岩倉市に存在していたであろう 寺院 大山(タイサン)寺を追って

       1.はじめに
          私の住む小牧市篠岡地区の近く 小牧市大山地区には、飛鳥時代頃に 大山(オオヤマ)寺が存在していた
         ようです。今は、大山廃寺として礎石が残り、その当時の様子を偲ぶ事が出来るようです。
          名鉄 犬山線には、岩倉市内に大山寺(タイサンジ)駅がありますが、近くには 大山寺(タイサンジ)なる寺院は
         どこにも存在しません。大山寺(タイサンジ)町として町名には残ってはいますが・・・。

          果たして大山寺(タイサンジ)なる寺院は、存在していたのであろうか。岩倉市図書館で、辛うじて「大山寺」な
         る大山寺郷土史研究会(昭和57年9月15日発刊)の書籍をみつけました。

          古老からの聞き取り、口伝・伝承等や、年代不詳の古文書等から大山寺の存在を世に問うてみえるようで
         あります。

          まず、大山寺郷土史研究会発刊の著書の内容を概略してみようと思います。

       2.「大山寺」 大山寺郷土史研究会(昭和57年9月15日発刊)に記述された大山寺(タイサンジ)について
          結論から言えば、同書 P.1〜2では、{「寺院 大山寺(タイサンジ)」は、丹羽郡式内社 生田神社の神宮寺で
         あったと述べられ、創建については、記述されていませんが、13世紀末には、生田神社・大山寺は、滅亡した
         ようだと。14世紀の初め頃までは、実在していた。}と。

          現 岩倉市大山寺町にあったと述べてみえるかのようです。この地域は、五条川流域であり、寺院 大山寺は、
         現 徳重(米野地区)、坂巻、生田地区を檀家としていたかのようです。

          *この地区は、常に五条川の氾濫地域であり、現在の五条川とは違い、その当時は、木曽川派流の一つであり、水
         量も流量も今とはケタ違いであり、網状に流下していたと推測される。洪水時には、網状の流下域は、場所を変えて
         もいたと思われます。*

          時代は不詳でありますが、現 生田橋よりももう少し下流に生田橋は架かっていたという。その橋辺りが 生田の
         地であったとも。この生田の地は、低地であり、五条川右岸側であったという。五条川の増水時は、氾濫し永住不可
         能な地域でもあったようで、その為生田地域の住民は、芝原村(現 一宮市千秋町芝原・・私の注)へ移住したとも。
                     その移住時、神社の神体も一緒に持っていったと言う。大山寺は、地域門徒の急激な減少により立ち至らなくなり、
                   滅んだのではないかとも。

          そして時は、徳川家康が、会津平定に出兵した時、本願寺 教如上人が、家康出兵の陣中見舞いにと出向かれた
         という。途中 上人俄かの病で、苦しんでいた時 生田主水(モンド 生田の地に関わりがある人物カ・・私の注)なる人
         物が、上人の病を治したという。その為生田主水は、上人より「林證坊」の名を貰ったとか。現 徳重の林證寺は、そ
         の生田主水に因んだ名称であり、かっての主だった大山寺(タイサンジ)門徒等が集まり支援したという。

          この著書では、現 徳重の林證寺は、旧 大山寺(タイサンジ)を引き継ぐお寺であるとも述べてみえるようです。

          同様な事は、岩倉町史にも記述されている。「生田明神社の故地にあった神宮寺」という想定のようであります。

       3.他の著書との比較
          ・ 本国神明帳集説 天野信景著 享保19(1734)年 転写 (愛知県図書館 デジタルライブラリーより引用)
             丹羽郡 式内社 生田天神  井ノ上ノ庄 芝原村
                                食稲魂(ウガノミタマ)神ト云 
                                              *  本著は、宝永4(1707)に成立した。

          ・ 尾張神名帳集説訂考   津田正生著 明治2(1869)年 写 (愛知県図書館 デジタルライブラリーより引用)
             丹羽郡 式内社 生田神社 天神
              (近藤利昌曰) 井の上ノ荘 大ノ山ノ寺村(多位産治 音)に有りしが、今亡ぶ。されど岩倉街道に架る板橋を
                       生田橋という。此橋大山寺村に属す。”伊久多”の橋□に送(ノコ)る。集説本府志に学ぶ。
                        生田天神の神ノ身体有り。芝原村の農家にあるという。(以下略)

              (正生 考)   (略)正字 泰(タイ)ノ産寺の義也。夫より前の旧名也。(以下略)
                                              :* 本著は、嘉永3年(1850年)正月に完成カ。

