小牧・春日井市を流下する 弥生期・古墳期の八田川流域についての覚書
1、はじめに
八田川もご多分にもれず庄内川の支流域であります。源流域は、現 愛知文教大学や名古屋造形大学の
ある丘陵地から流れ出す沢水であり、現 小牧市大草町を大草川(八田川上流域)として流下し、陸上自衛
隊春日井駐屯地近くの東名高速自動車道下を横切り、下原へ流れ出て、春日井市立松原中学校南を通っ
ているようです。
また、塩見坂の丘陵地北側を源流とする沢水は、生地川(いくじかわ)として流下し、落合池の北西側を通過
し、春日井市立東野小学校・松原小学校近くを通り、春日井市六軒屋辺りで大草川と合流し、八田川となって
いるようであり、更に流れは、南西に向かい、朝宮公園南を通って、南西へ流下し、二子山古墳のある公園の
東側を通り、南下し、庄内川にかかる名鉄 犬山線の鉄橋の上流域(勝川橋下流)で、庄内川と合流している
ようです。
また、王子製紙北側を西へ流れ下り、国道19号線に平行に流下している地蔵川は、縄文・弥生期には、お
そらく八田川と合流して、庄内川へ流れ込んでいたのではないかと・・・。現在の地蔵川は、新川へ合流してい
る。
大脇二三氏著 「 ふるさと地名考 」 に、以下のような記述があるようです。
{(勝川の・・筆者注)東山に対して「味鋺」との境に「西山」があるが、これは小高い丘ではなく、砂
原に松林があって「木津用水」以前の「八田川」が、ここで庄内川に合流していた三角州で、いくす
じもの庄内の乱れ川によってできた自然堤防の名残りである。}これは、現在の庄内川へ八田川が合
流している所の明治期頃の記述でありましょうか。かっての庄内川は、もう少し北側を流下していた
のかも知れません。
縄文・弥生期の庄内川は、現在のようなしっかりした堤防ではなく、自然堤防であり、流路も一定
していなかった(幾筋もの流れがあり、州が盛り上がって自然堤防に成って行ったのでしょうか。)
と思われますし、八田川・地蔵川も、一定の流路ではなく、自然堤防を形成して流れていたと推察い
たします。
現 庄内川は、自然堤防から、しっかりとした人工連続堤防の築造により、天井川化して、かって流入して
いた支流河川の水をスムーズには、受け入れられなくなってしまったようで、新地蔵川を増設して、かっての
地蔵川は、八田川下を交差して、やむを得ず新川へ接続しているようです。
この八田川は、現在、木曽川から取水した木津用水の最終水と、この用水の水をを分けてもらう新木津用
水の最終水も受け入れてもおり、両用水の最終水を受けいれている河川になって流下しているようです。
2.八田川にかって合流していたであろう旧 地蔵川流域の遺跡と八田川下流域の遺跡
A 王子遺跡
現 王子製紙工場のある所は、弥生時代は、庄内川・地蔵川による自然堤防と後背湿地であった所と考え
られます。そこには、王子遺跡があったという。現在は、滅失しているようで、春日井市発掘調査報告書の内
容でしか知られないという。{ 王子遺跡(春日井面、弥生時代 中・
後期、土器片)}
王子製紙工場内にあった王子遺跡は、弥生中・後期の遺跡であったようです。かって中世に柏井荘が存在
しましたが、現 上条・下条地区が、そこに相当したとも言われ、その王子製紙は、上条・下条の目と鼻の先。
西側に当たります。
春日井市史 P.46にも王子遺跡の記述があり、「昭和35年冬、王子製紙の工場拡張工事現場から弥生中
〜後期にかけての貝田町式・高蔵式と呼ばれる弥生式土器片が出土した。」 という。「この土器は、現在の水
田面より2m下の黒褐色シルト層(粘土や砂の堆積層)から採集されたようで、王子の初期の集落は、沖積地
