尾張国 山田郡域の平安末〜鎌倉初期に於ける 山田氏 の動向
1.はじめに
平安期頃 美濃国安八・方県・本巣郡に本拠を置いた清和源氏の末裔 源重宗の子孫の一人が、 山田氏と名乗った
ようであります。
その概略を列記すれば、以下のようになりましょう。
清和天皇の孫 経基王(臣籍に下り 源経基 )ー満仲 −−−−−−−−−−−ー頼光
平将門の乱を平定。藤原純友の乱でも 経基の長男 摂関家と結びつき 満仲の長男 美濃守を2度勤める。
活躍 その後 美濃守に任ぜられる。 美濃源氏の基礎を築く。美濃守 「御伽草子」 大江山の酒天童子を
退治した人物として登場。
頼信
満仲の次男 源頼朝の祖となる人
物。美濃守 藤原道長に重用される
−満政 −−−−−忠重ーーーー定宗ーーーーー重宗
経基の次男 中央政府の官職
( 右兵衛尉 )
*
満政の曾孫 重宗(中央政府 右兵衛尉という官職についている。)は、佐渡源太とも八島冠者とも名乗り、安八
郡、方県郡、本巣郡に勢力を張り、その子孫は、”山田、葦敷(あじき)”、生津(なまづ)、小河高田、鏡、白川、小島
木田、開田の諸氏にわかれている。 ( 詳しくは、多治見市史 通史編 上 昭和55年 刊 参照 )
尚、重宗流源氏の略系図が、瀬戸市史 通史編 上 平成15年 刊 P、90にありますのであわせて参照されたい。*
2.重宗流源氏についての概略 ( 以下の文は、瀬戸市史 通史編 上の要約であります。)
重宗には、重実・重長・重高・重時・重親という子がおり、はっきりするのは、重時で、白河上皇に使え”検非違使”として
警察能力を発揮した事。
重実は、鳥羽院武者所と言われ、美濃国河辺郡での狩猟が伝えられると。重長は、美濃国木田郷に居住し、木田三郎
とも名乗っていた。
その後重実の子 重成は、鳥羽院のもとで活躍。重実の子 重貞は、保元の乱(1156年)の時、後白河天皇方で戦功
をあげている。
重実の長子 重遠は、美濃国を生国として、尾張国浦野へ進出し、居住。浦野を名乗ったのでありましょう。この浦野は、
尾張国のどこであるかは不明。(一説では、春日井郡浦野邑という方もありますが、どのような資料から言われているかは
不明・・・私の注)ですが、重遠は、12世紀はじめ頃には、尾張国へ進出したのでしょう。
その後重遠の子 重直は、尾張国河辺荘に住み、山田氏を名乗ったという。
*
参考までに、小牧市史・春日井市史等の記述を列記します。
尾張の歴史 展示解説U 中世 名古屋市博物館 P.14 尾張の荘園・国衙領の分布図では、山田荘は、現 小牧、春
日井であるような記述であった。
とすれば、小牧市史 P、70の図2−7 春日部・山田郡境域図 (2) には、山田郡に置かれた式内社の分布から、山
田郡域は、師勝町より西よりの地域を含み、豊山・師勝・牛山等々の北側、現 小牧市南西部域まで伸びていた。
そして、山田郡の端境には、上末・下末が含まれるように図示されていた。まだ、確定はしていない事柄ではありましょうが・・。
この山田荘の荘域の北限は、下末・上末を含む春日井・師勝の西側辺りになるのでしょうか。とすれば、この山田荘は、東
大寺領山田荘であり、一時、皇室領(八条院領)とも言われていた荘園でありましょう。
しかし、春日井市史P.134には、「安食荘には、荘官として安食氏がいたという。張州府誌には、安食二郎重頼なる者、
安食荘の荘官級の武士であったという。」また、尊卑分脈によれば、安食氏の系図は、「重遠の子に 河辺重直・葦敷二郎重
頼があり、河辺重直の弟 葦敷二郎重頼は、安食荘に土着し、荘官級豪族として勢力をたくわえ、兄である河辺重直は、庄
内川を挟んだ安食荘とは対称的な位置にあった山田荘の荘官として勢力を拡大していた。」という記述もみえ、山田荘は、庄
内川の左岸側をも含む存在であったのでしょう。
とすれば、山田郡は、庄内川左岸 現 名古屋市側沿いに存在していたのでしょう。東大寺領山田荘は、旧山田郡一帯に存
在した荘園であったでありましょうから。
東大寺領山田荘は、延暦4(773)年カ 6町歩の広さであったが、天暦4(950)年には、36町歩に拡大していたという。初
期荘園であったようです。
尚 東大寺領山田荘の存在は、752年〜11世紀中ごろ 一時不明 1184年〜1490年の間であり、一時不明の時は、山
田荘は、八条院領 (11世紀末か12世紀初頭頃〜1184年 )となったようです。
