小牧市 池之内の大泉寺と小牧市 林の祥雲寺を訪ねて

            1.はじめに
               我が家から車で、どちらも5分少々で、行ける所にあるお寺さんばかりです。大泉寺の創建は、    
              {出典は、『張州府志』でありますが、小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P.110 池之内村の条
              にも、「大泉寺、府志に曰く、池之内村に在り、金剛山と号す、曹洞宗、三淵正眼寺に属す、天正7
              (1579)巳卯年、郷豪足立氏某、僧某与(ト)相議して始めて之を建つ。」} と記述されており、丁度
              織田信長が、安土城へ移った3年後の事であったようです。

                                 参考までに、尾張国地名考には、現 春日井市大泉寺町(塩見坂墓地公園のある辺り一帯)に、「
              金剛山大泉寺は、住昔池ノ内に曳き移りこの地になし。」とあるようです。
               更に箕浦賢屯は「寺(てら)跡(あと)というところに、古瓦、石などあり井筒の石とて慶安の年号あり「
              1648年」又この村、 承応年中(1652年)に民、28戸あり。」としるしているという。しかし、現在は、
              塩見坂平和霊園となり、過去の様子は、分からなくなっているという。

               これが、事実であれば、春日井市大泉寺町にあったという大泉寺は、火災等で消滅したとも言われ
              ており、後 小牧市池ノ内町に、池之内の郷豪であった足立氏が、焼失した大泉寺が、同地で再興出
              来ない状況であった為、貰い受けたのかも知れません。そして、創建したのが、天正7(1579)年とい
              う年であったのかも。          

               林にある祥雲寺の創建は、{ 『張州府志』からは、読み取れませんでした。「府志に曰く、林村に
              あり、小林山と号す、曹洞宗、大草村福厳寺に属す。」 云々と。

               小牧市史 通史 P、622の寺院一覧では、「祥雲寺創建は、文正年間」と記載されており、この年
              代は、応仁の乱{応仁元(1467)年}が起こる一年前以前の事でありましょう。15世紀中頃には祥雲
              寺は、創建されたという。確かに天保12(1841)年丑6月の村絵図には、現在の位置でありましょう
              所に記載されておりました。直ぐ西側には、平野池も存在しておりました。更に、絵図には、その西側
              に二つの山神様が祭ってあったようですが、見つけられませんでした。後日、小牧市史に、明治10年
              頃、林地内にある三明社に合祀されたとか記述されている事を知りました。

            2、大泉寺を訪ねて
               天保12(1841)年丑6月 春日井郡池之内村絵図には、確かに現 大泉寺の建っている辺りにそ
              の寺が記入してあり、東隣には、山神様が、書かれ、更に東南の方向には、八幡宮もあったようです
              が、現在では、影も形も残っていないようです。只、気になるのは、天保の絵図でも、建物は記入され
              ていませんが、地名として観音堂が記入されており、大変気になっております。

                大泉寺の西隣には、薬師堂が、更にその西側には観音堂の建物が絵図に書かれております。
               現 大泉寺には、薬師堂も、八幡宮{ 府志に曰く、元亀2(1571)年創建 }も現存していないよ
               うですが、現在でも、観音堂は、西側に池が付随して建っておりました。その池は、かって下の地域
               の用水となる為の灌漑用ため池(陣配池ではなかったかと。)と推測いたしました。

                絵図では、方角・距離等が相当デフォルメされているのか、別の灌漑用ため池(蓮池)が、すぐ近
               くに記入されておりますが、実際の地図上では、相当距離があり、一山越えないといけないような気
               がいたしました。

                現 大泉寺の入り口前には、地蔵菩薩が3列、十数体ずつ横に並べて配置されており、最前列は、
               新しい地蔵様のようで、建立年代も読み取れ、嘉永、文化という江戸時代末期頃の地蔵様であるよ
               うですが、後列。最後列となると、まったく年代が読み取れませんでした。古い地蔵様でありましょう。
                所々焼け焦げたような箇所があるのではという印象を持ちました。

                大泉寺の創建は、天正7年という、織田信長が、安土城に移ったのが、その3年前の天正4年。信
               長の天下布武が、まさに成し遂げられようとしていた16世紀末頃に創建された寺と言えましょうか。

