尾張地域に於ける 初期律令制下の租庸調のその後の変遷について

            
               鎌倉・南北朝・戦国時代と尾張地域の極限られた篠木荘・安食荘等の荘園の在地構造を
              追いかけてきました。荘園ではありませんが、二ノ宮領(大縣神社領)であった尾張国林・阿
              賀良村の在地構造にも触れてきました。

               しかし、こうした地域の乏しい資料からは、この地域で桑を育て、蚕を飼い、糸を取り、絹
              織物を作り出していたという直接的な資料をみる事はありませんでした。

               しかしであります。網野善彦著「日本中世の百姓と職能民」には、尾張・美濃地域の荘園か
                               らは、十中八九 貢納された物は、米ではなく、絹織物であり、尾張では、特に青磁(陶器)も
                               含まれていたようです。

                                  下記、醍醐寺領安食荘の前身は、春部荘(カスカベショウ)とも言うべき東大寺領であったので
               しょうか。
                その後、柏井荘・安食荘へと推移したのでしょう。「安食荘が、醍醐寺領となったのが、延
                                 喜14(914)年であり、修理料とされた。その後国司により停廃されるに至っておりましたが、
               康治2(1143)年三宝院の申請により、古の如く興立せられた。」 (荘園志料 上巻 清水
               正健編 P.574〜575 参照)という。

                                   安食庄は、醍醐寺の修理を主とする為の庄園として施入されたようで、寄進主は、統正王
               と記述されていた。一時停廃されるも、康治2年には、再度醍醐寺領として興立。後鳥羽院の
               願いにより灌頂院は、既に建立されていた為、その灌頂院布施料・仏聖燈油料・寺修理料と
               された由。文治4(1188)年4月9日付け文書には、康治以降、入道惟方卿の国務時、再度
               停廃せられ、院庁へ願い出るも、現状のままで、院庁より布施料が届けられるようになるも、
               次第に天下騒乱になり、院庁からの布施料も停廃せられた由。その後、再び醍醐寺が関わ
               るようになったようで、承久4(1222)年正月日付け文書では、承久の乱後、地頭が改めて
               補された由、そして、その地頭が、庄務を押妨、年貢が醍醐寺へ届かなくなったという云々。
                以上の事柄は、上記 荘園志料 上巻からの抜粋であります。

               その醍醐寺領安食荘(現 名古屋市北区から春日井市勝川・味美辺りの地域)には、康治
              2(1142)年の検注帳が存在し、次のような事が知られると言う記述がありました。

               「安食荘と一括で括られてはいますが、この中には、大縣神社・熱田神宮・伊勢神宮領、
              果ては、皇后領・左大将とか中将等の私領・郡司領・国衙領等々も混在し、また、まだ未開
              の荒地・山・河も含まれている。およそ6割弱分が醍醐寺領であろう。」( 後述 入谷哲夫氏
              「税は尾張八丈と焼き物」 参照 )という記述であります。             

               時は、平安末期の事柄であり、この荘園も一円知行地とは言いがたい散在型荘園であった
              ようです。
                                  郷土誌かすがい 第23号  「平安末期の安食荘」 を記述されたその当時 南山大学経
              済学部教授 須磨氏の論述内に下図 第1・2図が存在し、安食荘の概要を知ることが出来
              ました。(  http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi23.html 
              参照 )

                                  こうした記述に接してから私も、醍醐寺領 尾張国安食荘立券文 (平安遺文 巻6 P.2106 
              第2517号文書)を手に入れ、併せまして愛知県史 資料編9 P.1286 から尾張国安食荘絵図
              も手元に置けるようになりました。
               それ故、下図 1図を作られた方々のご苦労が、察せられますし、すごい事であると思う次第
              であります。

               史料には、各里内が、36坪毎に区分けされ、誰が領有しているのか、反別毎に記述され、そ
              の土地は、田なのか畠なのか、耕地の状態なのか荒地状態なのか逐一記述され検注されて       
              おり、その一つ一つの里(里は、正方形)を6×6等分し、丹念に状況毎に図示していく気の遠
              くなるような作業を通して完成されている図が、下図 1 康治2年 安食庄内耕地・在家等分布
              状況の図であります。

                                                

               この図から察せられる事は、在家は、畠地の中に散在しており、完全な河川による微高地上
              に存在しているのか、はたまた弱冠中途の高さに居住されているのかはこの図では見当が付
              けられませんが、おそらく川(庄内川)の近くであり、大雨による洪水等の環境下では、非常に
              危険な状況になるのではないかという危惧をもちえる危うい状況での立地であろうと推察いた
              しました。

