小牧市林 余語右近将監の碑を訪ねて

          1.はじめに
             小牧市林 祥雲寺南西寄り直線距離にして250m位の所に建立されていた。確かにこの小牧市林地区
            には、現在でも余語姓は多い。

             平成25(2013)年6月11日(火)の午後、愛車を走らせ、その碑が建っている所へと急いだ。この辺り
            の水田は、既に田植えも終わり、全ての田には、水が張られ、苗が綺麗に植えられていた。

             インターネット上には、2つ3つ位余語右近将監の碑の写真と共に、織田敏定にはせ参じた近江の土豪
            余語蔵人盛政に関わるのでは・・・。という解説のように受けとりました。また、時期的には、応仁の乱・文
            明の乱(1467〜1477年)辺りでしょうか。

          2.小牧市林 余語右近将監の碑の前にて
             石垣の上に碑は、鎮座されていました。その碑の左横面に、昭和24年建立と書かれていた。戦後間も
            なくこの地に住んでみえる余語氏のどなたかが建てられたのではないか。近くで農作業をされてみえる方
            に声をかけ、お聞きしますと、この方も余語という苗字であり、詳しい事は分かりませんが、私が嫁に来た
            ときからありました。どなたが建てられたのか分かりませんという返事でした。昭和24年生まれの方でも、
            早64歳。この碑の建立された事を地元の方で、直接見てみえた方が居られるのであれば、確実に75歳
            前後以上でありましょうか。経緯をよく承知されている方となると何歳以上の方になるのでしょう・・・。

             更に、石垣にあるこの碑よりも中心の建物であるかのように祠が4つ納まったお堂が建っている。「このお
            堂は、すぐ西の家の大工さんが建てられたとの事。」( 碑を尋ねた時にお会いした余語姓の方からお聞き
            した事柄であります。・・筆者注)

             この4つの祠の3つは、天照大神・八幡神・春日大神である事は、立て札で確認出来ましたが、あと一つ
            は、何であるのか判りかねました。他のHPでは、このお堂は、神明社であるという記述でありましたが、最近
            の地図上には、こうしたお堂は、何ら記載されていないようです。

             碑は、この建物の西よりのほんの一角に鎮座しており、明らかにこの建物の後に、建立されたのでありま
            しょう。

             しかし、江戸時代の天保12年丑6月の春日井郡林村絵図には、どこを探してもこの祠は、記載されていま
            せんから、明治以降の祠なのかも知れません。江戸末期の村絵図には、そこに近い場所には、「山神」なる
            所として記載されていました。他のHPでは、この土塁は、余語氏の館跡ではないかという記述もあり、どのよ
            うな根拠で以って推測されているのでしょうか。

          3.郷土誌かすがい 第6号 重松明久氏(当時広島大教授)の記述 ふるさとの歴史「中世武士と農民の社会」より
               (  http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi06.html  参照 )
 
             重松氏によれば、応永年間(1394年〜)頃以降 足利一族で3管領の一角を占める 斯波氏が、尾張守
            護を世襲されていたという。当然斯波氏は、京都に在住し、尾張へは、守護代(代官)として越前より織田氏
            が入国し、支配したと言う。

             「この織田氏は、二派に分かれ伊勢守系は、拠点を岩倉に置いて、春日部・丹羽・葉栗・中島郡の上4郡を
            諸将により分割統治していたと言う。
             対して、出雲守(後の大和守)系は、清洲に拠点を置き、海東・海西・愛知・知多郡の下4郡を統一支配し
            ていたと言う。」( 信長公記 参照 )

             応仁の乱(1467〜1477年)では、伊勢守 敏広×大和守 敏定が、尾張一国をかけて戦ったという。
                            結果は、大和守系が勝利したのでしょうか。この後その大和守の傍系である織田信長の父 信秀が尾張一
            国を統一したようです。紆余曲折がありましたが・・・。

             http://www.geocities.jp/buntoyou/f3-3/a-f-owari019.html  尾張の城019には、次のような記述がして
            あります。( おそらく、武功夜話からの抜粋でありましょう・・・・。筆者注)
             「延徳三年(1491年)に尾張守護職斯波武衛は、清洲城の織田敏定に近江の佐々木六角氏を攻めさせま
            した。甲賀山に陣を構えたところ、余語蔵人(佐々盛政)なる者が参陣しました。余語氏は敏定に従い尾張に
            入り、敏定が楽田城に入り、余語氏は小坂氏とともに代官職を仰せ付けられ、余語氏は比良(名古屋市西区
            山田町)に屋敷を給わり居住しました。」とあるようです。

             既に延徳3(1491)年には、大和守系の敏定が、尾張一円を支配化においていたのでしょうか。
             しかし、武功夜話(余り信用できないという。)等によれば、佐々木六角氏攻めは、3回行われたという。延
            徳3(1491)年は、最後の攻撃であり、余語氏等の尾張入国は、最初の攻撃後であり、長享年間(1487〜
                           88年)後 であったとか。

