尾張四観音の一つ甚目寺観音について
1.はじめに
尾張の四観音の事を知り、一度訪ねてみようと思っていました。寒さも和らいできた平成30(2018)年3月15日(木)最高気温が、20度近くまで
上がるという予報にふらっと出かけてしまいました。
家からは、ピーチバスで、小牧駅へ。再度バスに乗り継ぎ岩倉駅へ。そこからは名鉄電車にて新名古屋駅、乗り換えて岐阜行き急行で、須ヶ口駅
まで。再度乗り換え普通 津島行きで、一駅先の甚目寺駅へ。家を9時頃出て、着いたのは、11時頃であったかと。岩倉で電車に乗る前に、たこ焼き
とタイ焼きを購入。甚目寺観音で、ゆっくり食べようと考えたからでした。
甚目寺駅に着き、改札口を出ました。目的の甚目寺観音は、徒歩5分の所と理解していましたが、案内看板がなく、踏切を渡るべきか、渡らないで
行くべきか迷いましたが、渡らないで左手方向へ進んで行くと丁路地の所に甚目寺観音への矢印が出ていました。
駅からストレートには行けないようです。
2.甚目寺観音
南大門ではなく、東門に辿り着きました。くぐると四国巡礼が、一瞬のうちに出来てしまう造りの区画に遭遇しました。おそらく江戸時代頃に庶民のため
設置された巡礼道でありましょう。お歳を召した女の方が、お参りにみえていました。
一応順路としては、南大門からと思い、そちらへ向かいました。本殿近くには、スダジイでありましょうか大きな古木があり、創建は古いという印象を持ち
ました。現在の南大門の中の仁王像は、修復作業にて戦国武将の福島正則の寄贈とか。南大門は、建久7年(1196)からの聖観上人による中興の際
の造営で、現存する甚目寺の建物中で最も古い。脚部に桃山時代(慶長2年)に造形された仁王像を納めるとか。
鳳凰山甚目寺も紆余曲折があって、今日の姿に落ち着いているようです。
参道を本堂に向かって歩くと、左に美形の三重搭がある。三重搭(重文)は寛永4年(1627)の造営で、搭内には愛染明王坐像が安置されている。愛染
明王像は鎌倉時代・弘安7年(1284)以前の作と考えられている。この像にも9.8cmの合子に収納された像高6.6cmの精巧な愛染明王坐像が胎内仏
として収められているとか。この三重塔は、江戸時代の名古屋の郷商さんのご寄附とか。
初発は、もっと古く、7世紀頃まで遡るようで、壬申の乱(672年)以降の造寺ブームではなかろうか。甚目寺境内からは、古代瓦等も出土しているようで、
この地域の豪族 甚目(ハダメ)氏に関わる甚目(ハダメ)廃寺があったのではなかろうか。
天平6(734)年の尾張正税帳には、中島郡の郡司?でありましょうか甚目(ハダメ)□多希麿なる人物がいる。□は、欠字であるようですが、おそらく連(ムラジ)
ではなかろうか。この辺りの豪族であったでありましょう。(https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10004732/0/kouza/section7.htm 参照)
いつしか、甚目(ハダメ)氏一族は、衰退し、当地の寺も廃寺化し、鎌倉期になって、中興の祖 聖観上人により再興され今日に至っているのではないかと。
文永元年(1264)の奥書がある「文永縁起」には、「推古天皇5年(597)に伊勢の甚目(はだめ)龍麻呂という漁師が近くの海中より紫金の聖観音菩薩像
を網にかけ引き上げ祀ったこと」 そして、海中より引き上げた聖観音は身丈1尺余で、本堂に安置される十一面観音の胎内仏であり、十一面観音は50年に
一度開帳されるが、胎内仏は絶対秘仏となっているとか。漁師が引き揚げた場所は、「江上庄の入り江(現在の甚目寺の東南約200m.あたり)」とか。
江上庄(荘園名でしょうか、史料として証明できるものは、今のところ見当たらない。) 甚目寺荘なる荘園名は、有るようですが、分かっているのは名称だけ
であるようです。( 地籍図・史料から知られる中世の甚目寺界隈 参照されたい。)
3.甚目寺観音を通る古代の道路と甚目(ハダメ)氏
詳しくは、http://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/968168e3e50d3ff17ec56724f76e9685.pdf を参照されたい。
古代の東海道をどことみるか。上記PDFは、その一つとして、馬津駅(松川カ)から津島〜勝幡〜木田〜甚目寺〜萱津辺りを想定しているようです。
縄文期?では現在の名鉄津島線辺りが、海岸線であったのだろうか。文永元年(1264)の奥書がある「文永縁起」には、「推古天皇5年(597)に伊勢の甚目
