尾張の古地図から類推しえる縄文期・弥生期の地形と海岸線についての雑感

            1.はじめに
               かって亜炭の事を調べている時、東春日井郡誌に添付されていた地図だと思いました。その当時
              は、一体いつ頃の地形図であろうとか、本当かいな位で終わっていた。猿投神社の古地図は、郷土
              誌第49号ではじめて知りました。

                < 伝承による尾張古代考1 二つの古地図の語ること (郷土誌かすがい 第49号所収)より
                 抜粋した地図であります。>
                  

              二つの地形図をよくよく眺めれば、同じ時代の尾張地域の地形図であろう事が納得できるのではな
             いでしょうか。やや、図1の方が、現代の三河湾や知多半島に近い表示の仕方ではありますが・・。

              さて、図1は、「文化11年(1814)、春日井郡玉井之神社修復の際発見したるものより縮写し……」た
             ものであるようです。また、図2は、豊田市猿投(さなげ)町の猿投神社に伝わる古地図を 伝承による
             尾張古代考1 二つの古地図の語ること(郷土誌かすがい 第49号所収)を書かれた井口泰子女史
              の手により書き直され起こしたものであるという。この古地図は、社伝によれば、養老年間(717〜724)
             のものとされているようです。

              更に大胆な推論を加えれば、図1より図2の方が、やや時代的には、新しいのではないかと。また、こ
             の二つの図は、満潮時の特徴を捉えた地形図とすれば、陸地奥まで侵入している海は、遠浅の海であ
             り、干潮の時は、現代の九州有明海的な状況になっていたのではないかと推測いたしますが、どうでし
             ょうか。

              とすれば、満潮時の海岸線は、砂地でありましょうが、それ以外は、泥層であり、かなりの厚みであった
             ことでしょう。大河が幾筋も流れ込み、時として豪雨後には、砂洲が、至る所に出来えていたことでしょう。

              さて、2013年現在、考古学は、発掘が進んで、弥生前期の弥生集落が相当数尾張平野において確認
             されています。

              愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第1号 2000.3 に”愛知県の縄文遺跡 (1) 尾張北部地
             域について と題して 川添和暁氏の論文が載っております。その中に 図3 尾張北部の主要縄文時代
             の遺跡分布図があり、その論文の図により、縄文期の河川(庄内川・五条川・大山川)が流下していたと思
             われる海岸線を推察できうるのではないかと。

              例えば、図中 15 朝日遺跡は、現 清洲、16 貴生町遺跡は、現 名古屋市西区貴生町 東名阪
             自動車道 山田西・平田ICの中間辺り、名鉄犬山線 上小田井駅近辺、17 月縄手遺跡 主は、弥生
             前期の遺跡であり、環濠集落があったと思われます。現 名古屋市西区比良 東名阪自動車道 楠JC
             T・山田東ICの中間辺り 近くには庄内川にかかる新川中橋もあり、洗堰緑地公園もあり、これは、現在
             も遊水地としての機能を持ちえている所でありましょうか。古代の大山川が、庄内川に注ぎ込んでいたか、
             海であった所ではないかと。とすれば、この15・16・17の遺跡より下がった辺りに縄文・弥生期の海岸
             線を想定でき得るのではないかと思うのであります。

              さて、下図 図3 愛知県地形区分 (この図も、郷土誌かすがい 第49号 井口女史の論考からの抜
             粋であります。) の丘陵・台地と濃尾平野との境の線は、上図 図1・2の海岸線に何と似通っている事か。


                   

              図1・2で、年代が社伝で知られるのは、養老年間 いわゆる8世紀初めの頃かと。考古学上は、現 名
             古屋市西区貴生町、西区比良及び清洲辺りは、8世紀頃には、すっかり大河の堆積作用により陸地化し
             ていたと推測できるのであり、この辺りは、かろうじて縄文・弥生期、弥生期と仮定しても、いくら早くても紀
             元前1000年頃より前では無い筈でしょうから。

              とすれば、図1・2は、想像図とも推測できえますが、語り部としての地域に根ざす昔話にも、この辺りは、
             昔、遠浅の海であり、湿地であったとか、萱が生い茂る地域であったという伝承が残っておりますから、あ
             ながち作り話とも断定しがたく、大河による湿地状況が、相当遅くまで続いていたと考えられましょうか。

              干満による水没状況があり、微高地状の土地のみが、水没を免れていたとも考えられるのではないか。
             それ故、海岸に近い、弥生前期の集落(清洲)では、塩害の為、水田耕作は、不調であったとも初期の頃
             は推測いたしますが、どうでありましょうか。清洲の朝日遺跡の水田耕作は、中期以降に本格化したので
             はないかと。

              上記 図1・2の地形は、縄文海進が、最高潮に達した頃の地形と考えれば、それなりに妥当な所とも解釈
             できえましょうか。こうした縄文海進は、今から、6000〜5000年前頃止まったという。その後、寒冷化と共
             に、海岸線は、後退していき、江戸初期頃の海岸線で、留まったと云えるのはないでしょうか。早くても今から
             2000年前には、弥生期の海岸線になっていたでありましょうから、約3000〜4000年かかって大河による
             堆積作用は、休むことなく継続され、しばしば流路を替えつつ、遠浅の海を埋め立てていった事でありましょう。

              それと同時に、塩害に強いスダジイ等の木々の種が、鳥等に運ばれ、やがて、埋め立てられた地域に進出
             していったと考えるのは、推測し過ぎでありましょうか。