            *  上記 「大山寺」 大山寺郷土史研究会発刊の内容は、津田正生著「尾張神名帳集説訂考」の”近藤利昌曰”
             の内容とほぼ同一のような気がしますし、尾張藩の藩命で記述された「尾張志」とも内容は、符号しているようで
             す。

              そして、芝原村に生田の門徒衆が、移住したという事柄は、古老の口伝をもとに記載されたのかも知れません。*   

       4.岩倉市 大山寺町の古代以降の地勢の類推
         例証 1
          この地域の近くには、縄文・弥生時代の遺跡が多く存在する。拙稿にもそうした記述をしています。
          例えば、幼川(五条川中上流域の名称)・青木川に挟まれた地域の弥生集落についての覚書 とか、木曽川派流につ
         いては、縄文期・弥生期・古墳期に於ける 木曽川本流及び派流についての覚書 があり参照されたい。

          この大山寺町の近くでは、大地町の大地遺跡や岩倉市北島町・野寄町地内に権現山遺跡があり、平成の御世になり
         発掘調査がされ、この辺りは、木曽川に匹敵する流れがあり、網状に流下していたようです。権現山遺跡を例にすれば、
         「 権現山遺跡
            岩倉市北島町・野寄町地内にあり、五条川右岸 自然堤防上に立地していた遺跡であります。
            これまでの遺跡発掘により、
             @ 縄文時代後期の遺跡・遺物の出土
             A 弥生時代後期〜古墳時代初期の遺跡・遺物の出土
             B 古墳時代後期の遺跡・遺物の出土
             C 奈良時代後期の遺跡・遺物の出土
                ( この間の居住者はなかったのであろうか。・・私の注)
             D 江戸時代後期以降の遺跡・遺物の出土
             と幅広い利用のされ方をしていると言えましょう。現在は、海抜6m程度の平坦な地形になっておりますが、かって
            は、起伏があり、遺跡等は、自然堤防上に立地していたと思われます。また、遺跡も、連続して、継続して存在して
            いたとは思えません。時代時代に空白の期間があったのでは・・・。洪水等で埋まり、再度できた自然堤防上に、再
            構築したのではと。

                            それを裏付けるかのような各種の調査結果がでているようであり、以下そうした調査から得られた結論のみ記載
            いたします。詳しくは、権現山遺跡発掘調査報告書を参照下さい。そのURLを記載しておきます。
                 (    http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1100.pdf )
             まずは、堆積物炭化物の年代測定により 約4500年前から1820年前までの年代測定値が得られたという。
             紀元前2500年前頃から紀元200年頃と推定でき、縄文時代末から弥生時代末・古墳時代初期頃かと推測いたし
            ますが、どうでしょうか。

             花粉化石では、イネ科、アカザ科、アブナラ科の出現率が高いという。
             珪酸体(プラントオパール分析法)の分析では、イネ科の検出は、500〜2200個/gと低値であったという。また、キ
            ビ族型、葦族型も検出したという。

             堆積物の様子から、約4500年前以降の変化について、この遺跡近くには、木曽川に匹敵する流路があり、通常時
            は、網状河川でありますが、突然の河川の流路変更(洪水カ)があり、網状河川が移動し、後背湿地化したり、自然堤
            防へと変化したと思われる変化が、推測出来るという。

             *  やはり、五条川上流域でも大きな洪水が起こったようで、長い年月の間には、河川の流路変更が起こり、土地の
              状況が変化したようです。その為、同一場所の継続した発展は、望むべくもなかったと言えましょうか。また、現在
              の五条川は、水量も僅かであり、まるで小川状態ですが、縄文・弥生期だけではなく、近世初頭までは、木曽川の
              一派流でもあったのでしょう。相当量の水量を流す堂々とした河川であったと推察いたします。*

               弥生時代には、自然堤防化した時、その微高地に村落ができ、しばらくは、生活できえますが、河川の流路変更
              により、自然堤防は、あっという間に後背湿地化の危険も併せ持つという危うい状況下での集落構造であったよう
              です。100年単位程度で一度という確率で起こったことでありましょうか。

               また、この権現山遺跡での水田は、稲作が行われていたようですが、稲作が、全てでは無かったかと。キビ、ア
              ブラナ等の畑作も合わせて行っていたと思われます。権現山に住んでいた後期弥生人は、いったいどのような物
              を食べ、生活を維持させていたのであろうか。縄文人とは、弱冠違った生活サイクルであったであろうが、稲作に
              どの程度比重を置いていたのでしょうか。木の実等も収穫していたのではないかと・・・想像いたしますが・・・。」