                              新修名古屋市史 第1巻 平成9年版 P。708〜718 安食荘の復元・支配のしくみにも
              詳しく論述されている。

               それによると、「安食荘の耕地は、荘域の半分以下であって荒野が過半を覆い、田地は、112
              町余、全体に占める田地の割合は、22%である。(中略) しかし、一方103町が畠。荘園領主
              や在地の私領主の土地利用は、田地に限らず、古代国家の税制の隙間である畠地、更には荒廃
              地を取り込んでその私領化を図っていた。」と。

               安食荘は、下図 第2図 安食庄関係条里復元図の19里以外にも、東如意 5ヶ里と西如意
              2ヶ里の計 252町 原山 5ヶ里の108町が含まれているという。如意は、現 名古屋市北区
              如意でありましょう。原山は、東部・北部に連なる春日井台地上カ。

               如意は、70%を越える178町が荒野であり、田地は、48町余、畠は、24町余で桑畠も混在
              していた。

               同書 P.715の康治2年当時安食荘内諸所領分布状況図からは、在家は、自然堤防上に1町
              毎に散在し、大部分は醍醐寺領であり、荒地等に熱田社領は、存在している。

               19里の総田数は、161町8段中 104町3段300歩が定田であり、醍醐寺の管轄。残り60町
              弱が、私領化されており、私領の内訳は、熱田領 51町5段300歩、大縣宮領 4町、伊勢神宮
              領 7段120歩、皇后宮御領 1町であり、除田扱いとか。更に8程度の私領主が存在しています
              が、田地はなく、畠地であった。

               畠地は、検注帳では、128町6段120歩。大部分は、醍醐寺領ではなく、全て私領主の管轄。
              畠地には、除田のような制度はなく、全て課税対象であり、醍醐寺は、桑畠の桑1本に付き、2朱
              宛ての代糸を課していた。

               検注帳実施から40年後に記された「醍醐寺雑事記」には、醍醐寺は、定田1町あて絹一疋が課
              せられ米ではなかった事が知られる。とすれば、定田 104町であれば、絹104疋分となりましょ
              うか。醍醐寺には、13世紀であれば、准絹1疋=銭10文であれば、八丈絹とすれば、104疋=
              准絹41600疋=銭416貫文相当の貢納でありましたでしょう。

               * 参考までに、日本では、貨幣が使用せられるまでは、准絹を基本に品物の価値を表す准絹法
               (ジュンケンホウ)がとられていた。永仁6(1298)年8月15日 「蔵人所御即位用途注文」から知ら
               れる上品八丈絹は、1疋=准絹400疋換算で、1疋=8丈=24mとか。
                また、おおよそですが、11世紀頃は、准絹1疋=米1石。12世紀頃は、准絹1疋=米1斗。13
               世紀頃は、准絹1疋=米1升 (この頃米1升=銭10文とか)14世紀には、銭が使用され、准絹
               法は、使われなくなったという。
               
                更に、下図は、上記の図を実際の地図上に条里の記述(この安食庄のみならず、他庄園
               の条里の記述等を勘案して、東西南北条里線を推定した上で、地図上にトレースされている
               筈)に基づいて線を入れ、完成されていると推察いたします。よくぞここまで・・・。参考までに
               里の36 坪付け図が添付されております。

                                                 

               そして、貢納物は、「尾張は、税は、米ではなくて青磁等の焼き物と尾張八丈(絹織物)で
              あった。」 また、「耕地に栽培されている大半は、桑である。」 と言う事等々。入谷哲夫氏 
              「税は尾張八丈と焼き物」 に記述されております。詳しくは、下記 PDFファイルを参照。
              http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201204.pdf  
               私も、この康治2(1143)年の検注帳を実際にみました、                                                       

               安食荘ではありませんが、すぐ近くの「篠木荘の建久2(1191)年10月日(島田文書)には、こ
              の荘園の課役は、元三雑事であったようで、簾4間、御座6枚(小文3、紫3)・節器物(白し鉢
              1口、酢瓶1口、酒瓶1口、垂布1反)・砂5両。三月御八講砂5両、雑装束1具(5月5日料)、
              月充仕丁3人(定勤2人 7月料)、門兵士3人(西門7月中下旬料)、彼岸布施6丈布4段(2
              月料)、御更衣畳2枚(小文1、紫1 10月料)、神祭片具、移花20枚とか。」(荘園志料 上巻
              清水正健編 P.578 参照) 確かに貢納物は、米ではないようです。

                                併せまして、この安食荘の絵図も入手できまして、よくよく眺めれば、勝川村が記入され、家々
              を囲むように屋敷林が描かれているような絵図であります。北側には、柏井へ之押領とも記さ
              れていました。

