尾張守護代として入部した 織田氏について
1.はじめに
桶狭間に於いて駿河 今川義元を打ち倒した織田信長は、その後尾張国内を治め、父信秀が、
成し遂げえなかった美濃の地も治め、天下統一への道へと歩き始めたようです。
しかし、信長以前については、信長公記・前野文書・武功夜話・千代女の書き留め等々が、存在
しているようですが、やや年代があやふやであったり、聞き書きであったり、風聞が書かれていたり
のようであり、確たる立証ができ難いと言う。
こうした点について、岩田書院から論集 戦国大名と国衆 6 尾張織田氏が、2011(平成23年)
年11月に出版された。
この著書により分かった事柄を概略します。
2.尾張守護代としての尾張国入部以降の織田氏について
織田氏は、越前国内の織田荘の荘官として存在していたという。室町期 越前守護として斯波氏が、
任命され、斯波氏は、積極的に荘園の荘官を被官化して、領国支配を目指していたようです。
織田氏もそうした経過で、新しく被官として従うようになっていったという。斯波氏は、管領の一人とし
て越前のみでなく、尾張国・遠江国を含む三国守護として存在し、初期の頃は、尾張国へ守護として
入部したのではなく、守護・守護代は、京に赴任し、守護代の代理(又代)として尾張国へ入部したよう
です。常竹(守護代の弟カ)が、尾張国へ入部し、守護又代として在地で務めていたのではないかと。
その織田守護代家略系図 ( 前掲書 総論 戦国期尾張織田氏の動向 P.18からの抜粋 )
在京 守護代
(逐電)(守護を擁し、幕府より凶徒扱い)
ー 教広@ −−−淳広Bーーー郷広Cーー敏広Eーー寛広 ( 伊勢守家 ○数字は、守護
| (常松) |
|ーー久広D 代の推移順であります。・・
|
ー教長A |
筆者注 )
(常竹カ) |ー大和守某ーーー久長ーーー敏定@ーー寛定Aーー達定Cーー達勝D
(守護又代) (敏広を攻撃)
|ー寛村 B
|ー 達広ーー勝秀
*
尾張国は、室町幕府ー守護体制下、伊勢湾より東国・西国の中継拠点として重視され、初期
は、美濃守護 土岐氏が、伊勢・尾張国の兼任守護であった。その後三代将軍 義満の謀略に
かかり、土岐氏は、尾張守護でなくなり、畠山・今川氏が務め、応永7(1400)年4月頃より、足
利一門で管領家の斯波氏が、越前・遠江・尾張国の守護を兼任。当初尾張守護となった斯波氏
の管轄地は、守護 一色氏が管轄した知多・海東郡を除いた中島・海西・葉栗・丹羽・春日部・愛
智・山田郡の七つであった。永享4(1432)年10月に将軍から海東郡が与えられ八郡となった。
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伊勢守 敏広×大和守 敏定は、応仁・文明の乱(15世紀中以降)時 尾張国内で争う。結果
敏定は、海東郡(西軍の一色氏から没収した地)と敏広が、幕府御領所の山田荘の代官職であっ
た事から山田郡の二郡を割譲されたのでは・・。こうして、清洲城に敏定。岩倉城に敏広。敏広は、
残りを支配したのでしょう。織田家は、二派に別れ、尾張国内で、分割統治していたと思われます。
守護 斯波氏に従って。
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大和守系統 敏定以降 三奉行体制で、大和守系の織田守護代家を盛り立てていったという。その
中の一奉行家であった織田弾正忠系統は、その後海東郡 式外社 津島社のある地域を支配し、そ
の水運に連なる経済上の恩恵を取り入れ、また、天王信仰の拠り所である津島社の後ろ盾となり、そ
の後信長の父 信秀の代には、守護の下、強大化していったと考えられる。
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伊勢守系 岩倉城に居住していた守護代 織田郷広の頃、下記のような事が起こったようであります。
「嘉吉元(1441)年6月6日条によれば、万里小路大納言家雑掌の申すには、尾張六師荘(別名 熊
野荘)の領家は、代官職を直務していた所、織田氏被官人 坂井七郎右衛門入道が乱入し、年貢を催
促するに至ったという。この頃の領家は、万里小路大納言であったようです。
この出来事は、守護代織田伊勢守敏広の父 郷広の被官坂井七郎右衛門入道性通(広道)が万里
小路時房の領地六師
荘を守護代請の代官と称して横領した事。時房は郷広の推挙で性通を代官とし
たが横領行為をやめなかったといい。被官人一人に手こずっていた織田郷広は、一族及び尾張守護よ
り絶縁されたという。 この坂井某は、この辺りの国人であったのだろうか。その為でありましょう。
守護代 織田郷広は、守護 斯波氏及び織田家一統から絶縁され、逐電するに至ったようであります。
この当時は、まだまだ武家が進出してきていたとはいえ、畿内の王権に依拠しつつ、在地でもその領
有を尊重しつつ、守護請・守護代請等々として在地において領家方から公認された収奪機構として存在
できえていたようです。
その後、国衙機構を己の手の内に入れ、領国化し得たと思われ、戦国末期に至って、旧有力社寺等々、
在地の信仰に依拠した農民一揆とも戦国大名は、戦いその旧来の「職」に依拠した古代的な機構を最終
的に壊滅させるに至ったかと。