の沼地状の湿地帯の微高地を選んで、竪穴式住居を営み住み着いたと思われる。」と記述されておりました。
松河戸地区は、庄内川沿いの集落であり、松河戸遺跡は、縄文中期・弥生前期の環濠集落もあり、水田跡
やらその当時使われた農具も発掘されていました。また、古墳中期の集落、中世の条里制地割水田が確認さ
れているという。王子遺跡は、この松河戸地区にも近く、現 春日井市立小野小学校がありますが、どちらも校
区内に存在しています。
B 勝川遺跡
勝川遺跡は、地蔵川沿いに出来た集落であり、川を挟んで広範囲に遺跡が分布しているようです。現 春
日井市勝川町・長塚町・町田町に所在する遺跡であります。
庄内川右岸に位置し、庄内川によって形成された標高11mの沖積低地と、その北の鳥居松段丘面 標高
13mの洪積台地の縁辺部に立地しているという。
勝川遺跡は、弥生時代中期後葉に集落が形成され、弥生後期・古墳時代前期初頭へと継続されていたと
か。その後一旦途絶え、5世紀後半〜6世紀前半にかけて勝川古墳群を形成し、6世紀後半以降は、再度
断絶し、8世紀前半頃(7世紀後半という説もあります。) 勝川廃寺が造営され、9世紀後半まで継続したよ
うであります。
(勝川遺跡については、「春日井市勝川遺跡出土 木製品の再検討」 樋上 昇氏の論考を参照されたい。)
参考 南海地震 東南海地震 東海地震
白鳳期 684年 (684年) (684年) ( )内の年代は、津波堆積物にて
確認された。
とすれば、勝川廃寺は、地震三連動以前に建てられていたのであれば、鳥居松面上の立地であるようです
から、倒壊を、免れたのでしょうか。しかし、地震以後に建てられたという可能性もありえましょう。
「地蔵川近くには、方形集溝墓ー>洲原山古墳(南東山古墳とも言われ、円墳)、現 勝川町6丁目の北東
山古墳(五獣鏡、環鈴、槍が出土)、同じくカブト山古墳(高杯出土)、通称 オシメンドの森古墳(現 長塚町
の古墳で、台付き壷、杯、須恵質埴輪出土)、狐塚古墳(滅失)、勝川大塚古墳{現 勝川町9丁目の古墳で、
全長90mの前方後円墳 5世紀頃の築造カ
只、地籍図で探る古墳の姿(尾張編) 伊藤秋男著 P77に於い
て天保12年 勝川村絵図では、明松森と表示されているようで、沖積地の小高い微高地の森ではないかと。
この古墳には、周溝もなく、埴輪は、小破片ばかり、おそらく、湿地状であり、鳥居松台地の客土ではないかと。
それ故、古墳ではないと。断言されてみえます。}があったという。これらの古墳から出土した物は、現在 東京
国立博物館で所蔵されているようです。
近くには、神明堂古墳もあり、この古墳は、現 愛知電機株式会社の北西に位置するという。」(以上の古
墳は、勝川口から勝川駅にあります勝川古墳群であります。詳しくは、春日井市史 参照 )
C 味美古墳群
5世紀後半には、味美一帯には、二子山古墳(後期古墳の部類の前方後円墳)を造営した豪族がいた。
庄内川右岸から木曽川左岸一帯を支配したという。この二子山古墳の横を八田川は流下し、庄内川へ合
流していたのでありましょう。
この一帯には、物部氏に関わる式内社が多くあり、この辺りの古墳と関連付ける方もあるようです。
3.八田川中・上流域の遺跡
A 下原古窯址
八田川上流沿いに5世紀末頃、下原窯が造られ、ここで須恵器としての円筒埴輪が、焼成されたよう
です。
造られた埴輪は、轆轤を使い、高温で焼く画期的な穴窯の作品であり、この埴輪は、八田川下流域の
二子山古墳の埴輪として利用された事は、事実として確認されております。畿内では、5世紀頃に、朝鮮