               とすれば、この絵図は、応永34(1427)年9月2日(満済日記)には、等持院領 柏井荘と安
              食荘は、春日部原の堺相論となった由であり、この頃に描かれた絵図であろうか。
               村からやや離れた箇所には、大きな家が、所々に2〜3軒あり、散在しています。やはり家の
              周りには、屋敷林(松林カ)らしきものが描かれております。この絵図が、応永34年当時の物と
              すれば、足利時代前期頃と推定できましょうか。


               更に康治2年当時の荘園の200年位後の元亨4(1324)年12月の検注帳をまとめたものが、
              愛知県史に掲載されておりました。
               それによると、既に安食荘は、東・西の荘園に分割されていたようです。
               安食東荘 福徳名
                一、 桑代畠  1町9反330歩   年貢段別銭  336文 副綿代段別銭 6文
                一、 惣荘桑代内 副徳御方分   副綿代段別銭   6文
                一、 例名収下 8町3反120歩  年貢段別銭   416文 外ニ名別 薪 6把
                一、 散用収下 1町7反 40歩  春請料段別銭  100文 年貢銭 500文
                一、 公田    1町5反 40歩  年貢段別銭   220文 米 140文
                一、 米田    1町4反240歩  
                       内訳   5反       公文給
                             9反240歩  段別春請料銭  100文 年貢米 900合(9斗カ)

                一、百姓名給  1町5反
                    外ニ
                    釈迦堂       4反300歩
                    未長瀬地蔵堂     350歩
                    神田        1反

               安食西荘福徳名
                一、 桑代畠   8反148歩    年貢段別銭 336文 副綿 1両
                一、 惣荘桑代内 副徳御方分  年貢段別銭 336文 外名別ニ 駄代 40文、但 定使給分
                一、 御給  2町7反        年貢段別銭 500文
                一、 米田  1町2反        年貢段別米 900合(9斗カ) 請料段別銭 100文
                一、 御名公田 2町5反220歩  年貢段別 銭 222文 米 140合(1斗4升カ)
                      内 雑色免 定使給 各 1段
                一、 散在田   4反120歩    段別年貢銭 500文 請料銭 100文
                例名収下     6反300歩    段別年貢銭 416文 請料銭  50文
                      外ニ 
                     溝田   2反
                     大久保地蔵堂寄進  1反

                以上でありました。同様の史料は、春日井市史 P、119〜120にも転記されており、田畠にかかる
               年貢段銭は、細かく規定されていたようです。
                更に付加税として、綿代の銭納や請料銭の徴収もされているようです。
 
                春日井市史には、「付加税として、安食荘では、平安時代から諸種の物が課せられていた。例えば、
               久安4(1148)年以後 三法院元三元料として、菓子12合 酒1瓶子。仁平4(1154)年には、毎年修
               理料として、檜皮・縄60方の納付が課せられるようになった。そして、この安食荘に使用する本斗は、横
               斗の1斗9升5勺に相当し、他の荘園の本斗が、1斗5升であったのに比べれば、相当過重な負担であろ
               う。」と結ばれていた。

                同荘園内の桑畠の割合が、康治2(1143)年の検注帳では、入谷氏の記述を借用すれば、「耕地に栽
               培されている大半は、桑である。」 ということのようであります。まさか、田にも桑が・・。そのような事は、
               検注帳に記載されていなかった筈。とすれば、この康治2年当時の畠地の割合は、200年後の割合と大差
               ないように推測できます。

                また、200年位後の同荘園内の桑畠の割合は、東荘では、約10.6%。西荘では、約9.6%であった。
               かっては、物納であったのでしょうが、時代が下れば、畿内には、よりよい絹織物が出回り、この在地の絹
               は、自家用になっていったのでしょうか。それ故、絹代は、銭納になっていったと推測できましょう。

                                   *脱稿後、松原弘宣著「日本古代水上交通史の研究」のなかに、聖武天皇の御世、美濃国方県郡に小川
               市があったようで、木曾三川での水上交通が盛んで、尾張国愛知郡片輪里の商人的な女が、地元の蛤(ハマ
               グリ)を舟に載せ、この市(イチ)まで行った事が、”日本霊異記”の話として記載されている。この女の出自は、
               同じく日本霊異記から類推できるようで、五条川と庄内川の合流する現 愛知県海部郡甚目寺町萱津 萱津
               の渡し場を差配する豪族の一族に関わりがあるのでは・・という説と現 JR金山総合駅近くの片輪の里という
               説があるようです。私は、片輪の里説を取りますが・・。

                聖武天皇といえば奈良時代の天皇で、東大寺大仏やら、国分寺・国分尼寺等の首謀者であった筈。既に8
               世紀頃には、内陸部河川には、川湊(津)があり、陸路と交差する津(川湊)辺りには、市(イチ)場が、自然発
               生的に出来ていたかのようです。内陸部ですから、日常的な必需品(内陸部の者には、海の産物 例えば、
               塩・海産物等。海岸部の者には、糸・綿・絹織物等でしょうか。・・筆者注)は、必要になり、物々交換等で交易
               していた可能性が高いでしょう。