                先ほどの、絵図上に記載された地名としての観音堂なる言葉、私は、もしかするとこの観音堂が、あ
              の元亨2(1322)年の林・阿賀良両村名寄帳に出てくる観音堂供御田(観音寺寺田とも言うようです。
              ・・筆者注)の観音堂の供御田(1反)跡地の名残りではないかという大胆な推測をいたしてしまいました。

               現在の観音堂{ 小牧市史 通史 P622 寺院一覧には、創建は、永正13(1516)年と記載}との
              関わりは不明ではありますが・・・。1322年頃の林村にあった長源寺は、遅くとも、応仁の乱(1467年)
              前頃には、消滅していたのではないかと推測いたしております。とすれば、同時期の阿賀良村の観音堂
                              もその頃に消滅していたのでは・・。そして、田地は、地名として残っていったのではないかと想像いたしま
                              した。

               現在の観音堂(観音寺とも言うのでしょうか。)は、かっての観音堂と繋がりがあるのかは不明ですが、
              同名の寺として意識されて再建されたのかは不明なれど、同名の寺として存続していたと言う事でしょう
              か。

               更に大胆な推測が許されるならば、この大泉寺境内は、元亨2(1322)年頃には、阿賀良村と呼ばれ
              し地域ではなかったかと。そして、この境内は、観音寺(或いは観音堂と呼ばれた境内)のあった地域で
              はなかったかと。もっと進めれば、尾張白山社の神宮寺(別当寺)の役割をしていた寺ではなかったかと。

               当然、白山信仰の総帥 泰澄大師のお弟子さんが関わったお寺ではなかったかと・・・。あくまで想像
              であります事をお断りしておきます。
           
               14世紀・15世紀は、室町幕府の守護が闊歩した時代であり、在地は、守護等の侵攻を受け、旧来の
              体制ではいかんともしがたい、その当時の流行語で言えば、「派手な衣装に身なりを整え、既成の権威、
              道徳をものともせず、平気で好き勝手なことをする連中を婆沙羅(ばさら)と言い、土岐頼遠(二代目 美
              濃国守護)もその一人であったという。」 歌舞伎の世界では、「かぶく」とも言うのでしょうか。旧来の慣習
              からは、異常な状況であったのでしょう。尾張地域も言うに及ばない状況であったようです。

               実際{ 南北朝動乱期(1336年以降)以降の室町時代にかけて在地武士層の成長もみられ、荘園は、
              内部的に崩壊に瀕していたのであり、篠木荘も其の例に洩れなかった。嘉慶2(1388)年には、将軍義
              満は、尾張守護であろう土岐伊予守にあて、在地の武士層(例えば、猿子弥四郎<これは、土岐一族の
              傍流であり、東濃地域の在地武士ではないか。・・筆者注>、神戸新右衛門等12氏等による・・こうした輩
              は、美濃の土岐一族に関わりがあるのでしょう。実際、富田荘の飛び地 萱津辺りは、土岐頼遠の跡を継
              いだ三代目 美濃守護 土岐頼康の弟が、乱暴狼藉をして押し入っているという事実。兄もまったく感知し
              ていない訳がない事ではありますが、弟の単独行動と判断され、将軍よりたびたび停止の命令が出されて
              いましたが無視を決め込んでいたようであります。その当時の足利将軍は、三代目 義満でありました。篠
              木、富田両荘への乱暴を鎮めるよう命じているし、去々年両荘の土地全て寺家に返付したが、国中物騒の
              間隙をぬって、またこれらの武士達が、立ち帰り乱暴していたという。」(以上 春日井市史 参照)<この寺
              領とは、地頭である鎌倉 円覚寺が権利を有している地頭職に関わる寺領の事でありましょう。>14世紀末
              〜15世紀中頃の出来事だったのでしょう。

               そうした状況下で、阿賀良村の観音寺は、消滅していったのではと。林村の長源寺も同様であったと類推
              いたします。応仁の乱(1467年)前頃には、既に両寺共消滅していたのでしょう。
              
               この池之内・林・大山という地域には、やたらと天王社という祠が多い。池之内では、大山川左岸(南側)
              の焼き肉屋 ささかつ前に、天王社(津島神社)があり、大山川右岸(北側)には、二ヶ所に天王社が存在
              している。林・大山には、一ヶ所ずつ存在している。野口には、存在が確認出来ませんでした。