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八条院とは、ワ子内親王{あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) -
建暦元年6月26日(1211年8月6日)}
は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、「八条院」と号したと。**
熱田社は、古代以来の尾張氏から12世紀中頃尾張国 目代として入部した一族の藤原季兼(スエカネ)に熱田大宮司職が移り、
源頼朝の父 源義朝が、久安3(1147)年 正室であった熱田大宮司家の娘 由良御前との間に頼朝をもうけた。
義朝は、保元の乱(1156年)で、平清盛と組み、後白河天皇方で勝利。3年後には、平治の乱(1160年)に敗れ、知多半島
で死去。熱田社は、平治の乱で、源義朝を一族挙げて支援。後ろ盾を失くし、尾張国内での影響力は、低下したと思われます。
以後、尾張国は、平氏政権下では、代々平氏が尾張守となり、準平家化した在地の有力者と共に、尾張国内の国衙領を皇室(
天皇家)の荘園領としていったようです。
その尾張国 山田郡内の東大寺領山田荘は、院政が開始され始めた頃 一時的ではありますが、八条院領となったという。
さて、源平の最後の合戦が、はじまりますが、そのきっかけは、八条院の猶子 以仁王(モチヒトオウ)の令旨であり、各地の八条
院領に伝わり、東国では、頼朝にも。
しかし、尾張国の山田郡山田荘の荘官 山田氏も挙兵するのでありますが、尾張の山田氏は、尾張の独自性でありましょうか
頼朝とは、初発から組していない。後白河院は、治承4(1180)年11月 重宗流源氏に対し関東の追討を命じたが、尾張源氏は、
源行家・義円をかついで、反平家の行動を取り始めた。
しかし、平清盛病死後のひと月後とはいえ、平重衝率いる大軍に墨俣川で完敗した。
この後、諸国では、飢饉が深刻化し、しばらく沈静化した感があった。
寿永2(1183)年 尾張源氏は、北陸道の木曾義仲と行動を共にし、京都へ攻め上った後は、しっくりいかなかった。源平の決
着が付く間際に頼朝に合流。
文治元(1185)年11月、頼朝は、守護・地頭の設置の権限を得た。
建久元(1190)年 源頼朝は、伊勢神宮の造営費用を支払わない「諸国地頭」に納入を催促しており、同年6月29日 尾張国
住人重家・重忠等が、朝廷より伊勢神宮の造営費用を納めないと訴えられた。また、同年4月4日には、美濃国住人 重隆が、公
領の支配を妨害したと朝廷から訴えられた。
頼朝は、朝廷より処罰が下される事を承認している。その結果、太政官符が下され、重隆は、常陸国へ、重家は、土佐国へ配流。
こうした処置は、頼朝自身の強い意志による処断だったであろう。
この朝廷への連絡役は、平氏没官領の御器所を継承した一条能保(ヨシヤス 頼朝の妹婿)であった。
*
平家領御器所は、山田氏が現地支配を担っていたのでは、どうやら山田氏は、窯業生産に関与していたのであろう。
そして、山田重忠は、おとがめを受けず、旧来の荘園の荘官として御器所も含め現地支配を続けたのであろう。
承久の乱(1221年)では、尾張 山田郡の山田重忠は、朝廷側にたち、敗軍の将となり、山田郡域には、鎌倉幕府の雄 三浦
氏が、菱野村地頭として入部。
その後、北条氏の陰謀により、頼朝子飼いの郎党は、次々に滅ぼされ、三浦氏も滅亡した。その際尾張国山田郡では、山田重
忠の末裔が、三浦氏と戦い、北条氏より三浦氏の旧所領の地頭に宛てられ、復活したようであります。
3.まとめ
尾張国内の重遠流源氏は、美濃国と同様、尾張国へ南下しても国衙機構に加わり、中央での同族の威光もあり、国衙領の未開
地の開発や荘園の荘官として在地で勢力を蓄えていた。
平氏政権下では、在地でその勢力の温存を強いられていたが、平氏打倒に立ち上がるが、明確な目論見を持たない存在であり、
鎌倉幕府特に頼朝からは、信頼されなかった。頼朝にすれば、尾張の重遠流源氏は、源平合戦時の武勇は侮り難く、どちらにつく
とも知れない危険な存在と思われていたからでしょう。
敗軍の将の一族には、正確な記録は残り難く、重遠流源氏についても確かな事柄は、”吾妻鏡”からでは、知る事が出来ない。
只、鎌倉幕府成立時、尾張の平氏一族で、平安末より山田荘志談(シダミ)郷にいた者を源平合戦後安定化の為に山田荘の本家
八条院に山田氏は、依頼し、志談郷の荘官として推挙し、登場させている。これが、後の水野地区に進出する”水野氏”のはじまり
でもあったという。