               *参考までに、岩倉市史 上巻 昭和60年12月発刊のP、30 図9 幼川(現 五条川の旧河川名)の自然堤防
              と旧河道 によれば、大地辺りに旧河道跡がみられる。
               この河道は、大胆な推測が許されるならば、岩倉市北島・野寄町から発掘された権現山遺跡をかって流れていた
              木曽川に匹敵する河川(旧 幼川本流であった可能性が高い。・・筆者注)であったのでは。現 大地町に残る旧 河
              道跡に続く流れであった可能性を推察いたします。
               とすれば、弥生時代〜奈良時代頃にかけての流れとも推測できましょうか。

               もう一つの旧 河道跡は、曽野辺りを南下し、生田と米野の間を流れ、鹿田辺りへと流下した流れでもあったの
              でしょうか。推測以外の何物でもありませんが・・。「図中 D・A・Bという経路を想定いたします。」(岩倉市史 上
              巻 P、30 図9 参照) その流れの時代は不詳でありますが、奈良時代以降戦国期の間ではなかろうか。
               と考えれば、五条川は、流路が南下している地域の岩倉市域においては、東進傾向にあったと思われます。現
              在の五条川は、図中 D・Aという経路より更に東に移動しているかと。現在の五条川の流路は、天正年間の木
              曽川大洪水時に確定したやもしれません。が、大山寺町を過ぎる頃から五条川は、大曲りし、東西への流れにな
              ります。自然堤防もその東西の流れに沿ってあるようです。江戸天保期の大山寺村小字名にも、”大まがり”という
              地名が付いていたようですから。

                                  現 岩倉市の北隣 師勝町が発刊された 「師勝町史 昭和36年版」 第3章 第二節 師勝町の水田の歴史
              においても同様な主旨の論調でありましょうか。*

           例証 2
            岩倉市教育委員会発行 「岩倉市文化財調査報告書 1 大山寺杮経(コケラキョウ)」なる冊子があります。
            この杮経は、大山寺町小森地内の畑の地下4mから出土した。材質が檜材で、長さ22cm 厚さ0.5mmの板で、
           法華経の一部8巻二十八品が記載されていた。板材は、全部で3591本。二束に分かれ、一束には、「永享11(1439)
           年□□施主□□」の記念銘があり、「道円禅門の追善供養」に書写され、埋納された物と思われると。永享11年は、
           室町時代の年号であり、応仁の乱が起こる30年程前であります。とすれば、室町中期頃には、この辺りにも居住者が
           いた事になりましょうか。
            「この杮経出土地は、現在 五条川の川底になっている。」( 岩倉市史 上巻 P.309 参照 )と記述されていた。

            参考までに、道円禅門の”禅門”とは、禅宗用語であり、俗人のまま剃髪した男子を指し、入道と同意語であるとか。
           或いは、墓碑名にも使われた事もあるようです。現代でいえば、居士・信士の類でありましょう。

            * ここで、注目するのは、地下4mから出土したという事。埋納された物が、洪水の為更に埋まったとも考えられる可能
            性は高いと思われます。また、埋納は、平安時代末期頃の慣習で言えば、神社近くの巌の自然穴やお寺近くではなか
            っただろうか。*

               岩倉市大山寺町は、過去も現在も五条川流域であり、水害の起こりやすい地域であったと思われます。この地域
              が、比較的安定するのは、秀吉・家康による木曽川連続堤が完成した以後でありましょうか。

              *  参考までに、明治時代初期の大山寺村の村域は、西生田・井之株・下流・中流・小森・高畑・石塚・前畑・吸田・西出・
               屋敷・上流・長畑・東出・東岩塚・廻間・西岩塚・神田・東生田 (岩倉市史 上巻 P.123 参照)とか。

                天保12年の村絵図には、小字名として大マガリ・<イクタ>・下海道・<ハサマ>・<ヒガシデ>・スジカエ・ナカジマ・
               ミチジタ・<ナガレ>・<マエバタ>・シヨジ・<コモリ>・ミヤマエ・ハエデ・新田・シラヤマ・<ニシデ>・居屋敷・シルエ・
               出屋敷・コロク・チヨ畑・サギタとなっていた。<>内は、明治期に引き継がれた可能性が高い字名。(岩倉市史 上巻
               P.115 参照)

                天保期と明治初期ころでは、大山寺地域の小字名で、共通しているものもありますが、半数以上は名称が変わっ
               ているようです。是は何を物語っているのであろうか。天保・明治期共に 字名に ナガレ・上流、中流、下流なる名
               称もあり、何やら旧河川の流れを言いえているように私には、思えますが・・・。この旧河川は、先述した曽野辺りを
               南下し、生田と米野の間を流れ、鹿田辺りへと流下した流れでもあったのでしょうか。*