               この天王社は、別名津島神社であり、尾張の式外社 津島にある津島神社が、総本山であります。この
              津島神社は、織田家の氏神様のようで、津島神社の社紋は、織田信長も使っていた木瓜(もっこう)紋であ
              るようです。信長の頃に、神社の最盛期がきたのでしょう。当時、木曽川の派流の一つ 古川(天王川とも
              言う。)川幅300m(百数十間)もある大河であったという。津島神社へは、橋が架けられ、信長は、この橋
              の上で、川を下る天王社の神輿(天王祭)を眺めたと言う。江戸期にこの古川は、せき止められ、現在は、
              その古川の一部が津島神社すぐ横で、池となっております。

               参考までに、この古川(天王川)は、古代から川運の中心ルートであり、物資輸送の大動脈でもあったとい
              う。「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島は、水路移動。そして、三宅川を遡上し、稲沢国府に至
              る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平野の小地形と環境に記述されて
              いる。東海道からの支線であり、小路であったと思われます。陸路であれば、駅には、馬が置かれた筈。水
              路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そうした記述はありませんからこの船は、推量で
              あります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握っていたのでしょうか。

               この地域を支配していた織田信長の父は、この水運に関わる権益を手に入れていたが為勢力を強める
              事が出来えたといえましょうか。また、犬山近くの木曽川の水運に関わる前野家の娘を信長は、妻に迎えて
              います。ヨシノという名の女性であったかと。

               「この池は、かっての天王川の成れの果ての姿であるという。江戸時代の中頃に、天王川を堰きとめ、上
              流部分を埋め立ててしまったという。(江戸時代に日光川を新たに造り、排水を確実にしたようで、旧河川は、
              その為廃川にされたようです。)確かに天王通 1交差点は、一段と低い位置にあり、この辺りの南北域が、
              旧河川の流域であったのでしょう。現在の池巾は、100m以下であり、相当狭められて残ったものと推察い
              たしました。」という記述もあるようです。


            3.祥雲寺を訪ねて
               林には、あの元亨2(1322)年の林・阿賀良両村名寄帳に出てくる長源寺が、存在していた事は、確か
              でありますが、この寺の所在地は不明であるようです。もしかして、この祥雲寺の前身が、長源寺ではなか
              ったかとも私は、想像いたしますが、地元の方が、ご存じないのであれば、二つのお寺さんの間には、連続
              性がなく、かなりの間隔があり、その後、祥雲寺が創建されたのではないかと・・・。その間に、在地の構成
              員も、もしかすると大部分は、入れ替わったのかも知れません。

               長源寺は、おそらく「南北朝動乱期(1336年以降)以降の室町時代にかけて在地武士層の成長もみられ、
              荘園は、内部的に崩壊に瀕していたのであり、篠木荘も其の例に洩れなかった。嘉慶2(1388)年には、
              将軍義満は、尾張守護であろう土岐伊予守にあて、在地の武士層(例えば、猿子弥四郎<これは、土岐一
              族の傍流であり、東濃地域の在地武士ではないか。・・筆者注>、神戸新右衛門等12氏等による)の篠木、
              富田両荘への乱暴を鎮めるよう命じているし、去々年両荘の土地全て寺家に返付したが、国中物騒の間隙
              をぬって、またこれらの武士達が、立ち帰り乱暴していたという。」(以上 春日井市史 参照)、当然、林・阿
              賀良村へも、こうした在地武士層の押領が、あったのでありましょう。14世紀末頃以降の事柄であり、現 林
              の祥雲寺の創建も、文正年間であり、これは、応仁の乱{応仁元(1467)年}の前の頃であるようです。
               
               とすれば、長源寺は、早ければ14世紀末頃、若しくは15世紀中頃のどこかで、消滅したのでしょう。在の
              古老等にも長源寺と祥雲寺との関わりが、何ら伝わっていないと言う事は、やはり、連続性がなく、かなりの
              間隔があり、その後、祥雲寺が創建されたのではないかと言う事に意を強くいたします。

               14・15世紀には、かっての林・阿賀良村の在地耕作者等は、どうしたのであろうか。三明社の社人は、
              「 郡史の記述通り、承久の乱でも、応仁の乱でも、しぶとく生き延び、天正年間の戦国時代に、とうとう身
              の危険を感じて、遁走したという。その後、この三明社は、祥雲寺が、引き取ったという。」

               とすれば、二ノ宮領へ寄進されてからは、耕作者の上部にいた大縣神社の神宮寺系の僧や大縣神社
              の寄人( 大縣神社の神官ではなく、その下で活動する神社の非農耕民 神人ジニン )によって実質管理
              されていたのでしょうか。三明社の社人もこうした人であったのでしょうか。天正戦国時代以降は、この地は、
              どのような在地構成になっていったのでしょう。すっかり在地の構成員も様変わりしたのか、しぶとく生き延
              びてみえたのでしょうか。