             詳しくは、最下段の付記を参照して頂きたいのですが、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年
            刊行 新人物往来社 P.26には、「武功夜話からの抜粋として」 { 治郎左衛門様(清洲城の織田敏定の一
            族カ・・筆者注)江州御引き払い尾州に御帰陣。小坂、余語の両人御伴仕り尾州へ入国、尾州春日部郡居住
            の初めなり。春日部郡篠木、柏井の三郷の地は、治郎左衛門楽田に御城構えられ、春日部郡篠木、柏井の
            三郷御取り抱えなされ、御台地と定められよって、余語、小坂に御台地の代官職を仰せ付けられ、春日部郡
            柏井吉田なる処に屋敷を給わりこの地に居住候なり。}とある。これが、長享年間(1487〜88年)の事であっ
            たのでしょうか。とすれば、応仁の乱(1467年)の始まりから20年後という事に成りましょう。

             (大胆な推測が許されるのであれば、この篠木荘の北半分は、余語氏が代官職を行使しえる地域ではなかっ
            たかと。実際は、比良(名古屋市西区山田町)に屋敷を給わり居住したのでしょうが、比良に居住した家臣であ
            る余語氏(後の佐々氏)の一族が、<美濃系の余語一族>を、余語姓を名乗ってこの地に居住させ、郷士化し 
            ていった可能性も推測できえるのではないでしょうか。
             その結果、この林地区には、余語姓が多いと言えるのではないかと・・・。その為でしょうか、林には、天王社が
            一つ、池之内には、二つ存在する。織田信長が、氏神とした津島の天王社でありますので、家臣の一族であれば、
            積極的に勧請して祀るのではなかろうかと推測いたしますが、どうでしょうか。)

             そして、信長の時代には、信長が、篠木(篠木上・中・下)三郷を直轄領(知行地)としたという。            
             
             その傍証として、「信長公記」や現 春日井市柏井の当時地侍 柏井衆の一員であった前野氏に残る前野文
            書には、天文18(1549)年1月17日の事として、犬山勢が、柏井・篠木にあった織田氏の御台地(食料確保
            地)の押領を企て、押し入った事の顛末が記録されているという。
             郷土誌かすがい 第43号 春日井の人物誌 小坂孫九郎雄吉について、春日井市郷土史研究会員 石川
            石太呂氏の記述に依拠しております。

             既に天文18(1549)年頃、16世紀中頃には、信長は、柏井にも篠木にも御台地(直轄領)を持っていた事
            になりましょうか。この柏井の御台地警護をしていた者は、上条城の小坂氏、佐々平左衛門・佐々蔵人(何れ
            もかっての余語氏一族でありましょう。・・筆者注)という比良に居住した者達であったようです。篠木の御台
            地についての記述は、ほとんど出てきません。犬山勢の目的は、信長が、弱っている頃を狙って、大口(大久
            地)目代を使者として、訃厳(信清)殿(信長と同時代のまた従兄弟カ)の趣旨を上条城主 小坂氏に伝え、味
            方にしようと画策した事から始まるようです。

             大留城主 村瀬氏は、寝返っている。貴殿もわれ等に味方してくれれば、この柏井の御台地は、勝手にされ
            るがよいという事で、談判に来たという。犬山勢の目的は、守山の奪還にあったのであろうか。
             小坂氏は、直ちに大留城主 村瀬氏の真意を確かめ、謀反の心なしと判断し、現 春日井市内の野武士達、
            こうした柏井衆(前野党・蜂須賀党・梶田党)の地侍・野伏等にも、上条城主 小坂氏は相談した所、信長の父
            織田信秀の恩顧・義理があり、こうした心情を法度として、一致団結、事の顛末を信長・孫三郎に注進。犬山勢
            に対処し、駆逐したようであります。

             当時守山城は、織田孫三郎が、守っていたとか。犬山勢の中には、岩倉七兵衛(信安)尉殿(もしかして 岩
            倉を拠点とした織田伊勢守系の一族カ・・・筆者注)も加わっていたという。とすれば、内紛であったかも知れない。

             小牧の草分け的な郷土史家 入谷氏によれば、鎌倉末期の尾張国林・阿賀良村の有力者 余一左近と室
            町末期の余語右近が、何らかの繋がりが有りはしないかと類推されているのではないか.。或いは、比良の地
            の佐々氏(かっての余語氏)の一族が、移住したと推測されているのか。どちらでありましょうか。
          
                             林に余語氏が、住み着いたとすれば、早くて15世紀終わり頃かと、本当に林地区には、余語姓が多く、余語
            でなければ、林ではない。と言うくらい居住民が、入れ替わったのであろうか。

             であれば、鎌倉末期頃まで林地区に存在した長源寺なる寺のこと等、既に早ければ室町前期頃、遅くとも応仁
            の乱のかなり以前に消滅していたのでありましょう。
             現 小牧市林地区にある祥雲寺(1467年頃創建カ)の創建前にここには、長源寺があったのではと考えるので
            ありますが・・・・。この長源寺は、三明社の神宮寺的存在であったのではないかと大胆にも推測いたしております。

