尾張国 富田荘・篠木荘地頭請 円覚寺の年貢米移送と篠木荘内国衙領との和与について
1、はじめに
鎌倉市史 史料編 2巻には、鎌倉円覚寺関係の文書類が多く載せられている。今回、その中から
2・3の史料を使い、荘園内から徴収した年貢米をどのようにして鎌倉まで送致したのか、足利時代初
期、篠木荘内に存在していた国衙領の野口・石丸両保に関わる円覚寺地頭請に至る和与条件につい
て史料に基付き、垣間見たいと思います。
2.鎌倉 円覚寺地頭請の富田荘・篠木荘の年貢米移送について
まず、押さえておかねばならない事は、鎌倉幕府の守護制度についてでありますが、「頼朝の諸国守
護権が公式に認められた1191年(建久2)3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国
ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度
が本格的に始まることとなった。
一般的には、鎌倉時代の守護の任務については、謀反人の追捕、殺人犯の追捕、大番催促の3つと
されていた筈。要するに警察的な職務であったと言えましょうか。
当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、畿内以西の地
域では後鳥羽上皇を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、
大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。
こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。」( ウィキペデイア 守護の項
目 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7 最終更新
2013年5月24日 (金) 03:33
参照 )
を押さえておきたい。
年貢米に関する史料は、鎌倉市史 2巻 12号文書(尾張国守護 中條左衛門尉 書下)と、2巻
125号文書(将軍家 足利尊氏御教書)であります。12号文書は、弘安6(1283)年9月21日。125
号文書は、暦応2(1339)年12月9日文書であります。
12号文書によれば、「尾張国 守護 中條左衛門尉より、円覚寺領尾張国富田荘年貢運上時には、
宿兵士役については、在地の地頭に課す。早々に富田荘沙汰人に触れるべき事。弘安6年9月21日。」
という内容であります。富田荘の年貢米は、円覚寺が地頭であるから警護の宿兵士役は、自ら調達し、
警護せよ。という事でありましょうか。
参考までに 「建長4(1252年)〜正和2(1313年)は、中条左衛門尉頼平が、尾張国の守護職であっ
た。」( 佐藤進一著 「鎌倉幕府守護制度の研究」・「室町幕府守護制度の研究」上より抜粋 )
それ以前には、守護が、担当していたのかも知れません。警察的な事は、守護の職務であったと推察す
るからであります。鎌倉時代も中期以降には、守護も、地頭へその職務の一部を投げ出していたという事
でしょうか。
125号文書は、更に時代が下ります。暦応2(1339)年12月9日文書であり、『 飯島関所{(海上輸送
に便のよい港に置かれた関所であるようです。)所在地は、鎌倉近くであります。「 中世,相模鎌倉材木
座海岸沿いの飯島に設けられた関所であり、飯島という地名がみえる古い例は,源頼朝の寵女亀前が伏
見冠者広綱の飯島屋敷に住していたことを記した《吾妻鏡》寿永1年(1182)11月10日条である。1232年(貞
永1)7月勧進聖人往阿弥陀仏は,船の着岸の不便をなくすため飯島の地に和賀江島を築くことを幕府に申
請し,1ヵ月足らずで完成させた。関所設置の時期は明らかでないが,日蓮の《聖愚問答鈔》に〈飯島ノ津マ
デ六浦ノ関米ヲ取ル諸人ノ歎キ是多シ〉とみえる。」記述からも類推できましょうか・・筆者注}では、富田・篠
木両荘の年貢米を関米(津料カ)なしで、通過させて貰っていた所、この年より、これ等の米は、両荘の年貢
米ではないと難癖を付け、関米をかけてきました。足利尊氏之を停止せしむ。』 飯島関所宛 散位発文書
であります。
参考として、この飯島関所の在ったところは、{現 材木座海岸の東側、逗子マリーナの前あたりに、干潮
時にのみ現れる幻の港「和賀江島(わかえじま)」。鎌倉時代は1232年(貞永元年)に築かれたもので、日本
最古の築港遺跡として、現在は、文化庁の史跡に登録されています。}( 引用は、下記 URLであります。
http://blog.shonanbb.net/article/68452224.html 参照 )
この和賀江島(わかえじま)は、鎌倉時代の中頃以降東国の港として賑わい、日本各地からの船や南宋国
(元と共に中国大陸に存在した国)と言われた日栄貿易の船が入港した通商港でもあったようです。
「飯島関所は、鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有お
よび維持・管理の権利として、その関所を出入りする商船から升米(一石あたり一升分の津料)とよばれる
