番外編 尾張 式外社 津島神社ついて 




             ・ 津島神社
                この津島神社は、式外社であります。津島のお天王さまと親しまれており、全国約3000社に及ぶ総
              本山の神社であります。ここの天王祭は、京都八坂神社の祇園祭と同様の夏祭りの代表であり、祭神
              は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)であるという。

                津島は、牛頭天王とは、直接習合してはいないと、備後風土記(岩波版)の頭注には、「武塔神と牛
              頭天王は、同一ではなく、武塔を神名として須佐之男命に習合したもの。」と注釈をつけている。が、ど
              こで、どうすれ違いが起こったのか、定かではないようです。

                一つには、備後風土記の逸話に「昔、武塔の神が、諸国巡行の折、日が暮れたので、蘇民将来(そみ
              んしょうらい)と巨且将来(こたむしょうらい)という兄弟の家に宿を借りようとしたという。富豪の弟(巨且)
              は、断り、貧しい兄(蘇民)は、快く留めたという。武塔の神は、再度この家を訪れ、蘇民の娘一人に、厄
              除けの教えを授けられたという。
               『吾は、速須佐之男神なり、疫病が流行したら、蘇民将来の子孫と言って、茅の輪を腰に付ければ、子
              孫は、疫病にかからない。』と武塔の神が言われた。」 と記述されているという事からそのようになったと
              もいえましょうか。

               豊臣秀吉もこうした違いを知りえた一人であったのでしょう。津島の天王祭を京都に移す事を企てまし
              たが、地元は大反対。結局くじ引きで、決める事となり、最初に引いた豊臣の使者は、外れくじを引いた
              とか。神の結論であるとして、渋々引き下がったという逸話が残っています。が、・・・・。

               よくよく真実を知れば、地元の知恵者が、両方外れくじにしておき、最初に敬意を表して、豊臣の使者
              に引かせ、外れにしたと言う、裏話も付いているようであります。それで、現在も津島は、お天王さまと言
              われているとか。

               天王祭が、始まった年代は、確かな史料がなく、創始年代は明らかではありません。現存史料としては
              「大祭筏場車記録」(仮称)があり、大永2年(1522年)から車楽船の置物人形などが記されており、当時す
              でに祭りが行われていたことがわかります。これらのことから15・16世紀には始まったとされ500年以上の
              歴史があるようです。
     
               天王祭の舞台は、現在は天王川公園の丸池となっていますが、江戸時代の天王川(津島川)は三宅川、
              萩原川(日光川)が合流した川(古川とも呼称)で、さらに佐屋川に合流し、伊勢湾につながっていました。

               津島天王祭は「津島のお天王さま」とも呼ばれた津島天王社の祭礼であり、旧暦の6月14日・15日両日に
             行われていました。京都の祇園祭では山鉾巡行が行われますが、津島天王祭は川に船を浮かべて行います。
              それはかつて津島が伊勢と尾張を舟でつなぐ湊町だったからのようです。

               天王川(古川)には天王橋が架かっており、戦国時代、織田信長は、この神社を氏神様とされたようで、故
              に、この神社の神紋は、織田家と同じ紋であるという。信長は、この橋から津島天王祭を観たと言われており
              ます。津島天王社が鎮座していた地は「向島」と称され、江戸時代には津島天王社の神領(御朱印地)であっ
              たという。

                                 {尾張の津島神社は、どのような縁起をもち尊崇を集めて今日に至ったか。 社伝と江戸時代刊行の「張
              州府志」「張州雑誌」「尾張名所図会」には大略次のように述べられているという。
               古くは津島牛頭天王社といい、牛頭天王(スサノヲノミコト)を祭祀する。
               起源は、孝霊天皇45年、スサノヲノミコトの和魂が韓郷の島より帰朝し、先ず西海の対馬に光臨し、欽明
              天皇元(540)年に、この島(対馬)に光臨した。津島は旧名は藤波の里といったが、対馬から光臨したこと
              にちなみ津島と改名。弘仁元年(810)正1位日本総社、正暦年中、天王社の号を賜った。

               諸国天王社の本社で全国に3千の分霊がある大社であるという。
               神徳は、祭神が牛頭天王であれば当然、疫病の除厄と稲の害虫除け。祭日は旧暦6月15日。
               だが祇園社と同じく津島神社も式内社ではない。しかし平安中期には式内社に比肩する勢力になり天王信
              仰は広く農村各地に伝わっていったという。

               それほど古い社であるのに式内社でないとは一体どういう理由か。それは神社の名が変ったからではなか               
              ろうか。元は別の名であった神社が天王信仰と結びついた時点で独立して津島牛頭天王社となったのでは
              なかろうかと考えられるようであるという。元の神社は縁ある社としてそのまま残して。
               「張州府志」「張州雑誌」の作者もいう。「津島天王社の前身は藤島神社であったか。あるいは憶感(おかん)
              神社ではないか」と。
               いのぐち氏も、藤島神社も憶感神社もれっきとした式内社であり、現在の祭神は藤島神社はイチキシマヒメ
              というスサノヲの娘神、憶感神社は日龍神で雨水を司る龍神。どちらもスサノヲと縁が深い。またオカムという
              音はオホカミ(大神)に通じないか。「古事記」は、出雲を掌握しオホクニヌシに譲った後のスサノヲを「大神」と
              書いている。スサノヲは大神になった。また、オホカミは大和の大神神社にも通じ。大神神社の祭神は大物主
              神(大国主神の別名)。大国主神はスサノヲの子とも6世孫ともいわれる出雲の神。現 津島神社の祭神は、主
              祭神 建速須佐之男命、御相殿 大穴(おおあな)牟遅命(大国主命)である。可能性は否定できない。

               更に確かな論拠は津島神社の摂社の祭神である。「張州府志」等によれば、「居守社」「柏宮」はスサノヲノミ
              コト。「一王子祠」はスサノヲの妃クシナダヒメ。「八王子祠」はアマテラスとの間の5男3女。「大黒祠」はオホクニ
              ヌシ(大国主神)。「若宮御前社」は大国主の長男コトシロヌシ。「蛇毒神祠」は八俣の大蛇の霊。「當下御前祠」
              はスサノヲの子イタケル…。というようにスサノヲ一族が並び、そこに「蘇民将来」や「神宮寺」の薬師堂などがあ
              る。
               これからみれば、牛頭天王社が先にあったのではなく、スサノヲノミコト社に牛頭天王が習合されたことが明ら
              かである。 }(     以上の内容は、尾張の天王信仰 いのぐち泰子氏 郷土史かすがい 第56号 
               http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004429/kyodoshi56.html
                        
参照 ) と述べてみえる方もあるようです。