から工人と共に伝わり、尾張へも時を置かないで、取り入れられたようです。尾張連草香と継体天皇との
関係が密であった事も関わっているのでしょうか。造られた埴輪は、八田川を使って運ばれたとも言われ
ております。
B 西山遺跡
下原古窯の近く、現 東名・名神・中央道を繋ぐ小牧ジャンクションの南西寄りに、古代のたたら製鉄跡
が存在するという。時期的には、7世紀中〜8世紀末頃かと。(C14を用いた年代測定による。)八田川上
流沿いでもあります。また、篠岡丘陵には、多くの穴窯が造られ、篠岡古窯跡群が形成されていますが、
時期を同じにするようであるという。
C 現 朝宮公園近辺の八田川中流域
現 春日井市上条町には、白山神社が存在する。別当寺は、大光寺であるようですが、この神社や寺は
建保6(1218)年カ 当時朝宮の地にあって衰微していた和爾良(かにら)神社と別当寺の大光寺を上条本郷
の現在地に移したという。地元の氏子の方々は、白山神社を今でも和爾良(かにら)神社と呼んでいるようで
あるという。
また、春日井市史には、{ 尾張氏以前には、「この尾張地域の支配者として、春日氏、及びその一族であ
ります和邇部(わにべ)氏が、君臨しており、その本貫は、和邇良の地であったらしいとも記述されている。」
という。} とすれば、現 朝宮公園近辺は、継体天皇朝はるか以前には、春日氏一族が、勢力を持ち、支配
していた地域と考えられるのではないでしょうか。春日氏は、物部氏系ともめされているとか。何やら物部氏
系の一族として取り込まれたのでしょうか。、早くから八田川流域で、春日氏一族は、活動をしていたとも類
推できえましょうか。この一族の出自は、松河戸遺跡の民ー>勝川遺跡の民ー> 和邇良の民 でありましょうか。
ー> 味美近辺の民でもありましょうか
4.まとめ
八田川は、あまり目立たない川でありますが、尾張地域を二分した豪族を育てた流域でもあるようです。最終
的には、尾張連氏とは、何らかの婚籍関係等で、繋がり、系列化に入ったと推察できましょうが・・・。尾張氏・物部
氏・丹羽氏は、婚姻関係等で、互いに繋がり、そこへ、凡(おお)氏も加わり、尾張地域の中間支配者の位置を保
持していったのでは・・・。
その当時、国造であり、天皇の外戚としての尾張連氏の力で、朝鮮の工人を招聘し、保護し、鉄の分配を成し得
ていたのでありましょうか。或いは、物部氏が、勢力を持ちえた地域では、式内社が多く、その内の名古屋市内の高
牟神社は、この物部氏の武器蔵が、神社になったと言われている。また、こうした武具等を造る冶金工人を伴って
いたとも聞く。こうした系列の工人の末裔が、西山遺跡・狩山戸遺跡(古代たたら製鉄跡地)で、タタラを行った可能
性が高いのであろうか。5世紀末と7世紀中、時間差はありますが・・・、渡来の工人の末裔が、在地において土着
し、中間支配層と関わりながら、独自の生活基盤を確立していったとも推測できるのかと。
参考文献
・ 春日井市史
・ 春日井市勝川遺跡出土 木製品の再検討 樋上 昇 (愛知県埋蔵文化財センター)
・ 郷土誌かすがい 8号 西山古代製鉄址2 鉱滓(のろ)と砂鉄の分析所見 梶田元司
・ 郷土誌かすがい 4号 春日井市西山製鉄址 梶田元司
・ 愛知県小牧市上末・下末 桃花台沿線開発事業地区内埋蔵文化財発掘調査報告書 1987 小牧市教育
委員会
・ 平成17〜23年度 市内遺跡発掘調査概要報告書 春日井市教育委員会
・ 地籍図で探る古墳の姿(尾張編)−塚・古墳データ一覧ー 伊藤秋男 人間社
平成25(2013)年3月19日 最終脱稿
平成25(2013)年3月25日 一部加筆
平成25(2013)年5月2日 一部加筆