尾張 式外社 津島神社を訪れて
1.はじめに
濃尾平野を東西に縦断しながら、我が家から公共交通機関のバスを乗り継いで、津島まで行きました。
小牧駅から岩倉行きのバスに乗り、岩倉からは、名鉄尾張一宮駅行きの名鉄バスに乗り換え、一宮駅
からは、名鉄電車で、津島駅へ。朝 9時23分のバスに乗り、名鉄一宮駅に着く頃は、11時を過ぎていま
した。津島着 11時41分でした。
出かけたのは、平成25(2013)年1月17日。やや北風の強く吹く日でした。
津島神社までは、駅から歩いて10分程と聞き、津島市が、民間に委託しているバスに乗るまでもないと
勇んで歩き出しましたが、兎に角寒い。やはり乗るべきであったかと思いました。
2.津島神社へ向かう
駅から5分程歩くと、左道路わきに白山社がこじんまりと佇んでいた。裏階段を登り、境内に入ると、いち
ょう?の古木が、あり、幹は、大人の二抱え半もある太さで、上の部分は、切り取られ、その代わりに細かい
枝が、至る所からから伸びていました。更に進むと、天王通5交差点辺りに堤下神社があった。
その神社の由緒書きを読めば、この神社と津島神社の間には、天王川( 木曽川派流で、別名 古川 )
が流れ、川巾 300m(百数十間)もある大河であったという。
先に記述した今伊勢古墳群を流下し、この津島方面へ流れていた古川の最下流域であるのでしょう。
そして、織田信長が天下を統一しかけた時、この天王川に掛かる橋から、天王祭りを観覧したという事の
ようでした。かなり大きな橋であったと推察いたします。
その後、秀吉・家康により木曽川派流は、木曽川本流の連続堤の完成により、水源を断たれ、かっての
水流も水量もなくしていったようです。僅かに木曽川から取り込んだ用水の水により、細々とした水流を保ち
流下する河川に落ちぶれ、雨水を排水する河川へと変貌していったと思われます。
3.津島神社とその近辺を散策して
津島神社の方を向いて左手側には、大きな池が残っていた。池の中ほどには、中洲の跡を島のようにした所
があり、ご老体が一人何やら考え事をしてみえました。
この池は、かっての天王川の成れの果ての姿であるという。江戸時代の中頃に、天王川を堰きとめ、上流
部分を埋め立ててしまったという。(江戸時代に日光川を新たに造り、排水を確実にしたようで、旧河川は、そ
の為廃川にされたようです。)確かに天王通 1交差点は、一段と低い位置にあり、この辺りの南北域が、旧河
川の流域であったのでしょう。現在の池巾は、100m以下であり、相当狭められて残ったものと推察いたしまし
た。
池の津島神社側には、その当時の堤防でありましょうか、土手には、松の他に、シイの木の古木(スダジイ)
が、二本残っていました。幹の太さは、大人の二抱え半はあろうかという立派な物でありました。この池と神社
の間には、神官の家でしょうか、立派な門構えの屋敷も、残っておりました。
やはり、この津島神社は、織田信長が活躍した頃より少し前の創建なのでしょうか。この神社になる前は、式
内社である神社があり、その神社が、祭神がスサノウであったのではないか。特にこの津島神社の境内にある
摂社をみてみると、居森社(祭神 スサノウ)、柏宮(居森社を移築)、津島本殿のお札所の後ろ側に、かって退
治したヤマタノオロチを祭る毒蛇神社を由来とするスサオウの荒ぶる御霊神社が存在し、スサオウが妃にした
クシナダ姫の社も存在している。とすれば、こうしたスサオウ関連の神社に、牛頭絡みの神とが融合した結果、
京都の八坂神社の牛頭天王と同じ天王祭りとなっていったのでしょう。それほど古い時期ではないと思われまし
た。
この牛頭天王は、病気にならない神であり、集団で住むようになる都市住民にとっては、死に繋がる伝染性の
病気は、脅威であり、逃れたいのでありましょう。そうした事に対する信仰が、天王信仰であり、平安京で、広まり、
この津島の地でも、広まったようで、京都とは、直接の関連はなさそうであるという。
こんな事等を考えながら、津島神社とその近辺を散策して帰路につきました。