             そうであるならば、林地区に去来したかも知れない余語氏一族は、長源寺の消滅後であり、林地区に祥雲寺が、
            創建された後頃の応仁の乱終結後10年位経ってからの移住でありましょうか。先住の住民を駆逐しての移住であ
            ったのか、先住民との婚籍関係等で浸透していったのか、或いは、応仁の乱前に起こっただろう大規模な山津波
            により、壊滅的な状況となり、この地域の代官になったが故に、美濃に居住していた余語一族を招聘したやも、の
            いずれかでありましょうか。

             先日、祥雲寺の前の住職さんとお会いでき、いろいろお話を聞く事ができました。その中で、「昔は、現在の位置
            ではなく、もっと下の三明社の西より辺りに建てられていた。」という事をお聞きし、併せまして、「かって入鹿池の水
            が押し寄せ、大惨事となり、それ以後この高台に移った。」と言われ、目をぱちくりさせてしまいました。天保12年
            丑6月の春日井郡林村絵図には、しっかり現在の位置で表されており、むしろ、江戸末期、明治期のあの入鹿切れ
            の大惨事とご先祖さまからの伝承が交じり合い、そのように言い伝えられてきてしまったのではと推測いたしました。

             おそらく、かってない大豪雨があり、山からの土石流等で、壊滅的な被害を蒙り、そうした事が、言い伝えられてき
            ていたのではないでしょうか。平成の御世でも、この地区に近い大山では、今から10年ほど前の東海豪雨(あの庄
            内川から余分な濁水を新川に流す構造になっていた、その新川が決壊し、大惨事となった。)で、土石流が起こり、民
            家が押し潰され、お亡くなりになった方もあったかと。これだけ土木技術が進んだ、平成の世でも、自然の脅威には、
            勝てないようであり、ましてや、15世紀前後頃であれば、尚更、脅威であったのでしょう。そして、現在は、大山川は、
            水量も少ないちょろちょろ川でありますし、かなり浸食され掘り下げられた状態の川でありますが、15世紀前後頃は、
            氾濫もする氾濫源であったのでしょう。

             上記の推測が、的を得ているのであれば、現 林地区に居住されている方々には、鎌倉期の長源寺のこと等が、一
            切伝わらなかった可能性が高いのでは・・、現在の林地区の居住者の方に長源寺の事をお聞きしてもまったく反応が
            ない、まったくご存じない事なのでありましょう。或いは、そうした悪夢は、記憶のかなたへと忘れられていったのかも・・。

             そう言えば、江戸期の現 愛知県春日井市 内津地区の大きな商家(酒を造ったり、薬を作って手広く商いをされ
            ていた。)のその家の方に昔の事をお聞きしても、ご先祖様の事であるにも関わらず、まったく伝承されていなかっ
            た事をお聞きした事もありました。ましてや、自分のご先祖ではない事柄等、伝わる筈もないということでありましょう
            か。

                             私の家の家系でも、父・祖父・曽祖父までしか追えません。明治の頃までが、限度ではあります。

                          付記
             上記の拙文をしたためた後で、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 を目に
            いたしました。

             この編著者である浅野 清氏は、以下の資料等をつぶさに概観されたようです。
                   ・ 富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜
                   ・ 北之聖廟縁起  ( 近江国余語庄七郷出自の盛政系図 )
                   ・ 姓氏家系大辞典 ( 菅原姓余語氏流 前項 尾張の佐々氏 )
                   ・ 信長公記
                   ・ 武功夜話

             佐々成政の父としては、佐々木成宗か余語盛政の二人が、主に挙げられているという。二人は、名こそ違えど、
            同一人物であろうと考えられているようであります。

             富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜より

                                     |ー 長盛 (三州 衣 城主)
                                     |ー 盛種 (濃州 坂井兵庫 養子 右近将監 政尚)
                                     |ー 成政 (菅原内蔵介 後 陸奥守)
               盛政ーーーーーーーーーーーーーー|ー 正之 (坂井久兵衛 三州 衣 城主)
                ( 余語右衛大夫菅原入道梅哲 )|ー 某   (坂井久三郎 三州 衣 城主)
                                     |ー 女   (毛利河内守 室)

             氏によれば、武功夜話の余語氏も井関に城を構えていた佐々木氏も同一人物とか。この集団は、一人の指導
            者の下に纏(マト)まっていたが、尾張に入って来たのは、その一族及び婚籍関係を含めた同族だと考えてみえる
            ようであります。

             氏は、琵琶湖近くの余語から複数の有力者が来たのであろうと。
             一人は、佐々木成宗、又は盛政と名乗った井関城・比良城関係者。
             又一人は、濃州 坂井家に養子した余語右近将監の一群で、坂井右近将監や尾張 林の余語氏。
             他の一人は、後の三州の衣 城主 余語正勝・久三郎等の一群。

             同上の佐々成政は、敗軍の将となった為、確かな記録は、少ないようで、あっても敵方の資料であり、敵方に有
            利になるように記録されていた故に、正確さがないという制約があるという。が、上記の氏の概観は、その最大公
            約数的な現時点での結論かと思えました。