(はだめ)龍麻呂<天平6年の尾張正税帳に記載されている甚目(ハダメ)□多希麿と酷似しているように思いました。・・私の感想>という漁師が近くの海中より紫
金の聖観音菩薩像を網にかけ引き上げ祀ったこと」を記し、それを受けてか、『甚目氏一族は松阪・雲出川流域など伊勢湾岸各地に拠点をもつ海人と考えられ
ていて、伊勢湾が濃尾平野に深く入り込んでいた古墳時代後期には、尾張・伊勢が尾張氏・甚目氏など海人集団の協業により支配されていたことが想像できる。
」と述べたうえで、「甚目氏の私寺として創建された甚目寺であるが、鎌倉時代(12世紀)には氏寺としての性格が薄れ、地縁によって寺院が維持されるように変
化した。この頃伽藍の再整備が勧進僧・聖観上人を中心に行われた。13世紀後半には真言宗系統の密教が導入された。三重搭内に安置されている愛染明王
がその事実を物語っている。』(http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Emt2000/shun.htm の http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Emt2000/Sub31.html内 16/08/31 甚
目寺とあま市歴史民俗資料館 (あま市) より引用 )という記述にも出くわす。
鎌倉期には、上記古代の東海道も変質していたのではなかろうか。
『海道記』(作者不詳 貞応2年 1223年出立)によると「夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ、見上げれば、
峰峙ちて(ソバタチテ)、(中略)(市腋出立時には、道連れの友が出来たかと。・・私の注)市腋をたちて(陸路であるか水路であるかは不明・・私の注)津島のわたり
といふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。片岡には朝陽の影うちにさして、焼野の草にひばり鳴きあがり、小篠が原に駒あれて、(略)見
れば、又、園の中に桑あり、桑の下に宅あり。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」と。
この記述を素直に読み取れば、市腋(イチガエ)は、河川が海に流れ込む辺りか。後ろには、峰(この峰は砂丘カ)、前を見下ろすと入り江が見えるやや高台の
場所のようにも取れましょうか。長島と同じ、河川が運んできた土砂等で出来た中州が発展した市腋島カ。
*
吉田東伍著 「大日本地名辞書」 富山房よりの引用 市腋とは「今 市腋村、東市腋村の二つに分つ、旧 市腋島と言い、津島日置の南に一洲嶼
(シュウショ 洲と島の意カ)を成したるとぞ。此の地は佐屋川木曽川合流の処にして、其水浜に砂丘あり、高さ十メートル、村の北側にも砂丘横たはり、近
世の新地にはあらず。」云々と。*
所で、「旧 市腋島と言い、津島日置の南に一洲嶼(シュウショ 洲と島の意カ)を成したるとぞ。」の”津島日置”とは、現在のどこでありましょうか。愛西市
に日置町なる地名あり。ここよりも南辺りというと旧 佐屋町辺りカ。名鉄尾西線 佐屋駅近辺になりましょうか。津島を南北に流れる古川(現 天王川公園
の池は、その遺構)と木曽川本流に挟まれた一洲嶼(シュウショ 洲と島の意カ)であったのだろうか。
そして、陸路なのか、水路なのか分りかねますが、津島に至ったのでは、この津島の渡りでは、乗船している。古川(三宅川と日光川が合流した河なのか、
三宅川単独の木曽派流であり、大河でありましょうか。)を下り(東行カ・・私の注)て、渡河し、尾張国に至り、小篠(ヲザキとは、メダケ カ)が生えている原(ハラ)
でこの海道記の作者は、駒を見ている。この風景は、乗船している所からみているのか、上陸して見たのかは判別し難い。そして、庄内川付近の荘園の風
景(富田荘カ・・私の注)であろう所を見て、萱津泊まりかと。津島から乗船し、舟にて古川を下り(東に向かい、)(再度乗船して、庄内川を遡上し、萱津湊着
も推測出来ようか。或いは、陸路<馬津駅(松川カ)から津島〜勝幡〜木田〜甚目寺〜萱津辺りを想定>カ。)そして、萱津宿(東宿カ西宿カ)泊まりであった
ようです。
時代が違いますから比較は出来かねますが、古代も概ね近い所を経由したのではないかと推察致します。
只、鈴鹿の関(4月5日泊)から市腋(4月6日泊7日出立)までは、一日行程。そして、市腋から萱津宿(庄内川と五条川が合流した辺り)までも、一日行程。
萱津宿(4月7日泊)この宿は、現 甚目寺町カ 東関紀行(作者不詳 仁治3年 1242年頃の出立)には、東宿とあり、西宿もあった可能性が高い。
