千秋家については、皇學館大學 藤本元啓氏の論述が、大変参考になりました。下記にその論述のU
RLを添付しておきます。 http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf 参照されたい。
概略を記せば、「12世紀初頭 熱田社の宮司職は、尾張氏ー>藤原氏へ移行。拙稿にも平安末期の熱田社に関わ
る事を記述。( 春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書 参照されたい。)
かっての尾張氏は、権宮司として社務を掌る。祝詞師(祝師)の田島氏 そして、惣検校としての馬場氏として存続。
宮司は、藤原氏一族が。その藤原氏は、本流・傍系等が出来、本流系統の野田氏が代々宮司を引き継いでいた。
南北朝期には、熱田社は、南朝方に味方したようで、傍系の藤原氏の中には、鎌倉時代から在京した者もいた。
その在京人は、政範で、その跡を継いだのは、高範であったという。貞和元・2(1345・6)年 宮司本流の娘を母に
持つ高範は、千秋姓を名乗ったようで、「園太暦」・「賢俊日記」にその記述があるという。
高範は、建武新政・南北朝期から足利尊氏の近習的立場で、活躍していた。後 この高範は、藤原氏傍系でありまし
たが、母(藤原氏本流の娘)の諸職等を引き継ぎ、熱田大宮司になったようです。
その例証として、「看聞御記」 永享7(1435)年6月29日条に、千秋民部少輔季貞があり、<熱田大宮司職之事
千秋、野田被補之由>とある事。
また、「言継卿記」 山科言継著 天文2(1533)年 7月28日条に、千秋左近将監季通 小文字にて 奉公千秋庶
子熱田神人 与(大宮司)なる記載あり。
南北朝期には、野田氏の宮司一族は、南朝方に加担していたのでありましょう。在の野田季氏の娘を母に持つ、京の
千秋高範に在の宮司藤原一門が頼っていった可能性が高い。
そして、「京で活躍する千秋氏が、在の熱田在住の野田氏を飲み込み、熱田大宮司主流になっていった。」のでありま
しょう。信長の馬回り役として登場しているのは、その千秋氏一族であった。
付記の付記
逞しい想像ではありますが、壬申の乱後、尾張大隅以降古渡辺の精進川河口に「牧」があったのではないか。今昔物
語集に、片輪の里の住人で怪力の女(中島郡大領の元妻女)が、この川を上る草を積んだ船を沈めたり、陸に引き上げ
る記述がある。飼料用の草とすれば、馬用の物ではなかろうか。畿内の馬借は、牧の馬飼いがはじめているようですか
ら、尾張でも起こりえる事柄ではないかと・・・。推測以外の何ものでもありませんが・・・。
中世の紀行文「海道記」にも、津島の渡りを渡って、尾張国に入った小篠が原(ヲザキガハラ)でこの海道記の作者は、駒
を見ている箇所があります。
この著者は、鈴鹿から市がえ(月に夜で一字 イチガエは、現 愛知県海部郡佐屋町カ・・小学館 中世日記紀行集の頭注)
へ向かい、津島で渡河し、萱津宿(庄内川と五条川が合流した辺り)に泊まるコースを行ったようであります。河口付近での
牧の存在が窺い知れる事柄ではないかと。
更に御器所保(現 名古屋市御器所)に関わる信長の家臣 佐久間氏と熱田社の地下人との間で盗み馬の事でトラブル
が起きた。寛正2・3(1461・62)年頃の事とか。佐久間氏の祖は、鎌倉時代の尾張国の鎌倉御家人であった事は確認で
きる。その当時の御器所の国人領主であったのでしょう。詳しくは、新修名古屋市史 第2巻 P.186〜187参照。
平成27(2015)年5月2日 脱稿
平成27(2015)年5月7日一部加筆
平成27(2015)年5月13日 加筆