                交易にたずさわった者は、この当時では生産者は勿論でありますが、商人的な輩も参画していた可能性を
               上記の著者は想定されているようです。そして、「この当時、既に貢納物には、粗悪な物を、市場用は、よい物
               にと生産者側は峻別していた可能性に触れてみえました。」(門脇貞二著「律令国家の基礎構造」参照)おそら
               く、必要不可欠な物のみの自然発生的な交易環境が水上交通路・陸路を通して創設されていたのでありましょ
               う。この当時から。

                この著者は、畿内に近い美濃・尾張であるが故に、こうした地方市(国衙に関わりのない)を利用している受
               領で悪名をはせた藤原元命を郡司百姓解(永延2年 988年)の形で、地方交易に関わる条 3・4・5・6・7・9
               条をあげ、地方市(イチ)を差配している地方豪族の権益を侵す事柄として自らの権益を守る為に中央に訴えた
               のであろうと・・・。*               

                13・14世紀頃の尾張富田荘の納下帳にも、絹・綿代増加分として銭で納められていた。おそらく、同量の
               絹・綿を市場で売れば、価格が高くなり、同量でも銭に換算すれば、多くなっていたので、増加分として徴収
               したのではと推測いたしました。かっては、物納していたという例証でありましょうか。律令制下での在地の
               特産品から、13・14世紀頃には、手工業製品としての諸国の特産品化へと様変わりしていったのでしょう。
                そうした姿をはっきり現すようになるのは、早くて、14世紀以降であったと思われます。

                しかし、尾張富田荘の納下帳には、鎌倉円覚寺が、地頭職を得ていた時には、銭納と同時に米納も行わ
               れており、相当量の米が、鎌倉円覚寺へ現物として送付されていた。この富田荘は、伊勢湾の辺の荘園で
               あり、庄内川が流れ込んでおる所であり、現在の蟹江も含まれていたかと。五条川が庄内川に合流した辺
               りよりやや南側までを荘域としていたようです。この地域の初発の開発主は分かりかねますが、伊勢湾に
               近い事から、平安末期頃、平氏が、湾より進出し、沿岸地域から次第に支配下にしていったようであり、こ
               の富田荘も平氏領(領家職を持ち得た所領)であったかも。源平の合戦にて、平氏が、尾張国内で支配力
               を有していた所領(平氏没管領地)を源氏側が押収したのか、その後、承久の乱以後、執権 北条氏が得
               宗領化していったのでしょう・・・。

                詳しくは、拙稿 尾張国 富田荘・篠木荘地頭請 円覚寺の年貢米移送と篠木荘内国衙領との和与について
                謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書 及び、下記 拙稿にても、参照して頂け
                れば、幸いです。 鎌倉期末期以降か? 篠木荘内に於ける市場(いちば)開催について 

                その北条氏から鎌倉 円覚寺は、地頭職としてこの富田荘と篠木荘を円覚寺存続分として賜ったようです。
               こうした荘園の領家職は、皇室乃至摂関家が引き続いて有していたようです。領家職は、地頭請けにて存続
               し、年間請料は、固定化され、まとめて支払われていた。しかし、下地は、地頭方が支配し、相当な収益が荘
               園から上がっていたかのように思えます。富田荘の地頭は、新補地頭であったかも。

                しかし、篠木荘の地頭は、本舗地頭職であったのではないかと。当然、罪人等の捕縛の権利を有する地頭
               職であったでありましょう。義経追捕等に絡む事柄の罪人逮捕等を含む地頭職という意味でありますが・・・。

                                                       平成25(2013)年11月10日   脱稿
                                                       平成25(2013)年11月15日 一部加筆
                                                       平成26(2014)年  7月 9日  一部加筆
                                                       平成27(2015)年5月16日  大幅改訂
                                  付記
                尾張国地名考(文化13年 脱稿カ 津田正生著 復刻版 大正5年発刊 愛知県海部郡教育会 更に復刻版
                          昭和45年 発刊 愛知県郷土資料刊行会版 参照 )
                 上記地名考 P.187〜188において、味鏡(あぢま)村 支村に春日井原新田村あり。略して原新田村という。
                 この原新田村は、別名 上原とも言い、範囲は、南は、味じま原より北は、外山村の南まで、西は、豊場より、
                 東は、下原までと言うとある。

                 また、P.190には、津田正生が、考える事柄ではあるが、「牛山・外山・青山・板場・一之久田・小針村等は、
                 皆都て、山村の郷の曲輪なるべし。」とも記述されている。