関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。」{1349年2月28日(貞和5年2月11日)、足利尊氏書状写
参照}ようで、鎌倉近くの港にある関所のようで、円覚寺の年貢米からも津料として徴収しようとしたのでしょ
う。年貢米については、鎌倉円覚寺分については、以前は、関料(津料)をかけなかったようであったのが、
慣例であったのでありましょうか、何かと津料徴収に動いたようであります。それも、足利幕府の発足2年目
の出来事であり、従来の慣習が、守られなくなっていた状況が読み取れる史料でありましょう。
尾張国から収取された円覚寺の年貢米は、初発から現物を伊勢湾の港から大型船にて鎌倉近くの飯島
関所の置かれていた人工島である”和賀江島”まで運んでいたのでありましょう。畿内地域では、為替という
方法で運送するようになっても、東国向けの海上輸送の円覚寺分は、終始現物輸送の状況であったと思わ
れます。
また、弘安6(1283)年9月27日の鎌倉市史 史料編 2巻 14号文書 円覚寺米銭納下帳によれば、
富田荘・亀山郷は、年貢米・銭納の二本立てであり、銭納は、糸代・絹代部分が銭納化されていたのであり
ましょう。この史料には、前半部分が欠落しておりますが、糸・絹加増分という記述が、銭納分として記述さ
れていますから類推出来るかと。おそらく、同量の糸・絹量の値段が上がり、そうした値上がり分が、加増
という形で加えられたのではないかと・・・。
また、亀山郷(位置は、不明ですが、おそらく現 三重県亀山カ)では、薪 3960駄・炭 500駄を出して
いるようで、この量は、一年分に相当しているように読み取れます。
この1年分の薪賃金として 米25石が渡され、炭焼き人の食料として、別に米4石分も合わせて渡されて
いた。
参考になるのかどうか分かりませんが、江戸時代の米一石分は、成人男性の一年分の食料かと。とすれ
ば、亀山郷の炭焼き人に与えられた米4石分からは、炭焼き人が、亀山郷には、4人いたという事であろう
か。
更に、米、大豆の運賃でしょうか、1石当り、3升の運上であるかのような記述もありました。この当時(13
世紀末頃)、既に海上輸送等の業務を行うシステムが、伊勢湾から鎌倉まで成立していたのでしょう。
参考までに、弘安6(1283)年時の富田荘からの年貢米は、1428石8斗であった。石当り3升の運上(運
賃)とすれば、1428.8石×0.03=42.864石であり、42石8斗6升4合が、支払われたのでしょうか。
こうした海上輸送の船の船頭には、加古米(かこまい)として上記の運上(運賃)が支払われていたのでし
ょう。
地頭職であった鎌倉 円覚寺は、当初から年貢米は、現物にて輸送していたようで、為替等ではなかった
ようです。積み出し港は、どこであったのであろうか。不明であります。
尾張国富田荘は、庄内川が荘園内を流れていますし、地頭の政所は、その庄内川の分流戸田川の川べり
に存在しています。
集められた年貢米は、庄内川を小船にて下り、伊勢湾沿岸の伊勢国大湊に集積され、大船に積みなおされ
出港していたのでは、尾張国篠木荘内にも庄内川は流下しており、そこを年貢米は、小船等により移送されて
いたのではないだろうか。あくまで鎌倉円覚寺の消費する一年間分は、富田荘分で賄い、不足が出た時には、
篠木荘分で補っていたでありましょうが・・・。篠木荘は、経緯からすれば、分散した畑地を一円化する為に創
設された荘園であった筈であり、大部分は、畠地であったのではないでしょうか。
そうそう、この篠木荘内には、国衙領の石丸とも野口保とも呼称される荘園整理令にて新しく郡・郷・保とい
う徴税単位の組織が世襲可能な公権として認められたようで、その国衙領の税は、正税として、室町期初期
には、地頭 円覚寺と和与となり、「正税糸 20両、綿 6両、及び銭20貫150文を領家方に納め、下地は、
地頭方の進止とする。」という内容であったとか。やはり、かっては、この地域での税は、米ではなく、絹糸・絹
織物(八丈絹)類であったとも言われておりましたから。その名残りでありましょうか。詳しくは、下記 3を参照
下さい。
3.国衙領 野口・石丸両保の雑掌 幸賢と鎌倉円覚寺の知事 契智との間に交わされた和与について
和与に関わる史料は、3つ。鎌倉市史 史料編 2巻 113・114・115号文書がそれであり、共に、暦
応元(1338)年であり、10月26日の尾張国宣、11月28日の尾張国知行主 柳原資明書状、12月3日
の光厳上皇院宣の3通であります。
この和与は、建武の新政により、国衙機構が、強化され、かっての保(負名体制下に認められた国衙領)
の開発主の権利の復活による地頭請の円覚寺と、保の領家方との間で、再度折衝が行われ、決着した事
の証文類でありましょう。それ以前にでも、ほぼ同様な事柄で折衝されていたかと。
要は、国衙領たる野口・石丸保の年貢について、双方が納得して和与に至り、国衙領雑掌 幸賢の和与
状の内容を認める尾張国知行主たる柳原資明の国宣であり、次に柳原が、光厳上皇の院宣を武家方に
下されん事を上奏する書状、そして、これを聞き届けて、上皇により院宣が下される事となったようでありま
す。この時代(室町時代初期)は、まだまだ、そうした手続きが必要であったのでありましょう。