          5.丹羽郡 式内社 生田天神について
             現在 生田天神に上げられているのは
              ・ 生田神社     一宮市千秋町芝原
              ・ 神明生田神社  岩倉市下本町
              ・ 生田明神社   岩倉市大山寺町
              ・ 生田社      北名古屋市徳重米野( 旧 西春町大字徳重字米野 )です。
                ( 上記の神社名は、岩倉市史 上巻 P.279〜288からの抜粋です。)
                岩倉市史では、大山寺町に旧社地ありという説に立脚しているようです。こうした旧社地論争は、当該地が、五
               条川流域であり、氾濫常習地であった事、古代より継続した生活環境を維持出来えない土地柄であり、古文書類
               は紛失しているのか、伝聞・言い伝え等に依拠せざるを得ないようです。
                江戸時代には、尾張藩命により各地で実地調査(聞き取り等)が、されたようです。この事は、”尾張志”にまとめ
               られ記述されている。

               大山寺郷土史研究会発刊の「大山寺」著書も、同様であり、尾張志{宝暦2(1753)年の漢文調の「張州府志」を脱
              し、平易な和文調の著書として天保15(1844)年に成立した。}やら尾張神名帳集説訂考(津田正生著)に依拠しつつ、
              記述された事と推察いたします。

               とすれば、一宮市千秋町芝原の生田神社は、旧社地の生田天神を祭る地域住民の、移住による分社と認めるの
              が妥当でありましょうか。移住時期は、不詳。

               では、旧社地 生田の地をどこに比定するかということになりましょう。しかし、五条川流域の江戸時代初期までは、
              現 五条川は、古来より木曽川派流の一つであり、流路は、一定ではなく時代時代で移動していたと思われます。
               継続して当地域は生活出来えない状況下であったのでしょう。
               大山寺町小森地内の畑地 地下4mから発掘された永享11(1439)年の記銘のある「杮経」も、埋納され、更に
              洪水等により埋もれたと考える事が出来ましょうか。
              
           6.むすび
              大山寺(タイサンジ)という寺院の存在は、古書等からは実在を確認出来えていない。仮説の域をでていないのが、現状
             でありましょう。
              只、「熊野修験」 宮家 準著 吉川弘文館 平成4年刊に{久保山から更に東へ行ったところにある小松寺は、「熊野
             修験」 P.166に、「室町期・戦国期の先達に、小松寺(小牧市 真言宗 境内に熊野社)の蓮光院とあり、更には、春日
             部郷(春日井・小牧市)の檀那(熊野に参詣したり、寄進する人の事であるようです。・・筆者注)を導いた大山寺(小牧市
             天台宗)の大進坊なる。」記述があります。}今もって、”大山寺の大進坊”が、小牧市大山の地の寺と判断されているの
             か、どのような経緯でこのように判断を宮家氏は下されたのかは、理解できないでいます。

              * 普通に考えれば、同書に記載された大山寺は、小牧市大山の山中にあったという大山寺(オオヤマデラ)でありましょう
              が、この大山寺は、室町期の初期頃までは存続が認められますが、室町期三代将軍義満以降頃には消滅していた可
              能性が高いのでは・・・。実際は不明でありますが・・・。
              
               不思議な事に、岩倉市大山寺(タイサンジ)町にも、寺院の痕跡は認められませんが、町名として大山寺として寺名が、
              町名に残っております。
               その東寄りには、熊野荘の名残りらしき熊之庄なる名称の残る地区があり、地区には熊野中学校名もあり、地名と
              しても熊之庄小鳥とか、熊之庄小鳥北なる名が現在でもあります。
               この地域には、伝承でしょうか平安末期 平清盛の長子 平重盛の荘園があった地域とも伝えられているとか。
               一説には、現 小牧市多気(オオケ)神社は、熊野権現とも云われていたとか。平安末期は、貴族・武士もこぞって熊
              野詣をおこなっていた。室町期には、先達が、地域の旦那衆を連れ、熊野へ詣でていた事が知られる。*
             
               それ故、岩倉市大山寺(タイサンジ)町の事。「熊野修験」に記載された”大山寺の大進坊”なる室町・戦国期の先達は、
              小牧市大山の大山寺(オオヤマデラ)でありましょうが、もしかするとこの岩倉市の大山寺(タイサンジ)の可能性については、
              まったく無いのであろうか・・。こちらであれば・・・・・・・。

               「熊野修験」の著者は、大山寺なる先達が願文として熊野御師(オシ)に渡されたその文を参照されて記述されたと推
              測致します。その願文とは、「檀那名 参詣年月日 先達名 御師名」が記載された文のことでありましょうから。
               決着は、後日に期したい。もし、岩倉市の大山寺(タイサンジ)であれば、古書類としてその存在が確認されることになり
              ましょうから。

                                                                 平成26年10月25日  脱稿
                                                                 平成26年11月23日一部加筆