               小牧の草分け的史家 入谷哲夫氏は、JA尾張農協 広報誌 ふれあい 2011年11月号誌上で、「林
              村と三明神社と」と題して記述されていますが、そこの文末に気になる言葉で締め括ってみえました。
               「 さて、余一左近の名が気になる。戦国の世に、この地に登場する余語右近の事。広大な屋敷を構え、
              信長・秀吉に仕える郷士一族と同族では?この地に余語姓が、多いのも符号する。」 と。生き延びてみ
              えたのでしょうか。

               入谷氏は、鎌倉末期以降の林村の在地農民 余一左近系の一族が、武士化して、戦国期には、信長・
              秀吉に仕える郷士となったのではと推測されているのでしょうか。或いは、比良で居住していた余語氏(後
              の佐々氏)と同族の者ととらえてみえるのでしょうか。

               南北朝期には、二ノ宮宮司 原 大夫家は、南朝方に組して武士化し、その権益を死守しようと奔走し
              ていたようです。とすれば、当然下部の林・阿賀良村の余一左近等の末裔も在地に居住していたのであ
              れば、武士化していたと推測できるかと・・・。

               南北朝頃には、美濃守護 土岐家の家人と戦闘になり、土岐家の家人は、賊首20ばかり取ったという
              記述も残っているようです。

               また、三明社の社人は、「郡史の記述通り、承久の乱でも、応仁の乱でも、しぶとく生き延び、天正年間
              の戦国時代に、とうとう身の危険を感じて、遁走したという。その後、この三明社は、祥雲寺が、引き取った
              という。」記述に従えば、この地域には、従来の慣行が存続しえていたという仮説も成り立ちうるのではない
              かと。

               そこで、入谷氏の「 さて、余一左近の名が気になる。戦国の世に、この地に登場する余語右近の事。広
              大な屋敷を構え、信長・秀吉に仕える郷士一族と同族では?この地に余語姓が、多いのも符号する。」 と
              いう言葉になるのでは・・・。
               
               当然、信長に仕えたのであれば、信長の氏神様である天王社を当地に勧請するは、必定。多い筈であ
              りましょうか。

               この祥雲寺を平成25(2015)年6月1日の午前中に訪れましたが、偶然、この寺の前住職の方が、境内
              にみえ、お話を聞く機会を得ました。その時、前住職の方から「この寺は、以前には、当地ではなく、三明社
              の西側近くにあった。」という謂れがありますとも言われた。江戸時代の天保12年の林村絵図で言えば、「
              三明社近くの東屋敷辺りにあった。」のでしょうか。いつ頃この当地に移転されたのかは、聞き漏らしましたが、
              天保12年の村絵図では、既に、高台に記載されていました。「氾濫等の為に高台に移転したのでしょう。」と
              も言われていました。その話の後には、入鹿池の堤が切れた入鹿切れのあの大惨事と混同するような言葉が
              続き、私も少し戸惑いましたが、これって、この寺のご先祖様からの伝承とあの入鹿切れの大惨事が繋がり、
              言い伝えられてきたとすれば、この辺り(林・野口・池之内一帯)で、大規模な土石流が、14世紀末〜15世紀
              中頃のどこかで起こったやも知れません。田は、大打撃を受けた可能性もありましょう。畑地と住居は、天保の
              絵図では、高台に集中していましたから、洪水の難から逃れる為の位置という可能性を推測いたしました。そ
              れ故、仮に低地にあったとすれば、寺を高台に移転し、現在に至っているとも推測できえましょう。

               小牧市史に記載された祥雲寺創建が、文正年間(応仁の乱の前頃)と言う事は、高台移転時の創建を言っ
              ているのでしょうか、或いは、低地にあった祥雲寺の創建時をいっているのであろうか。

               この謂れが、事実であれば、かっての長源寺は、三明社の西側に建立されていたのでは・・・。その後、年
              数が経ってから、祥雲寺が、創建されたのでしょう。三明社は、天正戦国時代まで、旧来の社人が、居て、存
              続していた可能性が高いと言えましょう。

               このような事を前和尚さんの話を聞きながら、考えておりました。そして、前和尚さんにお礼を言って、家に
              帰りました。