ところで、上記の国衙領(野口保とも石丸保)ともいう地域が存在しております。この野口保が出現する時期
は、不明でありますが、おそらく12世紀中頃以降に成立した新しい国衙領であり、開発主がいた筈。「 かっ
ての律令制下の国・郡・郷が消滅し、変わって新たな国・郡・郷・保が置かれるようになったようで、その為、開
発領主を郡司・郷司・保司(ほうじ)に任命し、徴税を請け負わせたという。」 これにより、朝廷(天皇)側に税が
以前より流れるようになっていったようでありましょう。
ところで、この国衙領である野口保とも石丸保とも言う地域の年貢として合意に至った内容は、どのようであ
ったのでしょうか。前述の3通には、具体的な内容は、書かれていませんでした。付則として付いていた和与状
には、書かれていたと思われます。
その具体的な合意内容は、鎌倉市史 資料編 2巻 123号文書 足利直義下知状 暦応2(1339)年
2月7日に記載されていた。
それによると、「正税糸 20両、綿 6両、及び銭20貫150文を領家方に納め、下地は、地頭方の進止と
する。」 という内容であったようです。糸・綿は、正税扱い。米ではない所が、尾張国の貢納の特徴といえば、
特徴でありましょうか。どれほどの量なのかは、判りませんが、現物で、納めたのでしょうか。そして、銭納。い
ったい国衙領たる保の領家とは、誰であったのであろうか。雑掌 幸賢という人物しか史料には、現れてきま
せん。
*
参考までに、「 野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりと
その地理的状況、国司 平忠盛と郡司との主導のもとに一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、
春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるのが自然であろう。」
( 講座 日本荘園史 5 P.359 上村喜久子氏記述書参照 )と。同書 P.344には、「散在型荘園から
一円型荘園への移行(例えば、篠木荘等・・筆者注)の背景には、郡司・郷司ら一族と国司との結託が推察さ
れる。」 とも記述があり、この辺り一帯の開発主が、想起されます。この橘氏一族は、丹羽郡司系統でありま
しょうか。続群書類従に記載されています「良峯家系図」から推測されるようであります。
在地の雑嘗 幸賢なる人物は、こうした橘氏一族とかかわりがある者でありましょうか。
12世紀中頃以前とすれば、野口辺りを再開発した者ではある筈。大山寺は、永久年中(1113〜1117年)
に、叡山 法勝寺 住職 玄海上人が、掘っ立て式、草葺寺院を再興され、この大山寺を大山正峰寺と改称さ
れたようであり、これ以後40年間は、西の比叡山 延暦寺・東の大山寺として君臨していた。奇しくも大山寺再
興が永久年中とすれば、尾張国司は、その当時藤原忠教(摂関家 藤原道長の孫の次男に当たる)であり、尾
張国には、摂関家領が立荘されていた頃かと。春日部郡司は、橘氏一族であった可能性が高い。
お隣の丹羽郡大縣神社の宮司には、丹羽郡司の系統の方が、南北朝時には、どのような経緯かは判り
かねますが、しっかりと宮司職を手に入れられていました。この宮司職は、「鎌倉初期 寿永期に既に、源
頼朝より安堵されていたようであります。」(春日井市史 参照)
更に、野口の西隣 林・阿賀良村は、平安末期には、二宮領として寄進されていた。この寄進主は、誰で
あったのでしょうか。郡司の系統の方ではないかと推測いたします。*
小牧の草分け的郷土史家 入谷氏によれば、春日部郡司 尾張某氏と、尾張農協の広報誌上で述べて
みえる事を付記しておきます。確かに初発の開発主は、尾張国目代藤原氏と婚籍関係を築いた尾張氏一族
であったでありましょうが、そうした権益は、尾張氏との結合を通して熱田宮司の所轄する所となっていったの
ではないでしょうか。しかし、野口の西隣 林・阿賀良村は、平安末期には、二宮領として寄進されていた。
大縣社の宮司は、10〜11世紀までは尾張氏に近い者であった可能性を推測する。
しかし、平治の乱での敗北で、熱田社は、一族挙げて負けた源義朝(源頼朝の父)を加勢し、その権益を失
墜していったのではなかろうか。
4.結びにかえて
尾張国の平安末期の在庁官人・領主は、既得権益をいかに維持するか。その一点で、英知を働かせ、寄
進等の方法で、末代までその権利を永続させていったのではあるまいか。
そして、戦国の世まで、こうした古代の職(しき)は、形をかえて生き残り、やがて、消滅していったと思われ
ます。
しかし、春日井市白山の円福寺のように、平成の御世まで、生き残り、存在しているようでありますから必ず
しも織田・豊臣両氏は、古代の職(しき)を完膚なきまでに、叩きのめし消滅させたのではないようです。
あの、比叡山延暦寺(有力寺院)の僧徒等は、地下の民までも巻き込み、信長軍に戦いを挑み、虐殺された
ようですが、よくよく聞けば、信長軍の部下の者は、中には、女・子供は、逃したという事のようでありますから。
平成25(2013)年8月19日 一部修正 加筆
平成28(2016)年10月16日 〃