「中世の庄内川は下河原村の北側を流れていたと考えると、下河原村北側を流れる庄内川は五条川と合流し大きく蛇行し、稲葉地村と日比津村付近へ向
かう。そして再び大きく蛇行し南流していたと考えられる。」と。更に結びでは、「中世萱津は、蛇行する庄内川と五条川の合流点の両岸に設けられた集落で
あり、文献から西岸集落には日蓮宗や時宗などの寺社や海上輸送を行う船が入る港湾が、東岸集落(東宿)には茶屋などの歓楽施設や定期市が想定され
る。
すなわち、中世萱津の両岸集落には都市としての性格に違いがあったと考えられる。このような性格の違いが、西岸集落のみが近世まで萱津として生き残
り、東岸集落(東宿)は廃絶し小字名に名残りを残すのみとなった背景となったとも考えられよう。(加藤博紀)」と。
* 「東宿には女郎墓の名の墓が残っていて、東宿は名古屋女郎(おいらん・遊女)の発祥の地といわれている。」愛知県郷土資料刊行会発
行「中村区の歴史」 、及びhttps://blogs.yahoo.co.jp/kawamiya19192009/19022159.html 参照 )この東宿と東関紀行の東宿は、同一な
のであろうか。とすれば、庄内川右岸に在った事になりましょうか。*
更には、14世紀頃の富田荘との関わりからすれば、甚目寺については、特に記載がない。こうした点から<『冨田荘絵図』の作成された 14
世紀中頃には存
在したと思われる上萱津村の妙勝寺や甚目寺村にある古代寺院の甚目寺は絵図には描かれておらず、先の考えに立てば、冨田荘との関係がない寺院、冨
田荘の支配権が及ばない寺院であった可能性が高い。>と。
*
この記述は、右記 (中世の萱津宿を考える) 愛知県埋蔵文化財センターの萱津宿発掘調査を踏まえた中世の萱津宿の位置及び復元についてからの抜
粋です。詳しくは、右記 http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0806kage.pdf を参照されたい。*
4.漆部神社の由緒
甚目寺に隣接する漆部神社、詳しくは、http://www.geocities.jp/engisiki/owari/bun/ow100101-01.html に譲りますが、その由緒を概略すれば、『漆器工芸団
体が古語でいう「漆部」で、その祖神が三見宿祢命という神に当る。この神は平安時代に編簒された先代旧事本紀という書物の巻五、天孫本紀の條によると、
「漆部連の祖」とあるので、この神が漆器工芸団体の祖神であったこと、明らかである。この神は尾張国を開拓した天火明命(一名を饒速日尊という)の五世の
孫で、天火明命の子孫が大和国から尾張国に移住すると共に、同国海部郡に移って、漆器工芸の技術の普及に従い、現在の地にその祖神を祭ったのが、漆
部神社であると。
*
先代旧事本紀という書物の巻五、天孫本紀の條によると、三見宿祢命は、「漆部連の祖」。三見宿祢命は、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子、
明らかに物部系。三見宿祢命は、物部氏系ではないかと推測いたします。*
当社に隣接する甚目寺を創設した「甚目連公」というのも、その一族である。漆部神社はその氏神、甚目寺はその氏寺とされ、共にその氏人、氏子によって崇
敬されたのである。甚目寺御本尊の御前立である十一面観世音菩薩像が尾張国唯一の乾漆像であることは、この寺が漆部の神と深い関係あることを示す有力
な証拠とされる。』と。
*
甚目連は、『三代実録』貞観六年八月八日条に、尾張国海部郡の人で治部少録の甚目連公宗氏が、一族の十六人とともに高尾張宿祢の氏姓を賜ったと。
漆部連は、物部系、甚目連は、尾張氏系。尾張では、日の出の勢いの尾張氏に、落ち目の物部氏は、饒速日尊を天火明命と同一化し、同祖として系図化
したのであろうか。時期的には、継体朝期以前まで遡り得ると推測致します。*
* 『明治神社誌料 府県郷社』. (明治末期(明治45年(大正元年、1912年))に創刊 関係資料). では、
古老の口碑として「元と本村を距る西三町の地にあり、今
其跡と称するもの田中にありて袴塚と称す。康安年中(1361年)今の地に奉遷したる」との記録がある。現在の漆部神社は、14世紀中ごろ奉遷カ。室町初期
頃のことであろうか。*
5.地籍図・史料から知られる中世の甚目寺界隈
詳しくは、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo07/0710kato.pdf を参照されたい。